イタリア戦役第二段階(541年~554年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 02:20 UTC 版)
「ユスティニアヌス1世」の記事における「イタリア戦役第二段階(541年~554年)」の解説
軍事的努力が東方へ集中している間にイタリアの情勢は悪化していた。イルディバルド王、エラリーコ王(両人とも541年に殺害)そしてとりわけトーティラ王のもとで東ゴートは急速に領土を拡大した。542年のファエンツァの戦いでの勝利の後、東ゴートは南イタリアの主要都市を奪回し、すぐに半島の大半を確保した。ベリサリウスは544年後半に戻されたが、十分な兵力は持たなかった。前進することができず、彼は548年に指揮権を交替させられた。この期間にローマ市は3度主を変えており、まず546年に東ゴートに占領され人口が激減し、次に547年に東ローマがこれを奪回し、そして550年1月に東ゴートが奪い返している。また、トーティラ王はシチリアを略奪し、ギリシャ沿岸を襲撃までしている。 最終的にユスティニアヌスはナルセスに兵35,000(内2000人は西ゴート王国のスペイン南部へ分遣されている)を与えて派遣した。東ローマ軍は552年6月にラヴェンナに達し、アペニン山脈のブスタ・ガッローウムの戦いで決定的な勝利を収めてトーティラを殺害した。東ゴートはテーイアを王に戴いてなおも抵抗を続けたが、同年10月に行われたラクタリウス山の戦いで遂に壊滅した。 554年にはフランク族の大規模な侵攻をウォルトゥルヌスで撃退して帝国はイタリアを確保したものの、ナルセスは東ゴート残党の完全な平定になお数年を要している。戦争終結時にイタリアには16,000人の兵士が駐留しており、帝国はイタリア回復のために金30万ポンドの出費をしている。
※この「イタリア戦役第二段階(541年~554年)」の解説は、「ユスティニアヌス1世」の解説の一部です。
「イタリア戦役第二段階(541年~554年)」を含む「ユスティニアヌス1世」の記事については、「ユスティニアヌス1世」の概要を参照ください。
- イタリア戦役第二段階のページへのリンク