橋の建設
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橋は熊谷東松山有料道路の第二期工事である広瀬線建設(事業区間4.8 Km)の一環として架けられ、埼玉県道路公社が事業主体となり、総工費19億2000万円を投じ1973年(昭和48年)11月着工された。上部工は当時の最新工法であった、ディビダーク工法で架橋された。また下部工は空気潜函工法(ニューマチックケーソン工法)を用いて建設された。橋は1976年(昭和51年)1月竣工し、同年3月1日に開通した。開通式は同日10時30分より右岸側橋詰(江南村側)にて挙行され、周辺自治体の首長や議長、工事関係者や地権者など約80名が出席した。開通式は熊谷市長や県道路公社副理事長他4名によるテープカットが執り行われ、江南村在住の三代夫婦による渡り初めが行われた。また、橋は同日13時より一般供用を開始した。2004年(平成16年)11月30日午前0時、熊谷東松山有料道路の無料開放に伴い、埼玉県(熊谷県土整備事務所)に移管され、県管理の橋となった。開通当時は熊谷市と大里郡江南村を結ぶ橋であったが、2007年(平成19年)2月13日の市町村合併(平成の大合併)で両岸とも熊谷市となった。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 04:25 UTC 版)
武之鼻橋は秩父市が事業主体となり、総事業費824万5000円を投じて1952年(昭和27年)10月着工された。橋種の選定に当たっては簡素な構造ながら秩父の景観にも配慮されたものとなった。「希望の橋」と待望された橋は1953年(昭和28年)3月に竣工され、両岸に取り付け道路が整備された。なお、取り付け道路は1953年(昭和28年)の秩父市の失業対策事業の一環として施工されたものである。渡船から橋に替わった現在も秩父川瀬祭の「神輿洗い」の儀式はこの付近で行われ、祭事の際は本橋は歩行者のみが通行でき、車両は通行止めとなる。本橋は秩父市の橋梁長寿命計画に基づき補強が行われ、2016年に工事が実施され、翌年3月に完了している。1993年(平成5年)橋の真上を交差するように秩父公園橋が架けられ、それに伴い交通量は大幅に減少したが、地元住民の愛着がある限りこの橋は存続される方針である。 コンクリートの劣化や鉄筋の腐食など橋が老朽化しているため、橋の両詰に標識や幅2.3メートルの車止めが設置され、2017年(平成29年)10月1日より重量制限が実施された。重量制限は6.0トンから2.0トンに引き下げられ、それ以上の車両の通行は禁止される。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 20:38 UTC 版)
橋の施工は上部工は株式会社横河橋梁製作所(現、横河ブリッジ)、下部工および床版は株式会社山口組が担当した。架橋の際に使用した橋桁は、国道122号の昭和橋が、1962年(昭和37年)5月31日に架け替えられた際に発生したトラス桁2連を転用し、トラス桁のみでは長さが不足したためその箇所は長さ40.95メートルの鋼合成桁橋で調整した。橋台は重力式橋台で、1961年(昭和36年)3月24日に2基完成した。橋脚は鉄筋コンクリート橋脚で、皆野側は同年11月着手、国神側は1962年(昭和37年)11月着手し、1963年(昭和38年)2月に2基とも完成している。トラス桁は橋脚の工事に並行して昭和橋の架け替え後である1962年(昭和37年)6月作業に着手し、1963年(昭和38年)3月までに2連とも移設・架設を終えている。鋼合成桁は1963年(昭和38年)6月着手、同時に橋床工3連および高欄一式の施工を合わせて行い、同年8月までに完了し、すべての工事を終えた。延べ作業員は7963名であった。 「合併のかけ橋」や「夢の架け橋」と渇望された橋は1963年(昭和38年)8月竣工した。竣工当時は橋は銀色に塗装されていた。現在は青系統の塗色である。町長は「この橋を軸に町は明るく発展する」と架橋に尽力した関係者へのお礼の言葉を述べ、町議会長は「政治が生んだ傑作の橋」と絶賛した。 開通式は同年11月12日に架橋現場にて関係者約350名が出席する中挙行された。
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橋の建設
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橋は1996年(平成8年)に着工し、2001年(平成13年)に完工され、2004年(平成16年)3月28日に開通した。架設工法としてトラッククレーンベント工法、および台船一括架設工法が用いられた。開通式典は前日である3月27日午前10時より右岸側橋詰にて石原慎太郎都知事ら300名の来賓が参加する中挙行され、テープカットやくす玉開披が執り行われたあと、下り線側で4組の三世代家族が車による渡り初めが行なわれた。また、上り線側では一般観客5000名が参加して徒歩による渡り初めが行なわれた。開通式典後は橋上の車道が開放され、富賀岡八幡宮や地元自治会によるさまざまな余興も行なわれた。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/16 01:55 UTC 版)
