左右からの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:46 UTC 版)
戦時中に大量発行された戦時公債の償還、軍人の復員費などの膨大な出費、そして産業の停滞による税収減が政府の財政を圧迫していた。バウアー内閣は戦時利得者や富裕層に税金をかけることで補おうとしたが、右派の抵抗にあって実現しなかった。政府は紙幣の増発を行うことで対処しようとしたため、次第にインフレーションが進んでいった。 インフレと不況は国民生活の困窮と混乱を招き、左派勢力によるストライキや暴動が頻発した。4月はじめにはクルト・アイスナー(独立社会民主党)が率いるバイエルン州の政府が共産党によって倒され(厳密に言うと、最初に州政府を倒したのは無政府主義の極左派であり、その時点ではドイツ共産党は政府に参加しなかった。しかし、民心掌握に失敗したと見るや1週間後には共産党が革命を起こして自ら政権をとった)、バイエルン・レーテ共和国が成立した。ノスケ国防相はフライコール、特にエアハルト海兵旅団やフランツ・フォン・エップ将軍のエップ義勇軍を派遣し、鎮圧させた。フライコールは共産政権の指導者だけでなく無辜の市民をも虐殺したが、共産主義政権の側でも敗北以前に人質としてとらえていた者を銃殺するなど共に暴力的な行動をとった。もともと保守派の多かったバイエルン州で短期間とはいえ共産主義政権が成立したことは国民の共産主義に対する嫌悪感を募らせ、さらなる右傾化を招き、多くの右派団体・政党を生み出す土壌となる。特にバイエルンに駐屯した軍隊は右翼運動の温床になった。連合国はフライコールの解散を求め、政府も禁止令を出したため1920年頃から解散が始まった。しかし、軍事力を維持する軍と政府の支援と黙認により、一部のフライコールは偽装団体に移行して組織と勢力を温存した。 この頃、国民議会ではドイツ敗戦の責任を究明するための調査委員会が開かれており、多くの証言者が喚問されていた。11月、証言台に立ったヒンデンブルクは、ドイツ帝国は「背後から.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}匕首(あいくち)(ドイツ革命)で刺された」と発言した。もちろん、この証言が事実に反することは明らかで、実際にはドイツ革命のおこる3ケ月前にルーデンドルフが戦局は絶望的であると言明している。この発言はドイツの「突然の敗北」に不審を抱いていた人々や左派の暴動に不満を抱いていた人々の間に、ドイツ帝国は内部からの裏切りによって敗北したのだという「背後の一突き」伝説を広める事となった。そして、以後、この伝説は右翼勢力にさんざん利用されることになる。 1920年3月13日には右派政治家ヴォルフガング・カップとエアハルト海兵旅団がベルリンへの進軍を開始した(カップ一揆)。ノスケ国防相は国軍に鎮圧を命じたが、陸軍軍務局長ハンス・フォン・ゼークトは「軍は軍を撃たない」と主張して出動命令を拒否した。やむなく政府はドレスデン、さらにシュトゥットガルトへ避難し、カップは新政府樹立を宣言した。しかし、ベルリンからの退去にあたってバウアー政権は官僚や国民に対してゼネストを呼びかけ、カップの政府は機能しなくなった。当初、カップはバウアー政権と妥協しようとしたが完全に拒絶され、なすすべのなくなったカップは3月17日に首相を「辞任する」との声明を出してベルリンから逃亡、一揆は終結した。しかし、ゼネストを主導した全ドイツ労働組合同盟は責任者の処罰、内閣の交代等6項目を求め、ゼネストを解除しなかった。政府はこの条件を受諾し、1920年3月26日、バウアー首相は退陣、翌27日、外相だったヘルマン・ミュラーを首班とする第1次ミュラー政権が発足、ノスケも国防相を解任された(後任はオットー・ゲスラー〈民主党〉)。かわって軍の実権を握ったのは、総司令官に就任したゼークトであった。ゼークトは軍の政治的中立を標榜することで政府の軍に対する干渉を排除、国防軍は次第に政府の力が及ばない「国家内の国家」へと変貌していった。 この当時はまだ中央政府の影響力が及ばない地方が各地に残っており、そのような地域では極左派の活動が活発だった。極左派の目標は共産主義革命を通じた労働者階級による独裁だったから、彼らの活動は民主主義を著しく傷つけることになった。カップ一揆後もルール蜂起をはじめとする左派の蜂起とそれに対する軍の弾圧は頻発し、社会民主党政府は徐々に支持を失っていった。6月6日に行われた最初の国会選挙で社会民主党をはじめとするヴァイマル連合の勢力は退潮し、左派の独立社会民主党と右派のドイツ国家人民党やドイツ人民党が大きく議席を伸ばした。社会民主党は選挙前に持っていた議席の3分の1以上を失い、6月8日、ミュラー首相は辞任、社会民主党が人民党との協力を拒否したため、6月25日、中央党と民主党と人民党の3党によるコンスタンティン・フェーレンバッハ内閣が成立した。10月には独立社会民主党がコミンテルンへの参加をめぐって分裂し、一部が共産党に移った。 1921年3月に共産党はコミンテルンのクン・ベーラの指導によって中部ドイツのマンスフェルトを占領する中部ドイツにおける1921年3月行動(ドイツ語版)を起こした。この一揆は軍によって直ちに鎮圧されたが、ドイツ共産党に対するコミンテルンの支配は強まっていった。
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