イタリア戦線の敗退
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「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「イタリア戦線の敗退」の解説
詳細は「ソルフェリーノの戦い」を参照 1815年のウィーン会議の結果、北イタリアに位置するロンバルディアとヴェネトはオーストリア帝国に帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義の高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動が盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた。 そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフは、1856年11月17日から4か月間にわたり、皇后エリーザベトを伴って北イタリアへの巡幸を行った。ヴェネツィアでは、ロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めていたラデツキー元帥との再会を果たした。北イタリアに睨みを利かせていたラデツキー元帥は90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフはラデツキー元帥の任務を解き、自身の弟マクシミリアン大公を後任の副王に就かせた。 マクシミリアン大公はサルデーニャ王国とフランスとの間に頻繁な接触があることを察知し、ウィーンの政府に相手を挑発しないよう警告したが、強硬派のオーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタインは状況を正確に判断することなく、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリア領ロンバルディアから撤退するよう最後通牒を突きつけた。皇帝の侍従長はジュライ・フェレンツ・ヨージェフ(ドイツ語版)伯爵を総司令官に抜擢したが、ジュライはマクシミリアン大公が無能と評する人物であった。数ではサルデーニャ・フランス連合軍に勝っていたものの、ジュライ将軍を含めてオーストリア軍の士気は低く、軍備も不足していたことから、1859年6月4日のマジェンタの戦いで退却を余儀なくされ、ロンバルディアの要衝ミラノを奪われてしまう。6月18日にフランツ・ヨーゼフはジュライ将軍を解任し、自ら指揮を執ることを軍隊に公表した。 ソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフは陣営を鼓舞して回ったが、砲弾も食糧も不足する中で敗戦を喫する。7月11日、ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた。会談の結果、ヴェネトはオーストリア領のまま維持し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲することとなった。トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国の亡命君主の復位も取り決められたが、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国に併合される。
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イタリア戦線の敗退
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「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「イタリア戦線の敗退」の解説
詳細は「ソルフェリーノの戦い」を参照 1815年のウィーン会議の結果、北イタリアに位置するロンバルディアとヴェネトはオーストリア帝国に帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義の高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動が盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた。 そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフは、1856年11月17日から4か月間にわたり、皇后エリーザベトを伴って北イタリアへの巡幸を行った。ヴェネツィアでは、ロンバルド=ヴェネト王国の副王を務めていたラデツキー元帥との再会を果たした。北イタリアに睨みを利かせていたラデツキー元帥は90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフはラデツキー元帥の任務を解き、自身の弟マクシミリアン大公を後任の副王に就かせた。 マクシミリアン大公はサルデーニャ王国とフランスとの間に頻繁な接触があることを察知し、ウィーンの政府に相手を挑発しないよう警告したが、強硬派のオーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタインは状況を正確に判断することなく、サルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリア領ロンバルディアから撤退するよう最後通牒を突きつけた。皇帝の侍従長はジュライ・フェレンツ・ヨージェフ(ドイツ語版)伯爵を総司令官に抜擢したが、ジュライはマクシミリアン大公が無能と評する人物であった。数ではサルデーニャ・フランス連合軍に勝っていたものの、ジュライ将軍を含めてオーストリア軍の士気は低く、軍備も不足していたことから、1859年6月4日のマジェンタの戦いで退却を余儀なくされ、ロンバルディアの要衝ミラノを奪われてしまう。6月18日にフランツ・ヨーゼフはジュライ将軍を解任し、自ら指揮を執ることを軍隊に公表した。 ソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフは陣営を鼓舞して回ったが、砲弾も食糧も不足する中で敗戦を喫する。7月11日、ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた。会談の結果、ヴェネトはオーストリア領のまま維持し、ロンバルディアはサルデーニャ王国に割譲することとなった。トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国の亡命君主の復位も取り決められたが、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国に併合される。
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