カリフの地位の要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/10 15:26 UTC 版)
「アブドゥッラー・イブン・アリー」の記事における「カリフの地位の要求」の解説
ジャズィーラ地方ではウマイヤ家の支持者の反乱が再発するが、アブドゥッラーは数年をかけてシリアに住む有力なアラブの部族長たちの忠誠を確保し、シリアでは平穏が保たれた。754年6月にサッファーフが没した時、アブドゥッラーはアブー・ジャアファル、東方で勝利を収めたアブー・ムスリムと並ぶアッバース朝内の有力者に数えられていた。サッファーフはメッカ巡礼の途上で没し、兄のアブー・ジャアファルを後継者に指名した。サッファーフが没した当時、アブドゥッラーはビザンツ帝国]領への遠征の準備を進め、シリア北部に駐屯していた。アブドゥッラーは、かつてサッファーフがマルワーン2世の撃破と引き換えに自分を後継者に指名する約束を交わしたことを主張し、カリフの地位を要求した。サッファーフとの間に交わされていた約束を認める人間は少なからずおり、彼らはアブドゥッラーに忠誠を誓ったと言われている。 アブドゥッラーの軍がイラクへの進軍を開始したとき、マンスールはアブー・ムスリムに助けを求めた。マンスールはアブー・ムスリムに疑いの目を向けていたが、アッバース革命で主要な役割を果たしたホラーサーン兵から絶大な人気を誇るアブー・ムスリムは、ホラーサーン軍出身の司令官のほとんどをマンスールの側に付けることができた。754年11月、アブドゥッラーとアブー・ムスリムはニシビス(ヌサイビン、ナシービーン(英語版))で対陣する。アブー・ムスリムはアブドゥッラーの指揮下に置かれていたホラーサーン兵を自軍に寝返らせようと試みたが、アブドゥッラーはホラーサーン兵の忠誠を疑い、彼らを殺害した。K.V. Zetterstéenは、アブドゥッラーはホラーサーン兵がアブー・ムスリムとの戦闘を拒むことを恐れ、軍内にいた17,000人のホラーサーン兵を殺害したと述べている。ホラーサーン兵を殺害したアブドゥッラーの元にはアブドゥッラーとアブー・ムスリムいずれともつながりを持たないシリア出身の兵士が残った。アブー・ムスリムは自分はマンスールからシリア総督に任命されたため任地に赴いているといった書面をシリア兵に宛てて出し、マンスールからの処罰が家族にも及ぶことを恐れたシリア兵は逃走した。歴史家Hugh N. Kennedyの言葉を借りれば、アブドゥッラーは「味方のすべてを疑い、戦闘が本格化する前に敗走し」、バスラの知事を務める兄弟のスライマーンに庇護を求めた。 スライマーンが総督を解任されるまでの間、アブドゥッラーは2年の間バスラにとどまった。スライマーンからの赦免の願い出を聞き入れたマンスールはアブドゥッラーの安全を保障する書状を送るが、マンスールの元に出頭したアブドゥッラーは投獄され、獄死した。捕らえられたアブドゥッラーはマンスールが建てた家に住まわされたが、土台が塩でできていた家は水を流し込まれた時に崩れ落ち、アブドゥッラーは家屋の崩壊に巻き込まれて圧死したとも伝えられている。 アブドゥッラーの死後、シリア総督の地位は兄弟のサーリフが継承し、サーリフとその一族は半世紀にわたってアッバース朝にとって最も重要な地域を統治した。
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