後輩からの敬慕
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三浦美幸 「極真門下で尊敬している人は?」の問いに三浦美幸は、 「 大学時代はクラブのキャプテンだった添野義二先輩と、本部道場で教えてもらっていた山崎照朝先輩ですね。あの時、山崎先輩はヒーローでしたから。アメリカに行ってからは大山茂最高師範ですね。 」 と答えている。 吉岡幸男(証言2) 「 僕らはキックボクシングをやっていなかったから、空手道だけを指導していただきましたが、キックボクシングが流行っていた時なので、山崎照朝先輩は人気もありました。 」 岸信行 「 山崎照朝先輩はキックボクシングでも活躍されていたね。あの頃、極真の山崎と言えば理屈抜きに恐ろしい存在だったんだから。俺は山形で幾らかの空手の修行はしていて、ある程度のことはできたけれども、山崎先輩に厳しく鍛えられたお陰もあって今の自分があると思っているよ。 」 佐藤勝昭(証言2) 出会いから憧れへ 「 私の兄は極真カラテ修行していたが、その兄から山崎照朝という技のものすごく切れる人がいると聞いていた。入門初日、稽古前に柔軟体操しながら待っていたら、大太鼓の高鳴りとともに、一人の黒帯が立ち現れた。一瞬、張りつめた空気が道場にみなぎった。すらりと均整の取れた身体つきで眼光が鋭く、どこかニヒルな雰囲気を身に漂わせながら、二枚目で格好良いその人が山崎先輩だった。以前見学した他の空手道場の黒帯とは違い、触れると切れそうな、凛呼とした雰囲気がうかがわれた。稽古が始まり、まごつきながらも一所懸命に突きや蹴りを出した。もとより私は空手はわからないのだが、山崎先輩の教え方の上手さに感心した。私もかつて大成高校で柔道のコーチをしていた経験から教える難しさをわかっていたからである。しかし、山崎先輩は教え方のツボを知っているらしく、相手の悪いところを指摘し、ちょっと手直しすると、その後の動作は素人目にも見違えるように良くなっている。教え方にも迫力があり、それでいて以前見学した他流道場の黒帯のような妙に威張ったところがない。 自由組手が始まり、山崎先輩が色帯の上級者と対戦する。その時、山崎先輩の技を見て驚いた。上段回し蹴りなど、まるでムチのようにしなやかで切れ味がよく、凄かった。兄が絶賛するだけのことはあるなと納得した。稽古後「きみは佐藤さんの弟か」と山崎先輩に話しかけられた。「はい、そうです」、「なるほど、稽古中の身ごなしが兄さんそっくりだな。佐藤さんは非常な努力家だった。きみも負けずにがんばれよ」と励まされた。私の山崎先輩に対する印象は良かったので、すっかりうれしくなった。「よし、やってやる」と、ますます意欲的な心構えになった。 私の通っていた頃の本部道場は専任の指導員はなく、その日道場にきた一番上の帯の者が教えていた。山崎先輩の姿が見えないと「ああ、今日は山崎先輩いないのか」ってひどく寂しく感じた。稽古の途中でひょっこり顔を出すようなことがあると、とたんにうれしく、突きや蹴りにいっそう熱が入った。あくまでも稽古は自分のためにであって、教える人次第で熱心さに差がでるのはおかしいことなのだが、そんな思いをさせるほと山崎先輩には人間的魅力があった。私は山崎先輩の指導よろしきを得て、突きや蹴りもなんとかサマになるようになっていた。 入門して3か月後、山崎先輩に勧められて昇段昇級審査を受けた。いよいよ組手になったときに大石さんや岸さんは上段回し蹴りや後ろ蹴りで相手をKOしていたが、私の組手は、全く見栄えのしないものだったので、審査が終わった時、落ち込んでいた。ところがそれにもかかわらず、この初審査で私はいきなり緑帯(四級)へ進級を許された。わずか3か月の稽古でこのように大幅な飛び級した例はそれまでいなかった。私は大いに驚き、かつ感激した。これは普段の稽古ぶりを見ている山崎先輩の、大山倍達館長への進言が大きくものをいった結果に違いなかろうと、そのとき私は確信した。山崎先輩に大いに鍛えられもしたが、厳しさの中に愛情があり、暖かいものを感じていた。