初土俵
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初土俵(はつどひょう)とは、大相撲界に入門した力士、呼び出し、行司、床山などが初めて土俵に上がること。床山など土俵上で仕事をしない場合は「入門」ともいう。
概要
力士として初土俵を踏むには、各部屋に入門後、本場所前に行われる新弟子検査に合格しなければならない。合格した場合は、原則として前相撲を取り出世し(新序)、翌場所の序ノ口番付に載る。
1970年代初頭までは、前相撲の基準も厳しく、序ノ口に出世して番付に名が載るまでに何場所もかかることもあった。2008年段階で日本相撲協会に在籍している年寄の中にも、桐山親方のように、番付に載るまで時間がかかったものもいる。
稀な例として、平成19年名古屋場所には史上初新弟子なし、平成12年秋場所には初土俵を踏んだ力士が大相撲始まって以来初めて1人だった。平成30年名古屋場所でも史上二度目の新弟子なしとなった[1]。
脚注
- ^ “名古屋場所、新弟子検査の受検者が0人 2度目”. 日刊スポーツ. (2018年6月27日) 2018年10月7日閲覧。
関連項目
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初土俵
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1956年9月場所にて初土俵を踏んだ。同期には後の大関・清國や小結・沢光、前頭の大心、玉嵐らがいる。入門当初より柏戸と共に横綱確実の大器と評されており「二所ノ関部屋のプリンス」「ゴールデンボーイ」などの愛称を与えられた。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では三段目で優勝、十両目前の西幕下2枚目まで番付を上げていた同年9月場所では3勝5敗で負け越したものの、取的時代の負け越しはこの1場所のみでそれ以外は全て6勝以上挙げている。東幕下筆頭となった1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めた。初土俵から幕下時代までは本名の納谷で土俵に上がっていた。三段目時代、飲みに出かけた時に(当時角界では未成年飲酒が珍しくなかった)両国界隈のバーで「伊勢ノ海部屋の富樫(のちの柏戸)はいい力士だ、あれは絶対横綱になる」と耳にし、それから柏戸を越すことを目指して稽古に打ち込んだ。 1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。
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「初土俵」の例文・使い方・用例・文例
- 琴欧洲は2002年11月に九州場所で初土俵を踏んだ。
- 2001年に初土俵を踏んだ。
- 琴奨菊関は2002年に初土俵を踏んだ。
- 1976年に佐(さ)渡(ど)ヶ(が)嶽(だけ)部屋に入り,初土俵を踏む。
- 2001年1月に初土俵を踏み,2012年11月に横綱になった。
- 2011年,大(おお)嶽(たけ)部屋に入門し,2012年の大阪場所で初土俵を踏む。
- 遠藤関は昨年,日本大学を卒業し,昨年の三月場所で初土俵を踏んだ。
- 彼は2001年3月に初土俵を踏み,2007年7月に横綱に昇進した。
- 1983年の五月場所で初土俵。
- その翌年,13歳のとき,彼は大相撲初場所で力士として初土俵を踏んだ。
- 稀勢の里関は2002年に初土俵を踏んだ。
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