政変以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 05:33 UTC 版)
側近を失った義政は独自の政治を行えなくなり、諸大名中心の政治へと移行していく。 政変後の9月14日、斯波氏の家督は義廉に戻された一方、義敏が3ヶ国守護に任命された8月25日に義就が吉野で挙兵、政長の領国河内を攻めた。幕府は義就征討のため出陣を決めたが、義就は宗全と義廉支援の下12月に上洛、翌応仁元年(1467年)1月5日に畠山氏当主と認められ、8日に政長が管領を罷免され義廉が管領に就任、18日に上御霊神社で義就と政長が激突(御霊合戦)、敗れた政長は勝元の屋敷に匿われた。 政変の意義は、義政・貞親らの関東政策で家督交替の危機を感じた義廉が義政の政策で赦免されていた義就を取り込み、宗全とも組んで派閥を形成して貞親・真蘂・義敏を追放したことにあるが、宗全らは勝元が管領に在任していた時期に家督交替が行われていたことから勝元の関与も疑い対立、派閥形成の一因となった。一方の勝元も政長の罷免で危機感を抱き、報復のため諸大名を上洛させ、応仁の乱に繋がった。 なお、乱の原因に義政の正室日野富子が息子の足利義尚を義政の養子となった義視に対抗させるため、宗全を後見人に頼んで義視の後見人勝元と衝突したという説が一般的だが、義尚の誕生以前に宗全ら山名派が形成されたため、異説もある。そもそも、義政・富子・義視ら足利将軍家関係者と細川勝元・山名宗全ら有力守護大名の間では義尚成長までの中継ぎで義視を立てる合意が成立しつつあったのに義尚を養育していた伊勢貞親はこれを反発して義視を追い落とそうとしたのが文正の政変の原因ではないかとする見方もある。
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