爾後、まずます山崎先輩を尊敬するようになり、普段の歩き方や話し方など、無意識に山崎先輩の真似をしている自分を発見することもしばしばであった。 」 佐藤勝昭が受けた影響 「 緑帯は気骨の折れる地位であった。茶帯の先輩たちは後輩が伸びてきて自分の地位を脅かし、さらに追い抜かれる可能性があるので、徹底的につぶしにかかる。黒帯のようにひとまず到達した地位とは違い、あこがれの黒帯目前なので、その潰し方は激烈であった。これが良いほうに作用すれば、先輩後輩ともども共通の目標に向かって互いに切磋琢磨し、技の向上、人格の練成がはかれる。しかし、この当時はそれを悪用し、単なる弱い者いじめをしている先輩がいた。組手の際、下位の者の突きや蹴りがうまくきまったり、間違って先輩の顔面に入りでもしたら、上の者は「この野郎」とばかり、顔面パンチや金的蹴りなど、何をしてでも相手を倒しにかかり、2倍、3倍にして返されるのである。そして、倒れた相手に対してもなお、突きを入れたり踏みつけたりする。それでいて下位の者がこうした技で反撃に出ることは許されない仕組みで、へたに反撃するとひどい目にあわされるのであった。城西大学の黒帯連中も本部道場に出稽古に来たとき、山崎先輩みたいな強い先輩がいるときはあんまり乱暴しないが、いない時にはもう容赦なしに下位の者を徹底的に痛めつけていた。山崎先輩は毎日稽古にでてくるわけではない。また、出てきても1日に二度も稽古にでることは限らない。大山倍達館長も多忙で常時、道場に目を光らせていたわけではない。師やよき先輩の目の届かないところで、弱い者いじめが行われていたこともあった。組手時に、下級の者は思い切って出て行くことはできず、いきおい「参りました、参りました」の連発で逃げ回ることとなり、これでは互いに稽古にならない。山崎先輩は相手に遠慮なしに向かってこさせ、良い技がきまった場合、「よし、今の突きは効いた。そのタイミングを忘れるな」といって、相手の長所をさらに伸ばそうと務めていた。極真カラテの先輩でもある兄から「参りました、は絶対に言うな」ときつく言われていたので、私はガムシャラに突っ込んでいく攻撃一本槍の組手に終始していた。 そんな次第だから気の荒い先輩とケンカ沙汰になり、たびたび周囲に止めてもらい、こんな理不尽なことを兄にも話せず、独りで耐えていた。参っていないのに「参りました」を口にするのは自分を放棄しているのも同然であり、相手に対しても無礼をしていることになる。だから「参りました」という言葉に嫌悪感を抱いていた。しかし、こんな私でも「参りました」ということがあった。山崎先輩と組手をするとき、顔面の突きや蹴りを、寸前で止めてくれる。「もし、この突きや蹴りをまともに食ったら、自分は一発でのびてしまうだろう。それを山崎先輩はあえてしなかったのだ。未熟な自分を教えるのに、こういう方法を取るのが最善だと思い、寸前で止めてくれたのだ」ということが、常日頃の態度から推察がつくのである。こういうときに素直に、心の底から「参りました」という言葉が出てくるし、また自ずと頭も下がるのである。 この「参りました」という言葉は、技の素晴らしさもさることながら、実は相手の人格に対して出るものなのである。山崎先輩みたいな本当に強い先輩が、強さだけでなく、自分の全人格を持って教えてくれることに感動した。私はこのような良き先輩から、指導とは人格と人格とがぶつかる真剣勝負だということを教えられた。後年、私が指導員になった時、独立して佐藤塾で指導するようになった時、後輩や弟子の突きや蹴りがたとえ顔面に入っても、決して報復の拳に出るようなことはせず、痛さをこらえて、相手を褒めてやるように心がけた。「朱に交われば赤くなる」という諺があるが、空手修行のとばくちで山崎先輩のような人格的に優れた先輩から、初心の段階で指導を受けたことは、私にとって真実幸福なことであり、恵まれたことだったと思う。 」 真樹日佐夫は山崎の佐藤勝昭への指導ぶりを、 「 山崎は一般稽古後にも勝昭に居残るよう言い置き、地下道場のサンドバッグで突きや蹴りを手取り足取り指導したことが、勝昭の実力向上へ繋がっている。 