波及効果
波及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 09:38 UTC 版)
初期の写生文の主な寄稿者には子規・虚子のほか、河東碧梧桐、内藤鳴雪、坂本四方太、松瀬青々、寒川鼠骨などがいた。特に鼠骨は自らの投獄体験をもとに「新囚人」(1901年)という写生文を書いて子規に激賞されており、『ホトトギス』にも掲載されたこの作品は写生文の名を高めた。また学者でもあった四方太は写生文の特徴を緻密に考察し、実作・理論の両面で写生文運動を牽引した。子規の没後には、鼠骨『写生文』、虚子編『写生文集』(ともに1903年)、又間安次郎『写生文と俳文』(1906年)、鼠骨『写生文の作法』、四方太編『続写生文集』(ともに1907年)と、写生文に関する書物が相次いで刊行され、これらによって写生文運動は一気に世の中に広がっていった。 上記のような子規周辺の人物による寄稿のほか、『ホトトギス』には「酒」「旅」「犬」など、毎号異なった題による短文の一般募集も行われており、これらの募集された文は『寒玉集』(1900年)などとして出版もされた。しかしこの短文募集はしだいにマンネリ化したため、1900年10月以降「趣味ある事実の写生」による日記文の募集に変更されている。この日記文には教師や学生をはじめ、会社員、婦女子、税官吏、技師など多様な人々からの寄稿があり写生文運動の広がりを示している。 1906年、子規のグループの俳人でもあった夏目漱石が『吾輩は猫である』で小説家としてデビューするが、この作品はもともと「山会」で発表された写生文であり、好評を受けて『ホトトギス』に掲載されたものである。漱石はのちに、描写対象と一定の距離をおいて書かれる写生文の特徴から「余裕派」という概念を生み出した。写生文運動の影響下で小説を書いたものには漱石・虚子のほかにも伊藤左千夫、長塚節などがおり「写生文派」とも呼ばれた。寺田寅彦、鈴木三重吉、野上弥生子といった作家・文章家も写生文運動の影響下から出発している。 明治40年代からは写生文は高等教育における作文指導に取り入れられるようになり、この流れはまたたく間に小学校の作文教育にまで広まっていった。この頃出た多くの一般向けの文章指南書の範例集といった実用書にも写生文が多数取り入れられ、文章上達の一分野として広く認知されていたことを示している。特に『ホトトギス』の読者には小学校教師が多かったことから、小学校の作文指導への影響は強かったものと見られ、この流れは「事実をありのままに書く」ということを主軸としてきた今日に至るまでの作文教育の源流をなしているものと考えられる。
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