帝国陸軍
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「大日本帝国陸軍#階級(1944年-廃止時)」も参照 帝国陸軍においては、歩兵・砲兵・騎兵・工兵・輜重兵・航空兵・憲兵といった職種を兵科(兵種)と、軍医・獣医・経理・軍楽・技術・法務といった後方職種は各部とし、医療関連の各部は衛生部と称した(定色(兵科色)は深緑色)。また衛生部は更に軍医・薬剤・歯科医・衛生に細かく分類される。 現役軍医は医学部1年生の中から陸軍軍医委託生を試験で採用し、卒業後は各歩兵連隊で軍医見習士官として隊附勤務を行う。委託生は、毎年夏休みに軍人としての最低限の基礎訓練を受けるために歩兵連隊に1ヵ月ほど入営(入隊)し、主として歩兵としての教練を学んだ。ちなみに1年生と2年生は歩兵連隊で訓練を受け、3年生以上は騎兵連隊か砲兵連隊で乗馬教育を受けた。これは、軍医将校が乗馬本分者である事から考慮されたものである。 入営中の委託生は陸軍士官学校や陸軍航空士官学校などの士官候補生に準じる者として取り扱われた。軍服は士官候補生と同じく下士官兵用の官給服に、また士官候補生や見習士官と同じ金星の襟部徽章を右襟に、左襟には隊附勤務を行っているアラビア数字の連隊番号(隊号章)を付する。さらに金星の隣には、医学の神である大国主命(オオクニヌシノミコト)の神話にちなむ五本の蒲の穂をデザインし、昭和5年制式までの立襟上衣には衛生部定色・深緑色の襟章を、昭和13年制式の折襟上衣には右胸のM字型の胸章を佩用した。 その後大学・医専を卒業と同時に、陸軍曹長の階級で将校待遇である軍医見習士官となり、歩兵連隊において3ヵ月の歩兵見習士官教育(主に将校教育)を受ける。その後実施学校たる陸軍軍医学校の乙種学生となり、同校入校と同時に大卒者は陸軍軍医中尉、医専卒者は陸軍軍医少尉に任官し晴れて軍医将校となる。乙種学生の教育期間は1年であり、さらに上級の教育課程として甲種学生課程があった。これは乙種学生卒業者から、師団軍医部長の推薦を経て選抜試験を行い採用する。期間は乙種と同じく1年であった。また精神科や口腔外科、基礎医学など専門的な科目を専攻する者は2年間の部外研修も認められていた。 予備役軍医の場合は、もともと一年志願兵制度により予備役軍医に任官したが、1932年(昭和7年)から幹部候補生制度に改められている。これは医師免許を有する者が現役兵として入営した場合、一期の師団長検閲後、衛生部軍医予備役士官を志願するというものである。試験と選考により合格者は甲種(甲幹。将校要員)と乙種(乙幹。下士官要員)とに分けられ、階級は陸軍衛生上等兵になる。原隊内で実務の教練を受けながら、3ヵ月後に甲幹は陸軍衛生軍曹になり陸軍軍医学校に入校、半年間の教育を受けて陸軍衛生曹長となり軍医見習士官となる。乙幹は陸軍病院などで訓練を受け、3ヵ月後に陸軍衛生伍長となり部隊に配属された。 日中戦争(支那事変)の影響で1937年(昭和12年)から医師の不足が深刻化し、軍医予備員制度が発足した。あらかじめ軍医予備員を志願した45歳以下の医師は、教育召集を受けてもいきなり陸軍衛生上等兵の階級が与えられる。そして、一般の内務班とは別に、軍医予備員のみで歩兵連隊で1ヵ月教育され、そののち陸軍衛生伍長に任官し3ヵ月間陸軍病院で教育を受け、召集解除の時に予備陸軍衛生軍曹になる。そして再び召集されたときには、ただちに軍医見習士官に任官された。このように陸軍の予備役軍医の制度には2種類があった。 同じ予備役軍医になるにしても、幹部候補生では3ヵ月間初年兵として他の一般兵と共に良くも悪くも平等な軍隊生活を余儀なくされる。その点軍医予備員を志願しておけば、はるかに楽をして軍医になれるので、中年以上の医師はほとんど全てが軍医予備員を志願した。しかし、中には志願しない医師もおり、軍当局はそのような医師を懲罰の意味で召集し衛生兵のまま戦地に送ったので、志願しない医師はまず存在しなくなった。この制度では、たとえ大学医学部教授であっても、軍医見習士官の待遇でいきなり軍医将校には成れなかった。
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帝国陸軍
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「パンプキン・シザーズ」の記事における「帝国陸軍」の解説
あくまで本分は帝国における陸軍であるが、情報部は国家公安も兼ねる立場となっているなど権限はかなり大きい。政治面でも国政が武力と直結しており、警察権力は軍部によって抑圧されている。組織体系として完全な縦割りであり、たとえ同一の目的があっても他部署に対して非協力的であったり、時には弱味を握ろうと動いたりしている。 帝国陸軍では戦車を単なる兵器ではなく騎士の代用品と考えており、戦車の乗員(特に車長)は「貴族・貴族の血縁者・貴族から許可された者」しかなれない。また、「平民が団結して貴族を倒す様を連想させる」「戦車が地雷等の安価な兵器で破壊されると貴族の権威が落ちる」との理由で多人数で運用する対戦車砲等の対戦車兵器の開発は公には行われていない。 少尉以上の将校(士官)は基本的に貴族のみで構成されている。戦時中、将校の不足を補うため平民でも士官学校に入学できる「平民採用制度」が施行されていた(ハンクスなどはこの時期に卒業・任官している)が、停戦後に廃止され、その時点で士官学校に在学中だった平民出身者(オレルドやマーチス、ラーン)は将校でも下士官でもない「准尉」という階級に留め置かれている。
