『村上家文書』(1696)
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「于山島」の記事における「『村上家文書』(1696)」の解説
1696年(元禄9年)5月、日本の隠岐に安龍福ら11人を乗せた朝鮮船が着岸。取り調べたところ、安龍福は『朝鮮八道之図』を示し、日本で呼んでいる竹島は鬱陵島であり、松島は子山(于山)という島であって朝鮮領に属するとし、自分たちは伯耆守へ訴願するためここへ立ち寄ったと説明している。当時の日本では鬱陵島の事を竹島、現在の竹島のことを松島と呼んでおり、この時安龍福が話した内容の記録が隠岐の村上家文書に残っている。 鬱陵島と朝鮮本土の距離が30里(約12km)、鬱陵島と于山島の距離が50里(約20km)で、鬱陵島から于山島まで船でその日の内に着くと言っているが、実際の鬱陵島と朝鮮本土との距離は約140km、鬱陵島と現在の竹島(松島)の距離は約90kmで大きく食い違っている。安龍福は鬱陵島には何度も渡っていることから、おおよその距離は把握していると考えられ、この違いは鬱陵島と于山島と呼ばれる島を朝鮮領としたいがために、全体に朝鮮本土側へ寄せ偽証したとも言われている。しかし、安龍福の証言する距離の比を実際の距離に当てはめてみても、やはりかなり食い違っている。また彼は朝鮮八道之図に鬱陵島と子山(于山島)を記し、松島を経由したように言っているが、この当時発行されている朝鮮の地図朝鮮八道古今総覧図には最初から鬱陵島が描かれており、鬱陵島の北には実在しない于山島も描かれている。村上家文書には安龍福から聞き取ったと見られる「朝鮮の八道」の名称を列記したものもあり、江原道の文字の下だけに「此道ノ中ニ竹嶋松嶋有之」と書き留められている。安龍福の、鬱陵島と実在しない于山島を朝鮮領にしようとする強い意気込みが、読み取れる。 なお、朝鮮側は、安龍福は漂風の愚民であって政府の関知するところではない、としており、後の対馬藩の『朝鮮通交大紀』には安龍福が勝手に日本に提出した文書について朝鮮側は「妄作の罪あり」としている。 原文 元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書(略)一 安龍福申候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋と申朝鮮国江原道東莱府ノ内ニ欝陵嶋と申島御座候是ヲ竹ノ嶋と申由申候則八道ノ図ニ記之所持候一 松嶋ハ右同道之内子山と申嶋御座候是ヲ松嶋と申由是も八道之図ニ記申候(略)一 ……五月十五日竹嶋出船同日松島江着同十六日松嶋ヲ出十八日之朝隠岐嶋内西村礒へ着…… 一 竹嶋と朝鮮之間三十里竹嶋と松嶋之間五十里在之由申候 現代文 元禄九年 丙子の年 朝鮮船着岸 一巻の覚書(略)一 安龍福が言うには、竹島を竹ノ島と言う。朝鮮国江原道東莱府の中に鬱陵島と言う島があり、これを竹ノ島と言うからだと言うので、それで八道ノ図に記しこれを所持している。一 松島は右の江原道のうち子山と言う島であり、これを松島と言うのでこれも八道之図に記したと言っております。(略)一 ……五月十五日竹島を出船、同日松島へ着、同十六日松島を出て、十八日の朝隠岐島の中の西村の磯へ着。…… 一 竹島と朝鮮の間は三十里、竹島と松島の間は五十里あると言っております。
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