享保~延享~寛政期
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京都の生まれで初代都一中に学んだ都国太夫半中は、享保8年(1723年)に師が没すると都路国太夫と改名して独立。劇的というよりは情緒的な芸風であったという。享保15年には、さらに宮古路豊後と改名し豊後節を創始。享保17年からは高弟である宮古路文字太夫を伴い名古屋に進出する。享保19年正月、名古屋で実際にあった心中事件を題材とした出世作「睦月連理椿」で大好評を得る。同年、高弟文字太夫を名古屋に残してさらに江戸に進出する。播磨座で「おさん伊八道行」を演じ好評を受け、掾号を受領して宮古路豊後掾橘盛村となり、大劇場である江戸中村座に進出する。当時は豊後掾の髪形や長羽織を真似る「文金風」が一世風靡したが、享保7年から男女相対死(=心中)が法令で禁じられており、煽情的とされ心中と結び付けられた豊後節は弾圧を受けてしまう。元文元年(1736年)には、文字太夫出演の市村座「小夜中浅間嶽」に対し江戸北町奉行が興行中止を命令。元文3年に江戸での舞台を文字太夫ほか弟子にまかせ、豊後掾は西に戻り京阪の劇場で活躍する。元文4年には、浄瑠璃太夫の名を出すこと、稽古場の看板をあげること、文金風を真似ること、などが禁止され、特に豊後節の浄瑠璃語りが非常に厳しい弾圧を受ける。 元文5年に豊後掾が病死すると、延享2年(1745年)に宮古路加賀太夫が脱退(新内節)、宮古路園八(宮園節)なども脱退し分派活動が起こる。高弟である宮古路文字太夫も、延享4年(1747年)に関東文字太夫と改名したが、北町奉行により禁止され、その帰り際に住居がある日本橋檜物町(ひものちょう)に常盤橋を渡って戻る途中、師である豊後掾の本名「石津左司馬」の津を取り常盤津としたという説が有力である。後日、「皿」では割れてしまい縁起が良くないので「石」に変更され、現在では「常磐津」と明記するのが正しいとされている。寛延元年(1748年)に豊後節から共にしていた弟分の初代常磐津小文字太夫が常磐津を抜け、のちの清元節の前身である富本節を創設。常磐津節は歌舞伎との関係を密接にし、扇情的だった豊後節より芸質の向上をめざし、義太夫節を取り入れ豪快かつ勇壮さをもちながら品をよくし、舞踊との結合に相応しく明確な曲風に移り変わった(例:蜘蛛糸梓弦)。この時代の三味線は初代佐々木市蔵、二代目岸澤古式部などが勤めたが、明和5年(1768年)に佐々木市蔵が亡くなると、初代文字太夫がタテ三味線に岸澤古式部を起用したことから佐々木派の三味線弾きから不満が起こり、常磐津志妻太夫、造酒太夫らが脱退し、それぞれ豊名賀派、富士岡派として一派を形成したが、前者は二代で後者は一代で消滅した。 天明元年(1781年)に初代常磐津文字太夫が没すると、初代兼太夫が初代文字太夫未亡人から相続し二代目文字太夫を襲名。二代目文字太夫は二代目岸澤式佐、初代鳥羽屋里長などの三味線方と共に大いに活躍し、紅葉傘糸錦色木(善知鳥・安永7年)、積恋雪関扉(関の扉・天明4年)、四天王大江山入(古山姥・天明8年)、戻駕色相肩(戻駕・天明8年)、其扇屋浮名恋風(吉田屋・寛政2年)など、時代物、世話物ともに現存する曲を初演し、常磐津節の基礎を整備する。二代目文字太夫の死後、遺児林之助はわずか8歳で二代目小文字太夫を襲名し若くして家元を継いだが、跡目争いで敗れ常磐津を破門された二代目兼太夫(吾妻国太夫)が興した一派(吾妻派)に押されていた。その窮地を補佐したのが家元派の三代目兼太夫である。
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