近衛騎兵
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「大陸軍 (フランス)」の記事における「近衛騎兵」の解説
近衛騎兵は1804年に創設され、猟騎兵連隊(Chasseurs-à-Cheval)と騎馬擲弾兵連隊(Grenadiers-à-Cheval)の2つの連隊と精鋭集団であるジャンダルム(Gendarmes)大隊およびマムルーク(Mamelukes)大隊があった。1806年に3番目の連隊として皇帝近衛竜騎兵連隊(Régiment de Dragons de la Garde Impériale、後の皇妃近衛竜騎兵連隊)が追加された。1807年のポーランド方面作戦に続いて、ポーランド槍騎兵連隊(Régiment de Chevau-Légers de la Garde Impériale Polonais、皇帝近衛ポーランド軽騎兵連隊)が追加された。1810年にはもう一つの槍騎兵連隊がフランスとオランダの新兵を編入して創設された。これを第2皇帝近衛軽騎馬槍騎兵連隊(2e Régiment de Chevau-Légers Lanciers de la Garde Impériale)あるいは赤い槍騎兵連隊と呼んだ。1812年には第三の軽槍騎兵連隊が創設され、また、偵察兵連隊は1813年の末に創設された。 近衛騎兵は数多く実戦に参加しており、少数の例外を除いてその戦闘力を示してみせた。近衛騎兵の歴史の中で最も有名な逸話はワーテルロー会戦でのポーランド槍騎兵の攻撃である。この時は胸甲騎兵と隊列を組み、イギリス軍のロイヤル・スコッツ・グレイズ(第2竜騎兵連隊)とイギリス連合旅団を敗走させた。 近衛騎馬擲弾兵(Grenadiers-à-Cheval de la Garde Impériale) 「神」(Gods)とも「巨人」(Giants)とも呼ばれたこの連隊はナポレオンの近衛騎兵連隊の中でも精鋭集団であり、「不平屋」(上述)と並ぶ双璧となった。 すべて大きな黒馬に乗った。見込みのある新兵は背の高さ176 cm以上、10年以上の軍歴があり、最低4回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されている必要があった。 この連隊はアウステルリッツの戦いでロシア軍近衛騎兵を打ち破る功績を挙げたが、最も有名な戦闘はアイラウの戦いの時のものだった。この時は、ロシアの60門の大砲の砲撃に暫く曝されて兵達は退避場所を探し始めた。指揮官のルイ・レピック大佐が叫んだ「諸君、頭を上げよ。あれは単なる砲弾であって、糞ではない」間もなく彼らはミュラの攻撃に加わりロシア軍の戦列になだれ込んだ。皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊はポーランド槍騎兵連隊とともに、一度も負けたことがない近衛騎兵連隊であった。 制服は高い熊毛帽、濃青の上着と襟、白の襟章と特に長い長靴であった。 重騎兵用のサーベルと騎銃、拳銃で武装しており、皇帝近衛軍の全部隊と同様に、彼らも戦闘時には予備隊として控え、勝利を確実にするここぞという時にだけ戦場に出ており、擲弾騎兵の最も有名な2つの攻撃がアウステルリッツの戦いでロシア胸甲騎兵連隊を敗走に追い込んだ事とアイラウの戦いで再び、ロシア軍と交戦した事である。 近衛猟騎兵(Chasseurs-à-cheval de la Garde Impériale) 「寵愛された子供達」(暗に「甘やかされた餓鬼」と言っている)ともといわれた猟騎兵連隊は、軽近衛騎兵であり、大陸軍の中でもナポレオンのお気に入りで、最も認められた部隊のひとつと言える。 フランス革命の1796年、ナポレオンはイタリア遠征に赴いていたがボルゲットで昼食中にオーストリアの軽騎兵に襲われからくも逃げ出した経験があり、その後ボディガードのための騎兵の創設を命じた。