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帝国陸軍
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大日本帝国陸軍では、現役兵として入営したものは、入営したその日から特に辞令を用いずして各兵科の区分により第三級の兵卒を命じられたものとみなされた。兵卒の等級は上等兵、一等卒、二等卒であったので、入営したばかりの兵卒は、兵科ごとに歩兵二等卒、騎兵二等卒などになった。 明治期においては在営期間は三年で、入営して半年間は生兵(せいへい)と呼ばれた。海軍は期間が来れば、原則として全員が等しく昇進したが、陸軍においては選抜制がとられた。そのため、在営二年目の二等卒や、在営三年目の二等卒も存在したのである。同時に、二年兵の上等兵と、三年兵の上等兵も並存することになった。大正時代、在営期間が2年間となって以降、二等卒(昭和三年以後に二等兵に改称)は「初年兵」ともよばれ、全員が概ね第2期検閲後の半年後(初期には1年後)には一等兵に進級するシステムに改められた。また、翌年新たに初年兵が入営すると、かつての初年兵は同じように新兵の指導に当たった。 二等卒である期間は、時期によって異なり、日清戦争の頃では木口小平喇叭手は入営してから1年半程度経過して、戦死の時点では歩兵二等卒であった。
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帝国陸軍
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「サクラ大戦シリーズの登場人物」の記事における「帝国陸軍」の解説
京極 慶吾(きょうごく けいご) 声 - 神谷明 1880年2月26日生まれ、身長179cm、体重70kg、栃木出身。 陸軍大臣。「戦神」とも呼ばれた戦略家であるのと同時に、古の陰陽師の血を引く高レベルの霊能力者でもある。 サクラ大戦シリーズの登場人物#黒鬼会も参照。 天笠 士郎(あまかさ しろう) 声 - 三木眞一郎 『2』より登場。陸軍少佐。傲慢な性格の持ち主で、大神といざこざがあった際、女性であるさくらと一緒にいる等を理由に難癖をつけ、「鉄拳制裁」と称して彼に暴行を行っている。京極に心酔しており、「太正維新計画」に自らも維新軍の指揮官として参戦するも、帝国華撃団や正規軍の反抗によって失敗に終わる。 クーデター失敗後は反乱軍将校の一人として逮捕され、年明けを待たず獄死した。
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帝国陸軍
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大日本帝国陸軍では、連隊(聯隊)は鎮台時代から置かれた。1874年(明治7年)1月に近衛歩兵連隊が編成されたのが最初である。以降、各鎮台にも歩兵連隊が編成された。帝国陸軍の連隊はその管轄地域(連隊区)の徴兵によって充足されたることから「郷土連隊」としての意識が高かった。なお近衛師団隷下の各近衛連隊は、禁闕守衛(宮城・天皇の警護)の意味合いから衛戍地こそ東京なものの、連隊を構成する下士卒は出身地に拘らず全国津々浦々から選抜される徴兵によって編成されていた。帝国陸軍の連隊は3ないし4個大隊から編成されることが多かった。騎兵連隊など一部の兵科・兵種の連隊は大隊を持たず、連隊直下に中隊がある編制となっていた。 詳細は「軍旗#大日本帝国陸軍」を参照 帝国陸軍の歩兵連隊と騎兵連隊が有した軍旗(連隊旗、旧「陸軍御国旗」)は、連隊の創設時に大元帥たる天皇より下賜されるものであった。歩兵と騎兵以外の連隊には軍旗は下賜されなかったものの、軍旗の意匠として帝国陸軍が考案・採用した旭日旗は元帥徽章などで(意匠が)用いられるなど、「(歩兵・騎兵)連隊の象徴」のみならず「帝国陸軍の象徴」として内外で認識されていた。1930年代から天皇崇拝が昂進すると、軍旗重視の意識も高まり、時としてこの旗への配慮のために作戦上の合理性が損なわれることもあった。なお、現在の陸上自衛隊において帝国陸軍時代の軍旗に相当する自衛隊旗は天皇より下賜されるものではなく職種も問わないが、各連隊に授与される。
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帝国陸軍
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「パンプキン・シザーズの登場人物一覧」の記事における「帝国陸軍」の解説
陸軍情報部第3課(パンプキン・シザーズ)については#陸軍情報部第3課(パンプキン・シザーズ)を参照のこと。
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