寵姫
寵姫
公妾
公妾(こうしょう)は、結婚の秘跡に反するために離婚と並んで側室制度が許されなかった[1]キリスト教ヨーロッパ諸国の宮廷で主に近世に採用された歴史的制度。'Maîtresse royale'(仏、英:Royal mistress、王の愛人)から訳された歴史用語。寵姫。
概要
公妾の生活や活動にかかる費用は公式に王廷費からの支出として認められた。単なる王の個人的な愛人としてでなく社交界へも出席し、フランス18世紀のルイ15世の愛人であったポンパドゥール夫人に代表されるように重要な廷臣として政治にも参画した例がある。王の愛人のうち誰を公妾とするかについては解釈の幅がある[2]。
伝統的に非嫡出子に相続権を認めなかったヨーロッパ諸国では、例外[誰?]を除いて、国王と公妾の間に産まれた子が王位を継承することはなかった[3]。産まれた子の多くは、爵位を得て家臣に列せられたり、良家に嫁がされた[4]りした。
各国の王室の女性が政略結婚の駒として嫁がされ、王妃や皇后になるのにたいして、公妾は家柄は重視されず実力で寵愛を獲得しなければならなかった。公妾は国王をも動かす権力をもち、主宰する贅沢なサロンは外国に対して、国威を示す役割を担った。またそれゆえ皇后、王妃が醜聞にまみれることを防止する役割も担った[5]。王の寵愛を失ったり、后やその一族から、また、権力闘争や社会不安に巻き込まれ貴族や民衆の恨みをかう[6]こともあり、常に不安定な境遇に置かれていた。
通常、寵愛を受けた国王が死亡すると、新たな国王から年金を支給されて余生を送った。中には殺される者もいたが、許可を得て再婚した者もあった。[要出典]
有名な公妾の例
- アニェス・ソレル - フランス王・シャルル7世
- ディアーヌ・ド・ポワチエ - フランス王・アンリ2世
- ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール - フランス王・ルイ14世
- モンテスパン侯爵夫人 - フランス王・ルイ14世
- ネル・グウィン - イングランド王・チャールズ2世
- ポンパドゥール夫人 - フランス王・ルイ15世
- デュ・バリー夫人 - フランス王・ルイ15世
- マリア・ヴァレフスカ - フランス皇帝・ナポレオン1世
- アリス・ケッペル - イギリス王・エドワード7世
- ウルシュラ・マイェリン - ポーランド王・ジグムント3世
注釈
- ^ 『新約聖書』にはイエス・キリストの言葉として、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」(「マタイによる福音書」第19章第4節から第6節)とあり、一夫一妻制の絶対視と離婚の禁止を意味しているとされる。
- ^ 例えば公妾制度の代表的な国であるフランス語版と英語版の相違、英語版のRoyal mistressとMistress (lover)での定義の揺れ
- ^ “デュ・バリー夫人|時代の波に翻弄されたフランス国王ルイ15世の公妾”. Woburn Abbey (2017年10月24日). 2024年12月10日閲覧。 “当時の王族・貴族の結婚は、ほとんどが政略結婚であったので、政治的な思惑で結婚せざるを得なかった王妃よりも、本当に気に入って選んだ公妾のほうが、実際の発言権は大きい、なんてことも多かったようです。 また、当時はまだまだキリスト教の影響力が絶大でした。 このため、「結婚」は神が認めた特別なものとして神聖視されていたため、側室をおくことができなかったので、公妾は、愛人とはいいつつも、国から活動費を支給され、外交は公式な立場(=Royal Mistress)だったのです。 そして、社交界の花形であるだけでなく、重臣のひとりとして、文化・文化から、果ては、内政、人事、戦争までも幅広く国王の政治を補佐する立場でした。 これだけ重要な役割を演じなければならない一方、婚姻関係外(公妾)から生まれる庶子には相続権がありません。”
- ^ 例:アリス・ケッペルの娘ソニア
- ^ 安達正勝「物語フランス革命―バスチーユ陥落からナポレオン戴冠まで」(2008年、中央公論新社、中公新書、ISBN 4121019636 )、安達は同書の中でルイ16世に公妾がいなかったためにマリー・アントワネットが首飾り事件の標的にされ、非難されたと書いている
- ^ 例:デュ・バリー夫人はフランス革命で処刑された
関連項目
寵姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 23:36 UTC 版)
「コンスタンティア・フォン・コーゼル」の記事における「寵姫」の解説
1704年12月7日、アウグスト強王は滞在先での火事で焼け出されたために、ホイム家の城に宿泊し、そこで魅力的な男爵夫人を見出して宮廷に呼び寄せた。当時、王はテシェン女侯を公式寵姫としていた。ホイム男爵は王に対し、アンナ・コンスタンティアは王の公式寵姫(Maitresse en titre)の役職を務めるのには全く不向きな女である、と警告した。王の正妃クリスティアーネ・エーバーハルディーネはもう長いこと宮廷に姿を見せず、プレッツシュ城(ドイツ語版)に引きこもって暮らしていた。アウグストはアンナ・コンスタンティアに結婚の約束状を贈った。正妃が死んだときは彼女と結婚して身分違いの妻とし、今後2人の間に生まれてくる子を嫡出子と認める、という内容だった。アンナ・コンスタンティアはこの約束状を大切に保管し続けた。婚外子を密かに生み落とし、夫に離縁され、今また選択の余地なく側室としての生活が始まる状況の中で、いつか人の妻と認められる栄誉が待っているという期待を心の拠り所としたのも無理はないと思われる。続いて王の発した文書により、アンナ・コンスタンティアの生活の保障が与えられた。年額10万ターラーという巨額の年金とピルニッツ騎士領(Rittergut Pillnitz)の所有権である。 1706年2月、皇帝ヨーゼフ1世はアウグストの申請を受けてアンナ・コンスタンティアをコーゼル帝国女伯に叙爵した。同じ1706年頃、王はお抱え建築家のダニエル・ペッペルマンにトルコ屋敷(Türkischen Hauses)の改装を依頼し、屋敷をアンナ・コンスタンティアの住居兼社交の場として与えた。このトルコ屋敷は、現在のタッシェンベルク宮殿(ドイツ語版)の中心部を構成している。アンナ・コンスタンティアはドレスデン宮廷の中心にいるだけでなく、美しく、野心に溢れ、機知に富んでいた。一方で、激高しやすく、驕慢で、自惚れが強かった。彼女の性格は当然ながら複数の政敵を作ったが、アンナ・コンスタンティアは大臣たちの政治的失策や陰謀を明るみに出し、敵を潰していった。
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