忌諱・憚られた名乗り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 09:54 UTC 版)
三河守(将軍家養子の津山松平家のみ例がある)や武蔵守や山城守(慶応3年3月25日より)の禁止徳川氏発祥の地である三河と、江戸城のある"将軍の国"武蔵の二国は、これを名乗ることをはばかられ、通常は任命もされなかった。 ただし少数の例外はあり(将軍家の兄の系統である結城秀康・松平忠直、津山松平家の三河守松平綱国など)。 治部少輔(石田三成)や尾張守(陶隆房、松田憲秀)の忌避(徳川に敵対、主君に謀反・裏切り) 同様に、右衛門尉(関ヶ原の戦いで東西両陣営に日和見した増田長盛が名乗る)、右兵衛尉(実兄を密告し栄達した山県昌景が名乗る)、右衛門佐(親子で天下人に二度も謀反のうえ自害した松永久通が名乗る)も忌避された、とされる。その一方、左兵衛尉(浅井久政・小山田信茂など、判断を誤り予期せぬ最期を遂げた)、左衛門督(朝倉義景・小早川秀秋・大崎義隆など、家を潰した)、左衛門佐(真田幸村=信繁、大坂の陣で徳川幕府に敵対)などは、水戸徳川、庄内酒井、喜連川(足利)、吉良、遠山などに使用されたため、上記の忌避には一貫性が無いとする説・主張もある。 上野介は忌避されず、多くの大名や旗本が名乗っている(本多・堀田・吉良・小栗など)。また、日向守は本能寺の変を起こした明智光秀以後暫くは名乗るものがなかったが、特に忌避されていたとする史実はない。江戸時代に入って以降、摂津高槻藩永井氏、伊勢亀山藩石川氏、下野宇都宮藩戸田氏、下総結城藩水野氏や越前松平家の分家である越後糸魚川藩松平氏が代々使用するようになった。
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