よ‐りき【与力】
与力
与力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/04 18:38 UTC 版)
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2022年1月) |
与力(よりき)とは、江戸幕府における代表的な職名。寄騎とも書くが、与力・寄騎は時代によって意味が異なる。
備(そなえ)などを編成するため、江戸時代以前には、足軽大将(足軽組頭)などの中級武士が大身の武士の指揮下に入る事を意味する語句としても用いられていた。
中世
鎌倉時代には与力・寄騎は単に加勢する人のことを指したが、その後しだいに大名または有力武将に従う下級武士のことを指すことが多くなった。戦国時代には、「寄子」(よりこ=有力武将(寄親)に対する在地土豪)の意味で用いられることが多く、彼らは下級武士ではなく、在地の領主(在地土豪)である。数千貫文の土地を持つ例も珍しくなかった。
戦国大名たちは、在地土豪である寄騎・寄子を寄親の家臣団に組み込ませると、寄親の力が大きくなりすぎるため、謀反の防止に腐心した。そこで寄親を統率する戦国大名は、寄子たる在地土豪たちを陪臣(家臣の家臣)とはせずに直接的に臣従させる一方で、重臣や有力武将(寄親)に附属させ、在地土豪の軍事力を効率的に利用した。特に後北条氏、今川氏、上杉氏、武田氏などにしばしば見られる。家老として付けた者は付家老、御附家老と呼ばれた。
また、より大きな大名に加勢として附属させられた武将を与力大名(組下大名)と言うものもあった。その代表例としては織田政権において、織田信忠に河尻秀隆や森長可ら、柴田勝家に前田利家や佐々成政ら、明智光秀に細川藤孝や筒井順慶らがそれぞれ属して方面軍団を結成していた事などが挙げられる。これらにおける与力大名は、統一軍事行動を取る際に軍団長大名の指図を受けるのみであり、主君の嫡男で生前に家督相続した織田信忠を例外として、身分としてはあくまで対等な織田大名同士である。明智と細川、筒井らは縁戚でもあり友人でもあった。
近世
江戸幕府の与力
江戸幕府の与力は、上官(旗本)の補佐にあたるために配属された[1]。御家人身分だが、袴着用・騎乗が許されたため馬も合わせて単位は「騎」だった。
有名なものは町奉行配下の町方与力で、町奉行を補佐し、江戸市中の行政・司法・警察の任にあたった。南町・北町奉行所にそれぞれ25騎の与力が配置されていた。
与力には、町奉行個人から俸禄を受ける家臣である内与力(元々は着任前の奉行の用人などであり、主君と一緒に奉行所へ着任、離任する)と、将軍から俸禄を受け奉行所に所属する官吏である通常の与力の2種類があった。内与力は陪臣であるため他の与力より本来は格下で禄高もおおむね低かったが、奉行の側近としてその実権はむしろ大きい場合もあった。与力は配下の同心を指揮・監督する管理職であるとともに、警察権でいうならば今日の警察署長級の側面(ただし今日の警察署長のように管轄区域があったわけではない)、司法権でいうならば民事と刑事の双方の裁判も詮議担当したので今日の裁判官や検察官的側面もあった。
与力は役宅として八丁堀に300坪程度の組屋敷が与えられた[2]。また、もめごとが起こったときに便宜を図ってくれるように諸大名家や町家などからの付け届けが多く、家禄も150~200石で裕福な家も多かった[3]。その他の役得としては、湯屋の女風呂で朝湯に入ることができた。これは、八丁堀の湯屋は特に混雑していたことに加え、当時の女性には朝風呂の習慣がなかったため女湯が空いており、男湯で交わされる噂話や密談を盗聴するのにも適していたためであったが、彼らのために女湯に刀掛けが置かれたことは「八丁堀の七不思議」に数えられていた[4][5]。与力は組屋敷に廻ってくる髪結いに与力独特の髷を結わせてから出仕した。粋な身なりで人気があり、与力・中間・火消の頭は江戸の三男(えどのさんおとこ)と呼ばれてもてはやされた。
町与力組頭クラスは二百数十石を給付されて下級旗本の待遇を凌いだ。ただし罪人を扱うことから不浄役人とみなされ、将軍に謁見することや、江戸城に登城することは許されなかった。したがって身分上は御家人であり、御家人の中では上位の俸禄であった。
