トゥーイル共和国
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「トゥーイル郡 (ユタ州)」の記事における「トゥーイル共和国」の解説
1874年から1879年、ユタ州リベラル党の非モルモン教徒の政治家がトゥーイル郡を支配した。これはユタ準州の政界で非モルモン教徒が成功した最初の機会だった。彼等は思いつきで郡のことを「トゥーイル共和国」と呼んだ。 その選挙は1870年に結成された反モルモン教リベラル党にとって最初の成功だった。リベラルとは郡内の非モルモン教鉱業人口を選挙での成功の自然環境と見なし、鉱業地区での激しい運動は1874年6月の選挙まで続いた。非モルモン教徒でユタ準州知事に指名されたジョージ・L・ウッズは自ら郡内でリベラル党のために選挙運動を率いた。 選挙を管轄したモルモン教徒人民党は選挙当日に幾つかの投票所を監視しており、2,200票の中で約300票差でリベラル党が勝利した後で、選挙の不正について苦情を言い立てた。人民党は、リベラル党支持者が1回を超えて投票し、投票者の多くは必要とされる6か月以上居住者ではなく、しかも納税者ではないと主張し、準州法に従って納税者のみが投票できると言い張った。人民党はトゥーイル郡資産税納税者が1,500人しか登録されていないのに対し、約2,200票が投じられたという事実に注意を向けた。人民党は不正があったとされているが故に、トゥーイル郡選挙管理局とトゥーイル郡庁舎を明け渡すことを拒んだ。 ウッズ知事は予想通り苦情を退け、リベラル党の勝利を確認した。第3地区裁判所判事のジェイムズ・B・マッキーンは違法な行為があったとする証拠は無いと裁定した。マッキーンは人頭税を納税者であるという意味の中で解釈した。この選挙で300人以上のカーペットバッガー(北部から流れてきた人々)が居たとか複数回投票があったことを証明する証拠が無かったので、マッキーンは投票結果を認め、連邦副保安官がリベラル党候補者を就任させるのを承認した。 トゥーイル郡選挙管理局は一時的に放棄されたときに占領されたが、人民党支持者の集団が日夜郡庁舎を保持した。保安官とリベラル党候補者は数で優勢であり、武装しバリケードの中に入ったモルモン教徒の説得を試みた。どちらの側も武力行使すれば戦闘になることを気づいていたが、それでも権力委譲の合意には至らなかった。 マッキーン判事は強い言葉を使った差し止め命令を発行し、ブリガム・ヤングはその追随者達(モルモン教徒)に連邦裁判所に従う義務があると伝えた。郡庁舎が放棄されたので、約5年間のリベラル党支配が始まった。しかし、ユタ準州議会は議員の最終決定権を持っていたので、トゥーイル郡選出のリベラル党議員の就任を拒否した。 リベラル党は対抗馬の居なかった1876年の選挙でも勝利した。 1876年、準州議会は有権者登録と地方選挙での婦人参政権を要求する法案を成立させた。ユタ準州内では1870年以来婦人が投票に参加していた。リベラル党は通常政治に興味がある男性坑夫に支持されており、両法案に反対した。1878年、リベラル党はトゥーイル郡での多数党の地位を失い、手続きの遅れのために6か月以上経った1879年に人民党が再度支配を確立した。 トゥーイル共和国時代はその後の政治家達によって過剰な浪費の時代と特徴づけられた。郡は約16,000ドルの負債を負っており、共和国が始まったときの額をかなり上回っていた。
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