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イタリア戦線の敗退とは? わかりやすく解説

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イタリア戦線の敗退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:41 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世」の記事における「イタリア戦線の敗退」の解説

詳細は「ソルフェリーノの戦い」を参照 1815年ウィーン会議結果北イタリア位置するロンバルディアヴェネトオーストリア帝国帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた。 そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフは、1856年11月17日から4か月間にわたり、皇后エリーザベト伴って北イタリアへの巡幸行ったヴェネツィアでは、ロンバルド=ヴェネト王国副王務めていたラデツキー元帥との再会果たした北イタリア睨み利かせていたラデツキー元帥90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフラデツキー元帥任務解き自身の弟マクシミリアン大公後任副王に就かせた。 マクシミリアン大公サルデーニャ王国フランスとの間に頻繁な接触があることを察知しウィーン政府相手挑発ないよう警告したが、強硬派オーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン状況正確に判断することなくサルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリアロンバルディアから撤退するよう最後通牒突きつけた。皇帝侍従長はジュライ・フェレンツ・ヨージェフ(ドイツ語版伯爵総司令官抜擢したが、ジュライマクシミリアン大公無能評する人物であった。数ではサルデーニャ・フランス連合軍勝っていたものの、ジュライ将軍含めてオーストリア軍士気低く軍備不足していたことから、1859年6月4日マジェンタの戦い退却余儀なくされ、ロンバルディア要衝ミラノ奪われてしまう。6月18日フランツ・ヨーゼフジュライ将軍解任し、自ら指揮執ることを軍隊公表したソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフ陣営鼓舞して回ったが、砲弾食糧不足する中で敗戦喫する7月11日ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた。会談結果ヴェネトオーストリア領のまま維持しロンバルディアサルデーニャ王国割譲することとなったトスカーナ大公国モデナ公国パルマ公国亡命君主復位取り決められたが、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国併合される

※この「イタリア戦線の敗退」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世」の解説の一部です。
「イタリア戦線の敗退」を含む「フランツ・ヨーゼフ1世」の記事については、「フランツ・ヨーゼフ1世」の概要を参照ください。


イタリア戦線の敗退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:46 UTC 版)

フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の記事における「イタリア戦線の敗退」の解説

詳細は「ソルフェリーノの戦い」を参照 1815年ウィーン会議結果北イタリア位置するロンバルディアヴェネトオーストリア帝国帰属することとなり、ロンバルド=ヴェネト王国となっていた。しかし、イタリア民族主義高まりから、現地ではオーストリアからの分離運動盛んに行われるようになっており、フランス皇帝ナポレオン3世がこれを密かに支援していた。 そこで、政情不安を和らげるためにフランツ・ヨーゼフは、1856年11月17日から4か月間にわたり、皇后エリーザベト伴って北イタリアへの巡幸行ったヴェネツィアでは、ロンバルド=ヴェネト王国副王務めていたラデツキー元帥との再会果たした北イタリア睨み利かせていたラデツキー元帥90歳の高齢となっており、著しく老衰していた。そこでフランツ・ヨーゼフラデツキー元帥任務解き自身の弟マクシミリアン大公後任副王に就かせた。 マクシミリアン大公サルデーニャ王国フランスとの間に頻繁な接触があることを察知しウィーン政府相手挑発ないよう警告したが、強硬派オーストリア外相カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン状況正確に判断することなくサルデーニャヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に対してオーストリアロンバルディアから撤退するよう最後通牒突きつけた。皇帝侍従長はジュライ・フェレンツ・ヨージェフ(ドイツ語版伯爵総司令官抜擢したが、ジュライマクシミリアン大公無能評する人物であった。数ではサルデーニャ・フランス連合軍勝っていたものの、ジュライ将軍含めてオーストリア軍士気低く軍備不足していたことから、1859年6月4日マジェンタの戦い退却余儀なくされ、ロンバルディア要衝ミラノ奪われてしまう。6月18日フランツ・ヨーゼフジュライ将軍解任し、自ら指揮執ることを軍隊公表したソルフェリーノの戦いにおいてフランツ・ヨーゼフ陣営鼓舞して回ったが、砲弾食糧不足する中で敗戦喫する7月11日ヴィッラフランカ・ディ・ヴェローナの地においてナポレオン3世との交渉の場が設けられた。会談結果ヴェネトオーストリア領のまま維持しロンバルディアサルデーニャ王国割譲することとなったトスカーナ大公国モデナ公国パルマ公国亡命君主復位取り決められたが、その翌年には国民投票によっていずれもサルデーニャ王国併合される

※この「イタリア戦線の敗退」の解説は、「フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)」の解説の一部です。
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