このえ‐しだん〔コノヱ‐〕【▽近▽衛師団】
【近衛師団(日本)】(このえしだん(にほん))
旧日本陸軍の戦略級部隊単位であった「師団」のひとつ。
帝都(首都)・東京に駐留し、皇居の警備や天皇・皇后両陛下を筆頭とする皇族の身辺警護(禁闕守護(きんけつしゅご))と儀仗部隊として天皇・皇族の儀式に参列すること(鳳輦供奉(ほうれんぐぶ))を主な任務とする「親衛隊」であった。
本師団のルーツは、明治維新直後の1871年(明治4年)、「天皇の守護」を名目に薩摩・長州・土佐の3藩から派出された1万人の兵によって編成された「御親兵(ごしんぺい)」を源流とする。
当初は皇居・皇族の警備の他、「徴兵令」で入隊した兵士の基礎的な訓練も受け持っていたが、1891年に「師団」編成に改編され、皇居・皇族の警備にあたる一方、戦時には野戦師団のひとつとして、必要に応じ戦地へ派遣された。
こうした経緯から、帝国陸軍の最精鋭かつ最古参の部隊として知られていたが、その一方で「竹橋事件」や「二・二六事件」「宮城事件」といった反乱(及びその未遂)事件の中心となることもあった。
帝国陸軍の「エリート部隊」として
旧軍(陸軍・海軍とも)の下士官及び兵は、部隊の所在地(または艦船の母港)に関係のある地域出身者が配属されるのが基本であったが、本師団には、毎年行われる「兵役検査」で全国各地の一般部隊に入営した若者のうち、眉目秀麗・姿勢良好な者が選抜の上配属された。
このことから、本師団に配属されることは「一族・郷土の誇り」とされ、本師団で兵役を務めた若者は、満期除隊して予備役になった後も縁談が多く舞い込んだり、地元の名士から一席設けられたりと、地域のコミュニティでもてはやされたという。
また、少尉以上の士官についても、昭和の初期までは皇族(当時、皇族の男性は成人すると軍に入るのが慣例だった)・華族(江戸時代まで公家や大名だった家)及び士族(江戸時代まで中・下級武士だった家)階級の出身者しか配属されず、帝国陸軍における「エリート部隊」とされていた。
この特別扱いは、将兵が着用する制服にも及んでおり、
「制帽の鉢巻部分の色が、一般部隊では紺色もしくは黄色、騎兵の制服につける飾り紐が一般部隊では黒であったのに対し、近衛兵ではそれらが赤色だった」
「騎兵部隊の下士官・兵が当初着用していた『ドルマン式上着』は、後に一般師団では廃止されたが、近衛師団では『近衛騎兵下士官供奉服』という名で使用され続けた」
「軍帽につく帽章『五芒星』の周りに桜葉の飾りがついていた」
「制服は常に新品が支給され、その古着が一般部隊へ回された」
などの話が伝わっている。
大東亜戦争にて
大東亜戦争では、開戦直前に師団の主力が南方へ進出し、緒戦のマレー・スマトラ攻略戦では他の師団と共に活躍した。
その後、昭和18年に本師団の東京に残留した部隊の一部兵員を基幹に「近衛第1師団」を新たに編成し、本来任務である皇居・皇族の警備や儀仗を受け持たせるとともに、本師団は「近衛第2師団」と改称され、終戦までスマトラ島に駐留して現地の守備に当たっていた。
また、終戦直前には留守近衛第2師団の兵員を基幹として「近衛第3師団」が新たに編成された。
近衛第3師団は千葉県・成東(現在の山武市)に駐留し、連合国軍地上部隊が関東地方(千葉県もしくは茨城県の太平洋沿岸)に上陸侵攻した際には、増援として敵の海岸堡に突入してこれを撃破する任務を与えられていたが、ポツダム宣言受諾により日本が降伏したため、実戦には参加しなかった。
終戦に伴って軍が解体された後、師団所属の元将兵の一部は宮内省の隷下に新設された「禁衛府皇宮衛士総隊」という組織に転じたが、これも占領軍の命令によってまもなく廃止され、現在では近衛師団の負っていた「皇居・皇室の警護」任務は警察庁の「皇宮警察」及び警視庁第1機動隊に引き継がれている。
(この他、有事には陸上自衛隊第1空挺団もこの任につく、と言われている)
ちなみに、本師団の旧司令部庁舎は現在、東京国立近代美術館の工芸館として使われている。
関連:親衛隊 第82空挺師団(アメリカ軍) 政経中枢師団
近衛師団
近衛師団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:22 UTC 版)
師団長は、1936年(昭和11年)3月23日に、橋本虎之助中将から香月清司中将へ交代。橋本中将は同年7月10日、予備役編入。
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