オリエンタリズムから脱却したチベット学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:26 UTC 版)
「チベット学」の記事における「オリエンタリズムから脱却したチベット学」の解説
1950年代の中国によるチベット侵攻とそれに続くチベット動乱によって、1959年以降、多数のチベット人が国外へ亡命し、チベット学は一変した。ロックフェラー財団は亡命チベット人学者を7か国に送りチベット研究を推進させるプロジェクトを起こした。例えばデシュン・リンポチェ(英語版)はワシントン大学へ、ナムカイ・ノルブ・リンポチェ(英語版)はローマのイタリア中東極東研究所へ、サムテン・カルメイ(英語版)はロンドン大学へ、タルツェ・リンポチェとケツンサンポ・リンポチェは東洋文庫に迎えられた。 このデシュン・リンポチェに学んだデイヴィット・ジャクソンやジーン・スミス(英語版)はチベット学を一変させた。特にジーン・スミスは米国の公法480(PL480)と呼ばれる食糧援助プログラムにより、亡命チベットのテキストを多量に印刷し、それらは米国議会図書館に収集され、世界宗教高等研究所(IASWR)がその収集本をマイクロフィッシュ化して1977年から公開した。これにより多量のチベット文献が比較的容易に閲覧できるようになり、チベット学は飛躍的に推進された。さらに1999年に設立されたチベット仏教資料センター (TBRC)が膨大なチベット文献をネット上で容易に閲覧できるように公開した。 ロックフェラー財団のプロジェクトも、公法480も政策としては明らかにバルフォア宣言を受けて米国が「近東諸語によるあらゆる重要な著作」を入手しようとした「文化関係政策」と同様のものである。 1970年から2001年までハンブルク大学でネパールのサンスクリットとチベット語写本をマイクロフィルム化し目録化するプロジェクトが行われた。現在その目録が公開されている。インド北西部スピティ地方のタボ寺(英語版)で、1990年にウィーン大学とイタリア中東極東研究所によって本格的な調査が行われ、多量の古文書が発見された。これらはタポ寺文書などと呼ばれ、敦煌文書のように古形を保存する文献として注目されている。タポ寺文書を含む西ヒマラヤ写本調査研究がウィーン大学で精力的になされている。これはカンギュル・テンギュルも含むチベット文献の総合研究で、特にカンギュル研究は他の追従を許さない徹底的なものである。最近にデータベースが公開され諸本目録が比較参照できるようになるなど日々進化している。 中国の文革によってチベット本土の文献はほとんど消滅したが、一部の文献が北京民族文化宮チベット文献図書館に保存されていた。これらの目録が出版され、ペルツェク・チベット古籍研究室からカダム文献など散逸したと思われていた膨大な文献が精力的に出版されている。 敦煌文書については、1994年に国際敦煌プロジェクト (IDP) が設立され、1998年にデータベースが公開された。これにより敦煌文書もネット上で容易に閲覧できるようになった。
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