一九九〇年代初頭以降の日本の成長率の低下の原因と取るべき政策対応を巡っては、多くの議論が行われてきた。最初の頃は、成長率の低下は一時的であり、やがて元の成長軌道に戻るとの楽観論が支配的だった。バブル崩壊の影響は軽視されていた。次に登場したのはバブル崩壊に伴う不良債権問題が景気回復の足を引っ張っているという議論だった。バブル崩壊の影響は次第に深刻化していき、金融危機は一九九七年から九八年にかけて頂点に達した。金融機関の経営者や政策当局者の間には手詰まり感が広がったが、不良債権問題さえ片付けば経済は元の成長軌道に復帰すると考える点では、まだ楽観論が残っていたとも言える。
しかし、やがて成長率の趨勢的な低下は誰の目にも明らかになっていき、喧々囂々の経済論争が起きた。そのひとつの流れは復活の目覚ましい米国経済に範を取り市場主義的な経済政策を採用すべきという議論であり、もうひとつの流れは、私は同意できなかったが、デフレが低成長の原因であるとの認識から「大胆な金融緩和」を求める議論だった。
後者の議論は次第に影響力を増し、二〇一三年初めにはピークに達した。その結果、二〇一三年以降、日本銀行による大規模な実験的な金融緩和政策が実行に移された。しかし、物価も成長率も上がらず、遅まきながら金融緩和が答えでないことは誰の目にも明らかになった。
我々は一体何をすべきなのだろうか。議論のポイントは二つある。第一は、経済のメカニズムに即して、そもそも何が正解かというものだ。第二は、望ましい政策が何であれ、その政策は選挙の際、国民によって支持されるかというものだ。昔から効率性と分配の公平性のバランスは議論されてきたが、現在の議論の核心は両者のトレードオフ論ではない。効率性は大事だが、労働分配率の低下や格差の拡大が成長率低下の一因にもなっているのではないかという問題意識である。日本は米国に比べまだましとは言え、社会の分断現象の強まりは、コンセンサスの形成を難しくしている。正解はこの連立方程式を満たすものでなければならない。
河野龍太郎氏の『日本経済の死角』はこの難問を考えるのに必要な事実と論理と歴史的パースペクティブを与えてくれる極めて示唆に富む著作である。多くの読者が最も衝撃を受けるのは、日本では過去四半世紀、時間当たり労働生産性は三割上昇したが、時間当たり実質賃金は横這いという事実である。両者のギャップという点では、日本は際立っている。この事実はあまり認識されていない。認識されていても、中小零細企業の問題だと受け止められている。大企業に勤める正規雇用労働者は長期雇用の下で定昇により属人ベースの実質所得は毎年増加するが、ベアなしの下では生産性上昇の恩恵には浴していない。その結果、大企業でも現在の課長や部長の実質賃金は四半世紀前の同じ役職者に比べ低下している。こうした事実を出発点に、日本経済の復活の鍵を握るとされている海外投資、雇用制度改革、コーポレート・ガバナンス改革、イノベーション等が日本経済の復活に繋がるのか、繋がるとすればどのような条件が必要となるかが議論されている。
著者は、実質賃金が抑えられているのは生産性が低いからではなく、「収奪的」な社会制度が採られているからと説く。「収奪的」という、五十年ほど前の学生運動を思わせる言葉は、成長の果実が一部の人に集中し、社会全体に均霑しない事態を指している。非正規労働の増加はその一例である。現在、イノベーションによる生産性向上が希望の星として語られるが、著者はイノベーションも方向性を収奪性のものから包摂性のものに変えない限り、解決策とはならないと主張する。この短い要約だけでは読者は収奪的、包摂的という言葉の指す内容の具体的イメージを掴むことは難しいと思うが、本書を読み進むにつれ、読者は多くの「死角」に気付かされると思う。
『日本経済の死角 ──収奪的システムを解き明かす』目次
第1章 生産性が上がっても実質賃金が上がらない理由
1 なぜ収奪的な経済システムに転落したのか
2 コーポレートガバナンス改革の罠
3 再考 バラッサ・サミュエルソン効果
第2章 定期昇給の下での実質ゼロベアの罠
1 大企業経営者はゼロベアの弊害になぜ気づかないのか
2 実質ゼロベアの様々な弊害
第3章 対外直接投資の落とし穴
1 海外投資の国内経済への恩恵はあるのか
2 対外投資は本当に儲かっているのか
第4章 労働市場の構造変化と日銀の二つの誤算
1 安価な労働力の大量出現という第一の誤算
2 もう一つの誤算は残業規制のインパクト
3 消費者余剰の消滅とアンチ・エスタブリッシュメント政党の台頭
第5章 労働法制変更のマクロ経済への衝撃
1 1990年代の成長の下方屈折の真の理由
2 再考なぜ過剰問題が広範囲に広がったか
第6章 コーポレートガバナンス改革の陥穽と長期雇用制の行方
1 もう一つの成長阻害要因
2 略奪される企業価値
3 漸進的な雇用制度改革の構想
第7章 イノベーションを社会はどう飼いならすか
1 イノベーションは本来、収奪的
2 野生的なイノベーションをどう飼いならすか