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劉瑾とは? わかりやすく解説

劉瑾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/30 16:43 UTC 版)

劉 瑾(りゅう きん、景泰2年(1451年) - 正徳5年(1510年旧暦8月)は、明代宦官正徳帝に取り入り、同僚の宦官たちと結託して朝政を専断した。後に皇位簒奪を画策したとして捕縛され、凌遅刑に処された。

生涯

西安府興平県出身。無頼の出自で、旧姓は「談」であったと伝えられる。自宮して宮中に入り、劉姓の宦官に従い、やがてその姓を享けた。正徳帝に気に入られ、帝に逸楽を勧めて遊蕩に耽溺させ、政治の実権を掌握した。

劉瑾は同僚の宦官七人とともに国政を壟断し、「八虎」と称され、汚職と収賄で国政を腐敗させた。また東廠西廠などの諜報機関を使って反対勢力を監視・弾圧した。劉瑾の専横に対する反発は強く、正徳5年(1510年)、寧夏で発生した朱寘鐇による安化王の乱も、劉瑾の排除を決起の理由に掲げている。

正徳帝の寵を失い粛清されることを恐れた劉瑾は、ついに帝位の簒奪を企てるが、八虎の一人である張永中国語版の密告により逮捕され「聖上を晦まし、国政を壟断した」罪により、「凌遅刑(寸磔)三日」が宣告された。

劉瑾の処刑の様子は、張文麟という担当刑務官の詳細な記録が残る。その記述によると劉瑾は、絶命するまで2日ががりで3,357刀を加えられた。一日目、3000刀ほどを加えられて夜はいったん獄舎に戻されたが、夕食に出たをお代わりして二杯を完食し「この大罪人のふてぶてしさ、かくの如し」という。二日目、357回切り刻まれた時点でついに絶命した。屍骸の肉片は彼に殺された者の遺族に配られ、位牌に捧げるものや、憎さのあまり食う者もいたという。

劉瑾の財産は没収されたが、『二十二史箚記』によれば、没収財産は金250万、銀5,000万両、その他無数の珍宝があり、当時の政府歳入の10年分に相当するものであった。

関連作品


劉瑾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:57 UTC 版)

凌遅刑」の記事における「劉瑾」の解説

宦官の劉瑾は「聖上を晦まし、国政壟断した」罪で「凌遅三日」を宣告され1510年処刑された。絶命するまで3,357刀を加えられた。記録によると一日目3000刀ほどを加えられて夜はいったん獄舎戻されたが、夕食出た粥をお代わりし、二杯を完食した。二日目400程度切り刻まれ時点でついに死亡した屍骸肉片彼に殺された者の遺族配られ位牌捧げるものや憎さのあまり食う者もいたという。

※この「劉瑾」の解説は、「凌遅刑」の解説の一部です。
「劉瑾」を含む「凌遅刑」の記事については、「凌遅刑」の概要を参照ください。

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