対西ドイツ工作の成果
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1954年7月20日、西ドイツの連邦憲法擁護庁 (BfV) 長官代行オットー・ヨーン博士が東ドイツに亡命(のち西ドイツに帰国)。 1985年8月15日、BfV防諜局長ハンス・ティートゲ(英語版)が失踪した。8月19日、ティートゲは東ベルリンで記者会見を開き、西ドイツと決別し、東ドイツで新しい生活を送ることを明らかにした(実際は、自身のアルコール中毒や妻の死に起因する精神不安定が原因とされている)。後にベルリン・フンボルト大学において、BfVの活動を記述した「ドイツ連邦共和国における憲法擁護庁の防諜機能」という論文で博士号を取得。1989年、ソ連に亡命。 ギヨーム事件1956年、シュタージの諜報員ギュンターとクリステルのギヨーム夫妻は難民を偽装して西ドイツに入国した。ギヨームは1970年1月28日から首相官房で働き始め、能力を評価されて1972年にはヴィリー・ブラント首相の個人秘書に就任した。この時から西ドイツの政策、特に「東方政策」の内容は東ドイツに筒抜けになった。1973年5月24日、BfVに、ギヨームがシュタージのスパイ、コードネーム「ゲオルグ」であることを示唆する報告書が提出された。ギヨームは11か月の間監視下に置かれたが、現行犯逮捕されるようなミスを犯さず、シュタージのエージェントと接触を続けた。翌1974年1月、西ドイツの検察は証拠不十分のため、ギヨームに対する逮捕令状の申請を却下した。だが捜査は継続され、同年4月24日、ギヨーム夫妻はスパイ容疑で逮捕された。ギヨームは自らを逮捕した捜査官に対し「私は東ドイツの国家人民軍将校で、国家保安省の職員でもある。将校としての私の名誉が尊重されることを望む。(Ich bin Offizier der Nationalen Volksarmee der DDR und Mitarbeiter des Ministeriums für Staatssicherheit. Ich bitte, meine Offiziersehre zu respektieren)」と述べ、自らが東ドイツのスパイであることを認めた。この事件は直ちに大きく報道され、ブラントの辞任の原因ともなった。1975年12月15日、ギヨームは禁固15年(妻クリステルは8年)を言い渡されたが、1981年10月、西ドイツのエージェント8人と交換(妻クリステルは6人)で釈放された。その後、ギヨームはシュタージの諜報学校で講義を行い、1995年に死去した。ギヨーム夫妻事件は『世界で最も成功したスパイ作戦の事例』の1つと考えられているが、一方でシュタージ対外諜報部門トップを務めたマルクス・ヴォルフはドイツ再統一後に「ギヨームを西ドイツ首相の間近に置いたことなどは東ドイツ秘密警察の行動計画の結果ではなかった。一国のトップの人物近くに疑念の濃厚な人物など留め置いたことなど決してない」と述べている。
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