実学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 07:47 UTC 版)
実学(じつがく)とは、経験科学や技術に基づく実用的な学問。実証性に裏づけられており、社会の役に立つ学問[1]。農工商などの産業経済の発達に役立つ実業的な知識・技術を学べる学問。法律学・経済学などの政策科学、数理工医などの実験科学など実生活で役に立っているタイプの学問。他にも経営学・農学、本草学(薬学)、天文学、暦学などのような学問のこと[1][2][3]。空理空論、理想主義、非現実的または非実用的、観念的で空疎な学問である哲学や文学など人文学・社会学など社会科学の一部を意味する虚学の対義語[1][4]。
新井白石が、当時学問として重要視されていた朱子学を非実用的だと批判し、殖産興業政策をとったのが日本における実学の先駆とされる[1]。福沢諭吉は、『学問のすゝめ』のなかで、1872年当時重要視されていた和学・儒学を「学問の実に遠くして日用の間に合はぬ」と虚学であるとし、「人間普通日用に近き実学」こそ学問だとし、実学の庶民への教育を記した[1]。
社会生活に実際に役立っている学問として、医学・法律学・経済学・工学以外には、歯学・薬学・獣医学・農学・水産学・情報学・計算機工学・計算機科学・会計学・統計学・ゲーム理論・経営学・商学などを指す。日本の大学では、理科系と文科系で扱う学問分野が異なるが、理系は人文・社会科学を含まないために概ね全て実学とされている。逆に文系の中でも法学や経済学などは実学とされる[4]。
漢字圏
- 明・清時代の中国で盛んになった経世致用の学のこと。明末の16〜17世紀にかけ李時珍(『本草綱目』)、徐光啓(『農政全書』)、宋応星(『天工開物』)らが技術関係の書物を著した。
- 実学 (朝鮮) - 朝鮮王朝後期に正統官学である性理学への批判を通じて登場した思想・学問潮流。「実事求是の学」とも。彼らは宋学(朱子学)が非現実な虚学となったことを批判し、「実事求是」の思想が生まれた。18世紀には西洋学紹介、現実社会改革、鎖国批判などの各種啓蒙運動を展開したが、19世紀初めに王朝から弾圧された[1]。
- 「李氏朝鮮の学問#実学」も参照
脚注
- ^ a b c d e f 字通,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,旺文社世界史事典 三訂版,旺文社日本史事典 三訂版,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,世界大百科事典 第2版,普及版. “実学とは”. コトバンク. 2023年1月7日閲覧。
- ^ “実学(じつがく)の意味・使い方をわかりやすく解説 - goo国語辞書”. goo辞書. 2023年1月7日閲覧。
- ^ “経営学は実学と科学を両立できるのか 一橋大学教授・楠木建×慶應義塾大学准教授・琴坂将広【前編】 | リーダーシップ|DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー”. 経営学は実学であり、科学である。慶應義塾大学の琴坂将広准教授によるそんな問題提起がきっかけとなり、一橋大学の楠木建教授からこの問題を一緒に考えたいという提案をいただき、両者の対談が実現。実務から学問… (2017年3月2日). 2023年7月24日閲覧。
- ^ a b 教養學科紀要第14~16号 -p299, 1981年
実学
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「実学 (朝鮮)」も参照 柳馨遠の学風を続け、実学を一つの学派として形成したのは、粛宗の時の李瀷だった。彼の代表的な著書は『星湖僿説』で、ここには彼の多彩な学風が現れている。李瀷の門下には多くの弟子が輩出され、実学は、漸次、学界の主導的な学問として登場した。 その後英祖・正祖・純祖の時になって、実学は極盛期に達した。さらに、正祖の時には、奎章閣という学問研究所が設置されて、実学者たちが登用され、庶子出身の学者たちも採用された。こうして多くの有用な書籍が編纂されたが、英祖の時には『続大典』・『東国文献備考』・『続五礼儀』・『続兵将図説』などが編纂された。また正祖の時には『大典通編』・『文苑黼黻』・『同文彙攷』・『秋官志』・『度支志』・『武芸図譜通志』・『海東農書』・『全韻玉篇』などがある。このような編纂事業の盛行は、世宗・成宗の時にも並ぶ盛況だった。 このような英祖、正祖時代の文運の興起に加え、新たに清朝考証学の影響を受けて、実学はさらに隆盛になった。こうして数多くの実学の大家たちが現れ、それぞれ特色ある学風を持って燦爛たる学問的成果を生んだ。 すなわち、歴史には安鼎福の『東史綱目』、韓致奫の『海東繹史』、李肯翊の『燃藜室記述』、柳得恭の『四郡志』・『渤海考』があり、地理には李重煥の『擇里志』、申景濬の『疆界考』・『道路考』・『山水考』、成海応の『東国名山記』、丁若鏞の『疆域考』・『大東水経』などがあり、鄭尚驥の『八道分図』、金正浩の『大東輿地図』があった。 また国語学には申景濬の『訓民正音韻解』、柳僖の『諺文志』が有名で、金石学には金正喜の『金石過眼録』、農学には徐有榘の『林園経済志』、動物学には丁若銓の『茲山魚譜』、医学には丁若鏞の『麻科会通』があった。 このような中で、特に丁若鏞は多くの方面で立派な業績を残し、実学最大の学者と呼ばれている。彼の学問的業績の中で『経世遺表』・『牧民心書』・『欽欽新書』の3部作は最も輝く部分だった。実学が現実から出発したと言ったが、上で例を挙げた実学者たちは、たいてい農村を土台として朝鮮社会の現実を改革しようとした。だから彼らの学問は制度上の改革に重点を置く経世致用の学問だった。彼らの思考は多分に復古的な傾向を持っており、彼らが描く理想国家は儒教的であった。 これに対し、朴斉家・朴趾源・洪大容・李徳懋などが代表的存在である実学の他の一派があり、これを北学派と言う。彼らの著述では『北学議』・『熱河日記』・『湛軒書』などがある。
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