2大政党の相互不信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 17:46 UTC 版)
「第一共和国 (オーストリア)」の記事における「2大政党の相互不信」の解説
詳細は「2月内乱」を参照 共和国において二大政党を形成した社会民主党とキリスト教社会党は、連立解消後、しだいに対立を深めていく。社会民主党が都市部とそこに居住する労働者を支持基盤とし、特に首都ウィーンにおいて1919年以来市政を支配し「赤いウィーン」と称されたのに対し、キリスト教社会党はカトリック教会と結びつき、上層階級や地方の地主・農民層を主な支持基盤としていた。それぞれの党を支持する社会主義者(社会民主主義者)と保守主義者は、同時にそれぞれの(準)軍事組織を有しており、保守派は1921年以降「護国軍」、社会民主党・社会主義者たちは1923年「防衛同盟」(共和国保護同盟)を組織して両者の間では小競り合いや、場合によっては武力衝突などが頻繁に発生するようになり、社会不安を醸成した。 世界恐慌の波及による経済混乱の中で、隣国のドイツでヒトラーのナチス政権が成立すると、ナチズムに共鳴しナチス・ドイツとの合邦を求める声が保守派を中心に高まるようになり、共和国は内側からの危機に苦しむこととなった。1932年4月に首相に就任したキリスト教社会党出身のドルフスは、世界恐慌にデフレ政策で対処しようとしたが、議会では第一党の社会民主党を始めとする多数野党の抵抗によりその政策を実行することは出来なかった。このためドルフスは、自らの独裁体制を強化することで危機を切り抜ける方向に進むこととなった。 ドルフス首相はまず、1933年3月4日に議会を停止し、法令による政治に転換したが、これにより社会民主党は主要な政治的活動の場を奪われた。一方、彼はアンシュルスを標榜し自分の独裁を脅かしかねないナチス勢力の活動を同年6月に禁止した。9月には、キリスト教社会党と護国団を統合して「祖国戦線」(Vaterländische Front)が発足し、政権を支援するための体制作りが進められた。そして社会民主党および「防衛同盟」に対しては挑発的な弾圧が頻繁に行われるようになり、1934年2月に防衛同盟が解散を命じられると、彼らはこの挑発に応えて武装蜂起し、ウィーンを始めとする主要都市で保守派・護国団との間で市街戦が展開された。しかしこの市街戦は防衛同盟・社会民主党の敗北に終わり、蜂起を指導していたバウアー外相ら社会民主党の指導者は亡命を余儀なくされ、1,000人以上の市民が死傷し、1,500人が逮捕、防衛同盟の9名が裁判にかけられ処刑となった。社会民主党やその系列の労働組合は活動禁止となり、国内組織は壊滅した。ついで4月30日にはイタリア・ファシズムにならった新憲法の制定とともに国号が「オーストリア連邦国」と改称され、ドルフスの権威主義的独裁体制は確立された。
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