橋は1959年(昭和34年)12月工事に着手され、1960年(昭和35年)3月1日その起工式が挙行された。橋種の選定は美観への配慮がされ、上部工に世界初の形式である突桁吊補剛桁式が採用された。橋の施工は主径間の製作および現地においての架設を横河橋梁(現、横河ブリッジ)が担当した。また、側径間の製作を宮地鉄工所(現、宮地エンジニアリング)、松尾橋梁(現、IHIインフラシステム)、桜田機械工業(サクラダ)が担当し、取り付け道路の高架橋の製作を東京鐵骨橋梁、東都鉄構が担当した。また、下部工は井筒基礎および斜鋼杭基礎で鹿島建設が担当し、ニューマチックケーソン工法により行なった。取り付け道路は鹿島建設が担当した。橋は1963年(昭和38年)9月竣工され、同年10月7日開通式が挙行された。事業区間は1162.7メートルにも及び、総事業費は19億3200万円であった。架設当初は都内で最長の橋で、橋の基礎としては深さ47メートルは日本で最深であった。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 05:59 UTC 版)
橋は1988年10月設計に着手し、1989年11月28日11時半より橋の起工式が橋建設予定地の左岸側(江戸川区側)にて挙行された。当橋は下流側にJR京葉線荒川橋梁が平行し、首都高速湾岸線荒川湾岸橋を上り線、下り線の間に挟みこむ形になっている。これらの橋が既に完成していた後に架橋されたため、非常に狭いスペースしか利用できず、また他の橋に影響を与えないようにする必要があったため、コンピュータ管理による大ブロック一括架橋が行われた。また、左岸側の1径間は首都高の葛西ジャンクションのランプ橋が支障したため一括架橋が行えず、河道内に仮設支保工(ベント構台)で支持して送り出し工法を併用しながら施工を行った。橋は1996年7月4日開通し、開通式が中尾栄一建設大臣や地元関係者ら400人が出席する中挙行された。橋の総工費は370億円であった。 開通3ヶ月後の1日あたりの交通量は39,000台で、1年後の1日あたりの交通量は46,000台であった。この橋の開通により隣接する荒川湾岸橋を初め、荒川に架かる周辺の橋の混雑緩和に寄与した特に葛西橋の交通量は16.5パーセント減少した。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 14:21 UTC 版)
橋の起業者は国土交通省関東地方整備局(大宮国道事務所)で、設計は新日本技研株式会社が担当している。また、橋の建設は右岸側12径間を「その1工事」、渡河区間を含む左岸側4径間を「その2工事」と、大きく二つの工事に分けて建設された。工事を請け負ったのは右岸側は下部工を東急建設、上部工が日鉄ブリッジ(後の日鉄トピーブリッジ)が請け負い、左岸側が下部工を木原建設、上部工を三菱重工鉄構エンジニアリング(現、エムエムブリッジ)、日本橋梁共同企業体が請け負った。工事の特徴として、荒川の夏場の出水期(6月から10月までの約5か月間)は安全のため河川区域内での工事は不可という作業条件の制約が課せられ、工事の完成期限が決められていることから、何れの工事も実質的な工期が短いため、現場での作業量を減らす工夫をすると共に、限られた時間や資源を効率的に活用するためクリティカルパス法を用いて工程管理や施工管理を徹底して行ったことが挙げられる。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:54 UTC 版)
「荒川橋 (関越自動車道)」の記事における「橋の建設」の解説
橋種の選定は施工性と経済性の他、走行性が考慮され、基礎条件が第三紀層に属する砂岩・泥岩層からなり、地質が良好なことから直接基礎を用いたPC連続箱桁橋が採用された。当橋梁は関越自動車道の前橋インターチェンジまでの延伸工事において、工事の資材運搬に供するため他の区間の工事に先行して工事が行われ、橋梁の下部工(橋台、橋脚)は1974年(昭和49年)に竣工した。橋脚の基礎である橋脚フーチングにおいての天端高は、最低河床高に対して2.0メートルとした。橋梁の上部工の施工は1975年(昭和50年)12月開始され、20ヶ月の工期を要して1977年(昭和52年)8月完成した。施工はピーエスコンクリート(現日本ピーエス)およびオリエンタルコンクリート(現オリエンタル白石)共同企業体が行なった。高水敷の2径間連続箱桁(3主桁2室)はフレシネー工法が採用され、全支持工(仮設の支柱)を使用した場所打ち工法により架設された。また、低水路の3径間連続箱桁(3主桁2室)はディビダーク工法が採用され、ワーゲン(移動式作業車)を使用した片持ち梁施工により架設された。
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橋の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:05 UTC 版)
新船堀橋は1969年(昭和44年)12月15日工事に着手され、1971年(昭和46年)3月完工し、同年7月17日に開通している。また、旧中川を渡る単純合成箱桁橋の右岸取付橋は1949年(昭和44年)7月6日着工され、1970年(昭和45年)12月に完工している橋の施工は低水路に架かる主径間を日本鋼管(現、JFEスチール)が行ない、側径間は松尾橋梁(現、IHIインフラシステム)が行なった。また、右岸取付橋の方は陸上区間を桜田機械工業(サクラダ)が行ない、旧中川に架かる区間(船堀小橋)を三菱重工業(現、エム・エムブリッジ)が行なった。架設工法はステージング(ベント)工法や手延工法が用いられた。 1990年(平成2年)に橋の一部を幅員27.4メートルにする拡幅工事が行なわれている。
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