テキストと作者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 08:55 UTC 版)
『マーリンの誕生』が最初に出版されたのは1662年の「四折版」で、出版したのは書籍商フランシス・カークマン(Francis Kirkman)とヘンリー・マーシュ、印刷はトマス・ジョンソン、作者はウィリアム・シェイクスピアとウィリアム・ローリイ(William Rowley)とされていた。17世紀にシェイクスピアの合作作品として出版されたものは、『マーリンの誕生』と『二人の貴公子』の2作である。多くの研究者は作者をシェイクスピアとすることに反対しており、この劇はローリイがおそらく別の作家と合作したものだろうと見ている。『マーリンの誕生』は現代でも時折再演されることがある(Clwyd Theatr Cymruなどで)。 『マーリンの誕生』は、ボーモント&フレッチャーの正典に含まれる『Cupid's Revenge』と関連がある。行方不明の姫、統治者とその後継者が同じ女性に恋するなど、広範囲にわたってプロットが似ていて、共通の材源を持っているのかも知れない。それは両方の劇に出てくる特定の行、節から裏付けることもできうる。たとえば、「Wilde-fire and Brimstone eat thee!」(『マーリン』第3幕第6場108行)と「wild-fire and brimstone take thee」(『Cupid』第5幕第2場49行)がそうである。他にも『マーリン』の第2幕第2場35-39行、72-81行、第3幕第6場83-84行と、『Cupid』の第1幕第5場5-11行、第4幕第1場2-7行、第5幕第2場44-48行が、それぞれ共通の節を持っている。この共有性を最初に見つけた評論家たちは『マーリンの誕生』はボーモント&フレッチャーだと主張した。しかし、この説は研究者・評論家の同意を得られていない。共有する部分がある以外、ボーモント&フレッチャーが書いたという証拠は何もないからである。当時の戯曲には同じ材源から借りてきたと見られる共通の節が見つかることが時々ある。たとえば、シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』には、トマス・ノース(Thomas North)によるプルタルコス『対比列伝』の英訳から借りてきた一節が出てくる。創作年代については両作品とも不確かだが、『Cupid's Revenge』が先で、『マーリン』の作者あるいは作者たちがボーモント&フレッチャーの影響を受けたように見える。
※この「テキストと作者」の解説は、「マーリンの誕生」の解説の一部です。
「テキストと作者」を含む「マーリンの誕生」の記事については、「マーリンの誕生」の概要を参照ください。
テキストと作者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 09:02 UTC 版)
「フェヴァーシャムのアーデン」の記事における「テキストと作者」の解説
この劇は当時、匿名で、1592年(Q1)、1599年(Q2)、1633年(Q3)の3回「四折版」として出版されている。最後の出版は、その年、大判紙にアリス視点で書かれたバラッドが載ったことから出された。どの表紙にも上演や劇団の記録はない。それはこの劇がエリザベス朝演劇の主流以外書かれた劇であることを暗示している。しかし、この劇は決して忘れ去られなかった。ジョージ・リロ(George Lillo)による改訂版がほぼ3世紀にわたって上演された。1921年にオリジナル版に戻され、それ以後も断続的に上演されている。1799年には、バレエ版がサドラーズウェルズ劇場で上演された。1967年にはアレクサンダー・ゲールがArden Must Dieとしてオペラ化した。 1656年にAn Exact and perfect Catalogue of all Plaies that were ever printedというカタログにこの芝居が出てきているが、明らかに行の揃え方にミスがある。『フェヴァーシャムのアーデン』はバーナード・リッチの作品として記録されているがその可能性は極めて低く、上の行では『パリスの審判』がシェイクスピアの作品とされている。これは行組の間違いで、おそらくこのカタログは『フェヴァーシャムのアーデン』をシェイクスピアの作品として記載するつもりであったのではないかと推測される。 作者に関しては詳細な分析が行われてきたが、いまだに解答は得られていない。シェイクスピア説が最初に唱えられたのは1770年のことで、提唱者はフェヴァーシャムの古物研究家エドワード・ジェーコブ(Edward Jacob)だった。他にもアルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン、ジョージ・セインツベリー(George Saintsbury)、19世紀の評論家チャールズ・ナイト、ニコラス・デリウスがシェイクスピア説を採っている。他にも、この劇は最低でも1度、宮内大臣一座一座によって演じられ、その時シェイクスピアが役者としてシェイクバッグを演じた(シェイクバッグは悪党でありながら慣習を破って散文でなく韻文で話す)という説、この劇を出版したエドワード・ホワイトはシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』を出版した人物だからこの劇もそうだという説がある。シェイクスピアが若い頃、フェヴァーシャムで上演した旅回りの一座のメンバーだったらしいという証拠がいくつかある。もしそれが真実なら、地元の人から事件のことを聞かされた可能性もあるかも知れない。シェイクスピアの母親の名前がメアリ・アーデン(Mary Arden)だったというのは、事件とは何の関係もない偶然の一致だが、その偶然がシェイクスピアの関心をこの事件に向けさせたということはなくもない。ちなみに、シェイクスピアが『お気に召すまま』の舞台に選んだのもアーデンの森(Arden)だった。 クリストファー・マーロウの名前も作者の候補にあがっている。キャラクターの強い激情ときわだって徳の高いヒーローの欠如はマーロウの特徴と共通したものである。マーロウはカンタベリーの近くで育って、この劇で示される地域の知識は持っていたようである。フレデリック・ガード・フレイ(Frederick Gard Fleay)やチャールズ・クリフォード、H・ダグデイル・サイクス、ブライアン・ヴィッカーズなどはトマス・キッドを候補者に挙げた。キッドは一時期マーロウと一緒に住んでいた。 この芝居の著者についての議論には、以下のような論点が含まれている。 (1)このテクストは主にひとりの著者によって書かれたものなのか? (2)誰がどの部分を書いたのか? 2006年に、アメリカ合衆国マサチューセッツ大学アマースト校にあるマサチューセッツ・ルネサンス研究センターのアーサー・キニーと、オーストラリアのニューカッスル大学言語学的文体論センターのディレクターであるヒュー・クレイグによるシェイクスピアのコーパスを、コンピュータを用いて『フェヴァーシャムのアーデン』と比較する分析が実施された。これにより、『フェヴァーシャムのアーデン』の中間部分(第四場から第九場)は、単語の出現頻度や語彙選択などの観点からしてシェイクスピアによって書かれた作品と一致する特徴が見られるということがわかった。この研究に対しては、2008年、ブライアン・ヴィッカーズが『タイムズ・リテラリー・サプルメント』で反論し、連語の出現頻度にもとづくコンピュータ解析によると、トマス・キッドが最も有力な著者候補であると考えられると主張した。2015年に刊行されたマクドナルド・P・ジャクソンの研究では、『フェヴァーシャムのアーデン』の中間部分では広範にシェイクスピアの執筆の形跡が認められ、芝居の最初の部分でもいくつかシェイクスピアの手が入っていると疑われる文章があるという主張が述べられている。 2013年、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーはシェイクスピアを部分的な著者とする『フェヴァーシャムのアーデン』の版を刊行した。
※この「テキストと作者」の解説は、「フェヴァーシャムのアーデン」の解説の一部です。
「テキストと作者」を含む「フェヴァーシャムのアーデン」の記事については、「フェヴァーシャムのアーデン」の概要を参照ください。
- テキストと作者のページへのリンク