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松永久通とは? わかりやすく解説

松永久通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/06 19:06 UTC 版)

 
松永 久通
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文12年1月8日1543年2月11日[1]
死没 天正5年10月10日1577年11月19日
改名 久通→義久→久通
別名 :久道
通称:彦六、右衛門大夫、右衛門佐、金吾
官位 従五位下右衛門佐
幕府 室町幕府
主君 三好長慶義継織田信長
氏族 松永氏
父母 父:松永久秀、母:不明
正室:十市遠勝の娘
子2人、彦兵衛(一丸)?
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松永 久通(まつなが ひさみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将松永久秀嫡男

生涯

天文12年(1543年)、三好氏の家臣・松永久秀の嫡男として誕生。早くから父に従い、永禄6年(1563年)閏12月に従五位下右衛門佐に叙位任官[2]、同月に家督を譲られ[2]大和多聞山城主となる。

永禄7年(1564年6月22日、主君・三好長慶の甥で養嗣子の三好義継に従い上洛、23日室町幕府13代将軍足利義輝と謁見し[3]、義継は長慶の後継者としての地位を確認された[4]。7月4日には長慶が死去し[4]、義継が名実ともに三好家当主の座についた。

永禄8年(1565年)5月1日には義継や三好長逸とともに上洛して義輝に出仕し、義継とともに偏諱を受けて、久通は「義久」に改名した[5]。しかし5月19日、義継や長逸、久通は一万余りの軍勢を率いて再び上洛し、二条御所にいた義輝を襲撃、殺害した(永禄の変[6]。この後、名を義久から久通に戻した[7]

同年から父・久秀と長逸ら三好三人衆の内戦が始まり、永禄9年(1566年)6月に父が姿をくらますと多聞山城の守備に徹し、永禄10年(1567年)4月に父が復帰するまで三人衆方の筒井順慶と大和で戦った[8]

永禄11年(1568年)9月、織田信長が義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛してくると、父と共に義昭に帰参し、義昭・信長から大和支配を認められる[9]。10月には筒井順慶から筒井城を奪い、その他の筒井方諸城も義昭・信長からの援軍を受けて攻略していった[10]

以後、久秀・久通父子は義昭幕府の下で活動するが、元亀2年(1571年)に幕府から離反した[11]。久秀・久通は義継や三人衆らとともに義昭・信長方と戦うが、反義昭・反信長勢力が優勢となる元亀4年(1573年)2月、義昭も信長を敵として挙兵した[12]。しかし義昭の挙兵が二度とも鎮圧され、同年11月に若江城の義継も滅亡すると、織田軍に多聞山城を攻められていた久秀・久通は信長に降伏した[13][14]

この後、天正3年(1575年)3月に塙直政が大和守護を務めることになり、直政と筒井順慶を中心に大和は支配されることとなる[15]。この体制の下、同年7月に久通は十市遠勝の娘おなへ(御料)を妻に迎え、龍王山城に移った[16]。11月には妻の一族の十市遠長を攻め[注釈 1]、12月には龍王山城西麓の柳本城を落とした[18]。遠長との戦いは翌年まで続き、天正4年(1576年)3月に原田(塙)直政が十市城を接収し、遠長を河内へ追放している[19]

同年5月、石山本願寺攻め(石山合戦)に参加し、天王寺の戦いで直政は戦死、一時は久通も戦死したとの噂が流れたという(『多聞院日記』)[20]。原田直政の死後、大和の支配は筒井順慶に任され(『多聞院日記』)[21]、また信長によって多聞山城の破却が決定され、同年8月から翌天正5年(1577年)7月に掛けて、久通はその解体に関わった[22]

天正5年(1577年)8月17日、久秀・久通父子は本願寺攻めから離脱し、信貴山城に籠城した[23]。9月末には松永方の城に織田の軍勢が差し向けられ、久通は10月1日に柳本城で自害したとも(『多聞院日記』)、柳本城から信貴山城に逃れ、10月10日に久秀とともに自害したとも考えられる(信貴山城の戦い[24]。また信貴山城から脱出し、大坂方面へ落ち延びる途中で雑兵に殺されたとする説もある(『 老人雑話』)。織田家に人質として預けられていた子が2人(14歳と12歳だったという)いたが、信貴山城落城前に京都六条河原で処刑されている(『兼見卿記』『信長公記』)[25][26]

子孫

一説に子に彦兵衛(一丸)がいたといわれ、その系統の子孫から海軍中将・松永貞市、海軍大尉・松永市郎iモード開発者の松永真理が出た。

脚注

注釈

  1. ^ 遠勝の死後、十市氏は松永派と筒井派に分かれ対立しており、遠勝の妻や娘は松永派、遠長は筒井派だった[17]

出典

  1. ^ 系図纂要
  2. ^ a b 天野 2018, p. 175.
  3. ^ 長江 1989, pp. 218, 254; 天野 2018, p. 192.
  4. ^ a b 天野 2018, p. 192.
  5. ^ 天野 2018, p. 195.
  6. ^ 天野 2018, pp. 195–196.
  7. ^ 天野 2018, p. 199.
  8. ^ 福島 2009, pp. 132–135.
  9. ^ 天野 2018, p. 225.
  10. ^ 天野 2018, p. 227.
  11. ^ 天野 2018, pp. 240–244.
  12. ^ 天野 2018, pp. 247–251.
  13. ^ 天野 2018, p. 252–256.
  14. ^ 谷口 2007, pp. 176–181.
  15. ^ 天野 2018, pp. 258–259.
  16. ^ 谷口 2007, pp. 216–218; 天野 2018, p. 259.
  17. ^ 朝倉弘『奈良県史 第十一巻 大和武士』名著出版、1993年、379–383頁。ISBN 4-626-01461-5 
  18. ^ 天野 2018, p. 259.
  19. ^ 天野 2018, p. 260.
  20. ^ 谷口 2007, pp. 216–218; 天野 2018, p. 261.
  21. ^ 天野 2018, p. 261.
  22. ^ 天野 2018, pp. 261–263.
  23. ^ 天野 2018, p. 264.
  24. ^ 天野 2018, pp. 265–267.
  25. ^ 谷口 2007, pp. 218–220.
  26. ^ 天野 2018, p. 266.

参考文献

関連項目




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