」 と評している。 磯部清次 「 山崎照朝先輩は、とにかくその技は華麗そのものだった。私が本部道場の道場生に混じり、移動稽古を行っているところへ山崎先輩がやって来た。道場の隅の方でシャドーボクシングをやり始めたので、私は移動稽古を行なう傍ら、山崎先輩の動きに注目していた。キックボクシングの試合に備えて、調整していたのである。山崎先輩は空手とは微妙に異なった独特の動きから、時折もの凄いスピードで回し蹴りを放っていた。そのシャープな蹴り技は、一介の白帯に過ぎない私に強烈なインパクトを与えた。山崎先輩はキックボクシングのリング上でも実力を如何なく発揮し、KO勝利を重ねた。その後、内弟子入門を果たしても山崎先輩は憧れの対象だった。茶帯を取得してからはよく声をかけて頂き、私は憧れの先輩に励まされるたびに、頑張ろうと気持ちを奮い立たせていた。山崎先輩は華麗な蹴りを武器にオープントーナメント全日本空手道選手権大会の初代王者に輝いた。そのときの山崎先輩の試合ぶりを見て、私は極真空手の虜となったといっても過言ではない。それほど、山崎先輩の影響は大きかったように思う。 」 大石代悟(証言1) 「 ムダなことは一切しゃべらず、めったに笑ったりもしない人でした。私の憧れで、本当にストイックで一徹な先輩でした。凛として、人を近づけないような、そしてまず人に頭を下げないような人でした。1970年1月末に山崎照朝先輩が指導するクラスに出席しました。稽古終了後に白帯締めた人が道場に入ってきたんです。そうしたらあの山崎先輩が入ってきた白帯に対して、姿勢を正して「押忍」と頭を下げたんです。私も負けん気だけは強かったですし、黄帯を締めていましたからビックリして「何だ、この白帯は? 」と思いました。すると、その白帯から「君、ちょっと組手の相手をしてくれないか」と手招きされたんです。「相手をしていいいのかどうか」と思っていたら、滅多に笑わない山崎先輩が笑いながら「OK」の合図をされたのです。そして組手を3回したのですが、あっという間に背後に回り込まれて、そのつど鮮やかに転がされました。そうしたら山崎先輩が「先輩、もういいでしょう」と言ったんです。その白帯が大山泰彦先輩でした。泰彦先輩が「道着を着たのは何年ぶり」などと、山崎先輩といろいろ話し合ってましたが、私はこの両先輩に憧れ、大きく影響を受けました。 」 真樹日佐夫は大石の山崎に対する憧れぶりを、 「 大石が「先輩、先輩」と常に山崎のあとについてまわり、挙句の果てには下宿まで近間に移してしまう、といった心酔ぶりに「まるで映画スターのあとを追い回すファン心理のようなものじゃないか」と言ってからかったが、大石は照れるどころか「オス、まったく」と、いとも嬉しそうなのには開いた口がふさがらなかった。 」 と述べている。 真樹日佐夫 「 “龍”の異名をとる極真の逸材・偉材である山崎は、数多くの同門の後輩たちに慕われていた。しかし山崎の著書『無心の心』でこれらのことには一行も触れられておらず、山崎の謙虚な性格を示しているといえよう。針ほどの修行体験を棒の如くに言い立てて、自己宣伝にこれ努める輩の横行する今時に、この山崎はまこと珍重すべき「無欲恬淡(むよくてんたん)の武人」である。この謙虚と無欲な性格とは裏腹に、山崎は自分の技に絶対の自信を持っていた。当時ボクシング世界ヘビー級チャンピオンのジョージ・フォアマンの話題が上がった時に、山崎は「真剣勝負ならフォアマンなんかちっとも怖いことありませんよ。こちらには金的蹴りがありますからね」と言い切った。大山倍達にこのやりとりを話して意見を求めたところ、大山は「そりゃ山崎が稽古さえちゃんと続けておればね…」と勝つ可能性があることを認めたので、私はとても愉しい気分にさせられた。また、フォアマンの話をした同じ時に山崎は「極真の初段クラスなら、ボクシングの日本チャンピオンあたりには負けませんよ、絶対!」とまことにあっさりと断言したのだ。彼はここまで、極真カラテに誇りを持って…、私はただ感動した。 