戦局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/11 14:20 UTC 版)
1877年9月1日、熊本城での攻防戦など九州各地の戦いに敗れた西郷陣営は薩摩に撤退し、鹿児島を見下ろすことができる城山を占拠した。 まもなく山縣有朋率いる陸軍と川村純義率いる海軍が到着し、西郷陣営はたちまち包囲された。西郷陣営は熊本城での敗戦からわずか6週間の間に、離反者と戦闘による損失が重なり、帝国陸軍の3万に対し、戦力が約2万から約500までに縮小していた。 山縣は西郷に大差をつけながらも、要塞を次々と築き城山の包囲体制を確立し、さらに軍艦5隻を使用して砲撃を行うことで、防衛力を低下させることに成功した。また脱走を防ぐために、全方位からの攻撃を命じ、敵と交戦中の陣には味方の損害状況に関わらず攻撃を加えるよう命じた。 9月23日、川村は西郷陣営に無条件降伏を要求し、また西郷を差し出すなら命は助けるが、午後5時までに返答がなければ陣地を攻撃することを予告した。結果返答はなく、砲撃が開始され、激しい砲撃に西郷陣営は壊滅的な打撃を受けた。西郷は、スナイドル銃などの限られた装備で応戦しようとするが、決定的に弾薬が不足しており、金属製の像を溶かして弾丸を作り、大工用ののこぎりで修繕するなどの手段を取らざるを得ないほどであった。 夜通し砲撃を行った後、山縣陣営は午前4時、陣に攻め込んだ。西郷陣営は激しい銃撃を受けながら、近接戦闘の訓練を受けていない陸軍の隊列に突進していった。結果、わずか数分で、一時組織だった隊列は乱れ、高度な剣術が、訓練をほとんど受けていない陸軍戦力を打ち負かした。だが、練度の差はあれど戦力差が圧倒的に劣っていた西郷陣営は、最終的に撤退することとなった。 西郷は大腿動脈と腹部に重傷を負い、別府晋介に担がれ、切腹を行う場所を探しながら下山した。別府は介錯として西郷の首を切り落とし、敵に見つからないように隠した。しかし、急いで首を切ったため、西郷の髪の毛が残っており、その首が苦力によって発見された。 西郷の死後、別府は指揮を執っていたが自決し、弾薬が不足している中残りの侍たちも刀を抜いて下山し討ち死にした。これにより西南戦争は終結した。 城山の戦いの戦況図 城山を包囲する大日本帝国陸軍
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