騎兵扱いであるため袴を着用するが、歩兵扱いの同心の特権である将軍の御成先でも着流しが許される「御成先御免」は無かった。
大坂の与力
大坂では東町・西町奉行所に各30騎の与力が配置されていた。江戸のように寺社奉行、火付盗賊改方の役がなく、町奉行所が一手に引き受けていた。盗賊方の与力が6人、定町廻の与力が4人いた。4与力・同心の役宅は、東町奉行所の北方、淀川の天満橋を渡って1キロほどのところにあり、彼らは、天満与力、天満同心と呼ばれた[6]。
脚注
- ^ 同心とともに配属された。
- ^ 中村静夫「新作『八丁堀組屋敷図 1600分の1 嘉永6年』解説]」『参考書誌研究』22号、国立国会図書館、1981年。
- ^ 安藤優一郎 (2024年3月3日). “与力は賄賂で大儲け?江戸時代の「不正」驚く実態: 都市行政に練達しているからこそ便宜を図られた”. 東洋経済オンライン. 東洋経済新報社. 2024年3月4日閲覧。
- ^ 「江戸時代の湯屋の描写で「女湯に刀掛けがある。」と書いてあった、本当か。」(練馬区立練馬図書館) - レファレンス協同データベース、2022年10月1日閲覧。
- ^ 山本博文「時代劇用語指南 与力の朝風呂 - imidas、2008年9月18日、2022年10月1日閲覧。
- ^ 林美一『江戸の二十四時間』河出書房新社、1989年、288-289頁。
参考文献
- 『角川第二版日本史事典』(角川書店)
関連項目
外部リンク
与力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 15:05 UTC 版)
「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の記事における「与力」の解説
神山左門(天知茂) / 出演シリーズ:第1部 - 第3部 祝言をあげたばかりの妻を盗賊に人質にとられ亡くしたため、悪に対する憎しみが人一倍で、それ以来「かみそり左門」と呼ばれるようになった。村上同様、忠相よりも以前から南町奉行所に勤めているが、村上と違って忠相一家との個人的な付き合いはなく、あくまで役目上の付き合いだけである。彼を主役にしたフジテレビの時代劇スペシャル地獄の左門十手無頼帖が制作されたが、時代設定が本作とは大きく異なり天保年間に変更されている。 池田大助(原田大二郎) / 出演シリーズ:第3部 忠相配下の見習い与力。爆薬によって殉職した父・池田良助(高松英郎)の後を継いで与力となる。村上とは、若い上役と年配の下役との関係から、「村上さん」「大助様」と呼び合い、互いに敬語で話していた。 相良俊輔(三浦友和) / 出演シリーズ:第4部 相良正左衛門(加東大介)の息子だったが、父は吉宗暗殺を企てる一味に加担した挙句、銃弾を浴び死亡。身寄りのなくなったところを忠相の計らいで内与力を拝命した。若さゆえに暴走に走り源次郎たちに窘められることもあった。綾と次第にいい仲になっていく。池田同様、村上とは、若い上役と年配の下役との関係から、「村上さん」「相良様」と呼び合い、互いに敬語で話していた。 ただし、実際の江戸時代の身分制度では、内与力は奉行を務める家(この場合は大岡家)の家臣、すなわち陪臣であり、与力や同心は身分上、徳川家の直参家臣になるため、村上の方が身分は上である。 片平弥平次(西岡徳馬) / 出演シリーズ:第12部・第13部(準レギュラー) 無口、茫洋で感情を見せる事は少ないが、頭の切れは抜群の詮議掛り与力。主に浪人や町人の姿に変装し、敵方に潜入して内偵捜査を進める。
※この「与力」の解説は、「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の解説の一部です。
「与力」を含む「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の記事については、「大岡越前 (ナショナル劇場) の登場人物」の概要を参照ください。
「与力」の例文・使い方・用例・文例
品詞の分類
- >> 「与力」を含む用語の索引
- 与力のページへのリンク