」 花澤明(証言2) 「 極真会館の先輩の中でも一番温厚で付き合いやすかったのは、山崎照朝先輩と大沢昇先輩ですね。山崎先輩は紳士でしたし、組手もきれいでした。山崎先輩は人間的にすごく形成された人で、温厚なんですよ。自分がすごく強いのに偉ぶらないし、大先輩なのに先輩ぶらないんです。私なんかもやっぱり憧れていました。優しくて強くて良い人だなと思っていました。。 」 中村誠 「 大山倍達館長に認められるのに時間かかりましたよ。初対面で「まあ、頑張りなさい。でも、キミは続かないよ」と言われましてね。「カラダが大きいのは極真カラテは続かない」という風潮が当時、あったんですよ。白帯で初めての審査の時に頑張ってええ組手して、飛び級だと思ったら青帯なんですよ。それ以降の審査も一段一段上がりましたからね、帯は。ということは館長はそれほど期待していないんですわ。僕に対しても「いつまで続くのかねぇ、この男は? 」って感じでね。私に期待しとったら、飛び級したっていいじゃないですか。強いんだから、そこそこ。自惚れて言うじゃないけども。館長がよく話しかけてくれるようになったのは、茶帯取ってからですわ。山崎照朝先輩によく可愛がられてねえ(笑)。可愛がられたっていうのはメシ食わしてもらったとかじゃないんですよ。私らで言う可愛がられたっていうのは、組手の相手させられることだからね。 それで山崎先輩が館長に「あの中村っていうのはいいですよ」と言ってくれたらしいんですわ。まあ、そういうことで会社も辞めて、本部に入って、空手一本の生活になったわけですよ。 」 中村が第8回オープントーナメント全世界空手道選手権大会の全日本選手団監督に就任し、代表選手の合宿が行われた時に取材で訪れていた山崎に選手達を叱咤激励してくれるよう、中村はお願いしたこともあった。山崎は「小よく大を制するに必要なことは、精神で負けないこと。私たちの時代は大山倍達総裁の看板を背負って絶対に負けない、負けたら腹を切るという気持ちで向かっていきました。前回はフランシスコ・フィリォ選手に王座を奪われてしまったが、今回は是非取り返してほしい。ぜひ頑張ってください」と鼓舞激励した。 川畑幸一 「 山崎照朝師範のような蹴り技の上手な先輩に憧れがありました。小さい人間が足や腹を蹴ったり突いたりしても、大きな人間には効かないと思っていたので、入門当時から上段蹴りを身につけたいという気持ちは強かったですね。 」 家高康彦 「 時折、本部道場にやって来られ、サンドバッグを蹴ったり、ベンチを持ち上げる山崎照朝氏の姿を目にしたことはあります。当時の私は「格好いいな」と憧れの目で氏を見つめていたことを思い出します。のちに極真を離れられた山崎氏に、雑誌記者として取材をしたことはあります。きわめて紳士的で好印象でした。大山総裁が亡くなられ、本部で遺族が記者会見を行なった際、遺族と同席された山崎氏を私は見ています。 」 松井章圭(証言4) 山崎との組手を終えた松井は「山崎先輩の組手は、間合いに入ったら何か恐ろしいことが起こることが起きることを予感させる」と畏怖していたが、稽古を終えて山崎は松井に「技」「構え」「攻防一体の組手」の重要性を伝授した。帰宅した松井は風呂に入るために衣服を脱いで身体を鏡で見ると、山崎の攻撃で鳩尾や肝臓など人体の急所に傷跡が正確に付いており、「凄い、山崎先輩は。引退されてから7年も経っているはずだ。それなのにこんなに技の威力を保っておられるなんて…。しかも技は鞭がしなるように柔軟で伸びがある」と、相変わらずの強さを維持し、変わらない稽古を積んでいる山崎に、松井は少なからず感動していた。松井は後輩である柿沼英明や佐藤竜也 などを伴って、山崎の元へ出稽古に通うようになった。 増田章 「山崎先生の話はいつも歯切れがよい。そして男前でかっこいい」と“伝説の空手家で大先輩”と自身のブログで敬意を表している。
※この「後輩からの敬慕」の解説は、「山崎照朝」の解説の一部です。
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