この時の200名の護衛が猟騎兵連隊の前身となった。部隊と皇帝との密接な関係はナポレオンがしばしば連隊の大佐の制服を着ていたという事実からも肯定された。 部隊はアウステルリッツの戦いで初陣を飾り、ロシア軍近衛騎兵を破る際に貢献した。半島方面作戦では、1808年のベナヴェンテでイギリス騎兵の大部隊に待ち伏せを受け敗走した。しかしワーテルローでの特に勇敢な戦い振りで再び評価を上げた。 騎兵はきらびやかな緑と赤と金の騎馬服に身を包み、皇帝のお気に入りという地位を利用していることも知られていたが、時には訓練が足りない様子や不服従の色さえ見せていた。近衛マムルーク(Escadron de Mamalukes) 恐ろしい砂漠の戦士であり、その忠誠心をボナパルトはエジプト遠征で獲得した。狂信的勇気を伴う優れた騎馬術と剣使いを併せ持った部隊。元々は皇帝近衛猟騎兵連隊所属の中隊(あるいは半大隊)であった。 ロマンチックに「正真正銘の砂漠の息子」であるとか、「首狩り族」などと見られているが、士官はフランス人であり、下士官はエジプト人やトルコ人ばかりでなく、ギリシア人、グルジア人、シリア人、キプロス人なども含まれていた。 1805年のアウステルリッツの戦いで頭角を現し、独自の軍旗と第2のトランペット奏者を獲得し、大隊に昇格した。この部隊は時には古参近衛隊の一部となり、ワーテルローでは皇帝の直参として活躍した。1813年には第2マムルーク中隊が結成され新規近衛隊に所属した。先輩格のマムルーク大隊と同様に、猟騎兵連隊と連携し1815年の百日を戦った。 制服は緑(後に赤)の帽子、白のターバン、緩いシャツとチョッキ、赤のズボン、黄または赤または黄褐色の長靴と色使いが華やかであった。武器は長く反った三日月刀に拳銃と短刀の組み合わせだった。その帽子と武器には真鍮製の三日月と星の記章が留められていた。 近衛精鋭憲兵(Gendarmerie d’Elite) 滅多に戦闘場面に遭遇しないという事実によって「不死身」と渾名されたが、それでも重要な役目を果たした。ジャンダルムは大陸軍の憲兵であった。作戦本部の近くにあってその安全と秩序を図るとともに、捕虜を尋問し、賓客を護衛する栄誉に浴し、また皇帝の個人的な持ち物を警護した。 1807年の後は、実際の戦闘に参加する機会が増え、1809年のアスペルン=エスリンクでのドナウ橋の防衛で有名である。 制服は濃青の上着と赤の襟章、長い長靴と、騎馬擲弾兵のものより幾分小さい熊毛帽であった。 皇妃竜騎兵(Dragons de l’Impératice) 1807年に皇帝近衛竜騎兵連隊(Regiment de Dragons de la Garde Impériale)として創設され、翌年皇妃ジョセフィーヌに敬意を表して改称された。 この連隊に入るには、少なくとも6年(後に10年)の軍歴があり、最低2回の方面作戦に参加し、勇猛さで表彰されており背の高さ173 cm以上(騎馬擲弾兵連隊よりやや低い)である必要があった。30個あった正規竜騎兵連隊からは1回の編入が1個連隊当たり12人までとされ、後に10人までに減らされた。他の近衛連隊からの志願者も編入を認められた。 この連隊は戦闘用というよりも儀礼用であり、戦闘に参加する機会は滅多になかったので、入隊を求める競争が激しかった。赤い槍騎兵と同様、古参近衛隊と新規近衛隊の大隊があり、最後まで皇帝とともにあった。 近衛軽槍騎兵(Chevau-Légers-Lanciers de la Garde Impériale) 第1連隊(ポーランド) 1807年にナポレオンがポーランド軽騎兵の近衛連隊を創設することを承認した。フランス人の教官により訓練が施された。