橋の女神の妬み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/29 23:58 UTC 版)
国玉の大橋は一説に「大橋」ではなく「逢橋」であったといい、また「行逢橋」とも別称され、『甲斐国志』によれば山梨・巨摩・八代3郡の境界であったという。 この大橋が猿橋を悪む点について、柳田國男は1918年(大正7年)に「橋姫」において冒頭部分で「国玉の大橋」伝説を紹介し、本来的には橋や辻といった交通上の要衝や村落の境界を司る神に対しては外部からの悪神を阻み却ける神威が期待されており、小橋にも拘わらず「大橋」と称されたのもその間の消息を語るものであって、阻却するというその特性が後に他を妬むという風に変化したものであろうし、そこから女性の嫉妬を材とする謡いをも忌むように発展したものであろうと説き、また橋の神には安産や育児を祈願する習いがあり、産女にも同様の効験を示す一面があるので、その影響で産女的内容の伝も付随していたのであろうと説く。 なお、『葵上』(または『野宮』)が道を迷わせるのに対し、それを直す謡いが『三輪』とされている点については、「仔細はまだ分らぬが」と断りつつも、或いは同曲の末尾の「また常闇(とこやみ)の雲晴れて云々」や「その関の戸の夜も明け云々」の詞章に惹かれたものか、との見通しを述べる。
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