しょ‐せん【緒戦】
ちょ‐せん【緒戦】
緒戦(サラドゥルの戦い)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:37 UTC 版)
「ナヤン・カダアンの乱」の記事における「緒戦(サラドゥルの戦い)」の解説
5月庚子日、上都を出発したクビライ軍は遼河方面に向かって急行し、6月壬戌日にはサラドゥル(撒児都魯、ラオハ川附近にあったと見られる)の地に到着し始めてナヤン軍と接触した。この間僅か21日のことであり、『東方見聞録』もクビライ軍が僅か20日でナヤン軍と接触したことを驚きを以て記している。サラドゥルにはナヤン軍の先鋒としてタブタイ(塔不帯)・金剛奴らが6万の兵とともに進軍してきており、ここで両軍は初めて干戈を交えることになった。 この時クビライ軍は遠路を疾駆して疲労困懲していた上、雨が長く続き軍糧も乏しく、撤退を進言する将軍もいた。しかしクビライ・ケシクに属するカシミール人仏教僧のテケは「かつて李広は一将のみで敵軍に疑念を懐かせることで撤退せることができました。ましてや陛下の万乗の威厳があれば同様に敵軍を撤退させることは容易いことでしょう。今敵軍は多く我が軍は少なく、また我が軍は地の利を得ていません。敵軍に疑念を懐かせることで撤退させるべきです」と進言し、クビライはこれに従った。クビライは部下に命じてゲル(天幕)を張らせてその中で胡床に座り、泰然としてテケの進める酒を飲んでいたところ、果たしてタブタイらは不利な状況にあって泰然とするクビライ軍の姿を見て伏兵の存在を疑い攻撃をしかけなかった。 その後クビライ軍の軍勢が整うと、丞相のバヤンはタブタイ・金剛奴との戦いに漢人将軍の李庭・董士らを起用することを提案した。李庭はアス軍などを率いてタブタイ・金剛奴軍と戦ったが、李庭が流れ矢に当たってしまったことや弩弓の不発もあって敵軍を倒しきることができなかった。その夜、クビライが李庭に敵軍の動きについて尋ねると、李庭は「敵軍は今夜中に必ず退却するでしょう」と答え、その夜に夜襲をかけることになった。洪茶丘は衣服や馬の尾を裂いて旗に見せかけ、また材木を蔽って兵のように仕立て、実際よりも兵数を多く装って夜襲に臨み、また李庭は壮士10名と「火砲」を持って敵軍に夜襲をかけた。李庭らが敵陣に入って火砲を放つと、敵軍は混乱して同士討ちを始め、遂に潰散してしまった。後にクビライが李庭に夜襲が成功した理由を尋ねると、李庭は「敵兵は数は多いが紀律がなく、陛下の車駕がここにあるというのに攻勢をかけてきませんでした。(このような消極性から、)敵軍の背後には更なる大部隊があって、敵将はそちらに退却しようとしているのだと疑ったのです」と答えたという。 敗走したタブタイ軍はマングト人のボロカンが追撃し、両軍は2日に渡って転戦した後、大いに反乱軍を撃ち破ったボロカンは敵将のクリル・キュレゲン(駙馬忽倫)を斬る功績を挙げた。また、この時に洪万とチェリク・テムルが別のナヤン軍の将軍を「黄海」にて破っている。更に別行動を取っていたウズ・テムル率いる軍団がこの時合流し、クビライは主力の騎兵部隊をウズ・テムルに、漢人部隊を李庭にそれぞれ率いて進軍するよう命じ、元軍は遂にタブタイを捕虜とした。このようにして緒戦はクビライ軍の勝利に終わったが、李庭が推察したようにナヤンの本軍は近くにまで迫ってきており、この緒戦からほどなくして主力軍どうしの会戦が行われることとなった。
※この「緒戦(サラドゥルの戦い)」の解説は、「ナヤン・カダアンの乱」の解説の一部です。
「緒戦(サラドゥルの戦い)」を含む「ナヤン・カダアンの乱」の記事については、「ナヤン・カダアンの乱」の概要を参照ください。
緒戦と同じ種類の言葉
- >> 「緒戦」を含む用語の索引
- 緒戦のページへのリンク