しかし、初めての閲兵の時に、ボナパルトの皮肉「彼らは戦い方を知っているだけだ」によって位置付けが不明確になり、教官は即座に解雇された。それにもかかわらずボナパルトはポーランド軽騎兵を側近に置き、翌年のソモシエラの戦いでは、パレードの代わりに戦いの場でその存在価値を示す機会を与えられた。ナポレオンは彼らに防御の厚いスペイン砲兵陣地への攻撃を命じた。武器といえばサーベルと拳銃に過ぎなかったが、彼らは4個砲兵中隊を打ち破り20門以上の大砲をろ獲し、戦いの流れを決定的に変えた。このほとんど伝説的な偉業の後で、ナポレオンは「ポーランド人よ、君達は私の古参近衛隊と同じ価値がある。君達を私の最も勇敢な騎兵隊と宣言しよう」と言った。古参近衛隊に昇格され、槍を与えられたこの連隊はワーテルローまで皇帝の側近にあり、皇帝近衛騎馬擲弾兵連隊と同じく、敵に負けることはなかった。この第1連隊が発展して正規軍の中に第1ヴィスツラ・ウーラン(1e Vistula Uhlans)というポーランド人の騎兵隊ができた。このことは単により良い部隊であるということだけではなく、深い政治的な信条の違いに基づくものであった。 ウーラン槍騎兵の熱狂的なナポレオン支持とともに、その多くは(大部分ではないかもしれないが)強硬な共和制信奉者であった。このような部隊間の政治的あるいはその他の相違点は珍しくなく、ここによく表されている。フランス人に教えられる立場から、同僚のヴィスツラとともに教える立場に転換し、フランスや大陸軍の他の槍騎兵に対する模範となり、彼らの恐ろしいばかりの有効性を倍加させることになった。 第2連隊(フランス=オランダ) 1810年にフランス人とオランダ人が中核となり創設された。部隊はその目に付く制服から赤い槍騎兵(Les Lanciers Rouges)と呼ばれた。 この部隊もロシアではコサックの攻撃と冬の厳しさのために甚大な被害を受け、ほとんどの兵と馬が失われた。連隊は1813年に再編制され、その最初の4個大隊は古参近衛隊で構成されたために強力になり、さらに新規近衛隊から6個大隊が作られた。その後多くの戦いに参加して目立った働きをし、最後のワーテルローにも参加した。 第3連隊(ポーランド) 1812年に新規近衛隊の一部として編制された。士官や下士官は古参兵であり、兵卒はポーランドやリトアニアの学生や地主の息子で、熱烈ではあるがまだ経験が足りない者たちで構成された。 訓練が足りないままにロシア戦役に投入され、1812年の遅く、コサックとユサールによって包囲されスロニムで崩壊した。 近衛儀仗騎兵(Gardes d'honneur de la Garde impériale) 1813年に新設された彼らは、ナポレオンが新しく考案したサポート専門の騎兵であり、近衛騎兵の各連隊に随伴して、様々な支援任務をこなすことを求められた。これを儀仗兵(Gardes d'honneur)に例えた。新しく徴集した富裕層子弟中心の青年騎兵から選ばれた者たちで4個連隊が編制された。これを発展させて高度なスカウト任務も与えられた者たちが、近衛偵察騎兵になった。 近衛偵察騎兵(Eclaireurs de la Garde Impériale) モスクワからの惨憺たる退却中、ナポレオンは数多くのコサック連隊の手腕に非常に印象づけられていた。そこで彼は、1813年12月における皇帝近衛隊の再編制期間中に、彼らを参考として新しい騎兵旅団を創設した。そして各1,000名から成る3個連隊が創設されて既存の連隊に付けられた。第1連隊はクロード・テスト・フェリColonel-Major(皇帝近衛隊限定の名誉大佐称号)が指揮した。(1814年3月14日にクラオンヌの戦場で彼は負傷し、ナポレオン自身から男爵の称号を授かった)
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