アサヒビール大山崎山荘美術館彩月庵(茶室)
名称: | アサヒビール大山崎山荘美術館彩月庵(茶室) |
ふりがな: | あさひびーるおおやまざきさんそうびじゅつかんさいげつあん(ちゃしつ) |
登録番号: | 26 - 0177 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
構造: | 木造平屋建、瓦葺、建築面積29㎡ |
時代区分: | 昭和前 |
年代: | 昭和初期 |
代表都道府県: | 京都府 |
所在地: | 京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字銭原5-3 |
登録基準: | 造形の規範となっているもの |
備考(調査): | |
施工者: | |
解説文: | 本館北西,宝積寺との境界近くに建つ茶室。切妻造,桟瓦葺で,持仏堂を兼ねた立礼席と前室及び水屋からなる。室内は石敷で,主室に2畳の床上部,床,仏壇を備える。丸太を用いた軽快で開放的な数寄屋風の造りで,簡素ながら瀟洒で見所の多い室内を構成する。 |
光ふるさと郷土館別館礒部家住宅離れ座敷(茶室)
名称: | 光ふるさと郷土館別館礒部家住宅離れ座敷(茶室) |
ふりがな: | ひかりふるさときょうどかんべっかんいそべけじゅうたくはなれざしき(ちゃしつ) |
登録番号: | 35 - 0028 |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
構造: | 木造平屋建、瓦葺、建築面積44㎡ |
時代区分: | 明治 |
年代: | 明治後期 |
代表都道府県: | 山口県 |
所在地: | 山口県光市室積5-3-20 |
登録基準: | 造形の規範となっているもの |
備考(調査): | 『光市室積地区伝統的町並み調査報告』(光市企画調整部 1995) |
施工者: | |
解説文: | 明治後期に主屋北側に増築された角座敷から浜側にのびた渡り廊下で繋がれる。瓦葺入母屋屋根の三方に庇を回した構成をとり,4畳半の茶室を中心に,北側に3畳間と便所を設ける。上質で端正な造りの離れ座敷で,主屋との間に程良い中庭的空間をつくっている。 |
建築物: | 元屋商店保齢亭 光ふるさと郷土館別館礒部家住宅主屋 光ふるさと郷土館別館礒部家住宅釜屋 光ふるさと郷土館別館礒部家住宅離れ座敷 光恩寺庫裏 光恩寺長屋門 光明寺書院 |
茶室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/10 23:49 UTC 版)
茶室(ちゃしつ)は、日本式の茶道において、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。「茶席」「囲い」あるいは「数寄屋」と呼ぶこともある。大別して草庵風のものと書院風のものがあるが、一般的には草庵風のものを指す場合が多い。独立した建物として造られる場合と、書院などの建物内に造り込まれる場合がある。いずれの場合も露地と称する庭園を伴うのが一般的であったが、現代ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。禅宗の「方丈(一丈四方の意)」から出た四畳半を標準として、それより狭いものを小間の茶室、広いものを広間の茶室という。室町末期から桃山期にかけて発展・完成したが、日本の建築の中でも特殊な位置を占める。
- 1 茶室とは
- 2 茶室の概要
茶室
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 18:02 UTC 版)
茶が日本に伝わったのは奈良時代である。 禅僧によって抹茶が伝えられるは、鎌倉時代に入ってからであった。 室町時代に入ると、足利将軍に愛用された事もあって武家社会や公家社会に急速に流行していった。茶は、初めは公家や武士の座敷で行なわれた。この座敷は広間や書院と呼ばれ、そこでの茶を書院の茶と云われた。名器を並べて観賞し、茶の産地を飲み当てる茶は、その流行のなかから次第に茶をたてて飲む行為そのものに、精神的意義を認めるようになった。次第に格式を重んじる書院の茶から、俗世間を超越した遊びの空間、茶のための専用の狭い空間を使うことが多くなった。六畳から四畳半さらには二畳と、極小空間を使うことで、精神的に高められた茶の湯を行なうようになっていく。 『南坊録』に、 「四畳半座敷は、珠光の作事なり。真座敷とて鳥の子紙の白張付け、杉板のふしなし天井、小板ふき、宝形造、一間床なり。」 とある。茶道の始祖といわれる村田珠光によって四畳半座敷の茶の湯が広められた。国宝の慈照寺(銀閣寺)東求堂の北東角に、将軍足利義政の茶室として使われた、「同仁斎」がある。 『南坊録』には更に 「紹鴎になりて、四畳半座敷ところどころ改め、張り付けを土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床の塗りふちをうすぬり、または白木にし、之を草の座敷と申されしなり」 とある。堺の茶人武野紹鴎によって、数寄屋風茶室が工夫されていった。「張り付けを土壁に」とあるのは、鳥の子紙を張ったはめ込み式の張り付け壁の事で、副障子ともいい、書院造りの座敷の壁面として使用された。茶室の壁を土壁とし、土壁の下地である竹小舞(こまい)を見せた窓を開け、窓に竹の格子を付けるなど、草庵の風情を意匠に取り入れた。草庵茶室は千利休によって確立されていく。 千利休の手になると伝えられる茶室で実在するのは、京の南にある下山崎の妙喜庵にある待庵である。天正10年(1582年)明智光秀と戦った羽柴秀吉が利休に造らせたものと伝えられている。 二畳の茶室に一畳の次の間と一畳の勝手を設けている。一畳は点前の座で、もう一畳は客の座である。これだけしかなく、茶室としては極小空間である。次の間を相伴客の席に使ったとしても三畳の空間である。 客は、高さ二尺六寸、幅二尺三寸六分の躙口(にじりぐち)から茶室に入る。利休の躙口としては大きいとされるが、それでも身をかがめて入らねばならない。この躙口から身をかがめて入ることが、俗世間から遊離した空間へはいる儀式である。躙口を通過する事で、幽玄の侘の世界に入ることができる。 天井は、床のすぐ前と左手はノネ板(屋根葺用の薄板)に白竹打ち上げ、右手前の躙口を入ってすぐ上は、竹の垂木を見せた化粧屋根裏となっている。化粧屋根裏の部分が、天井の低さをやわらげる工夫となっている。床(とこ)の中は隅柱を隠した室床(むろどこ)とし炉の上の壁も隅の柱を塗り込めて消している。いずれも部屋の狭さを感じさせないための工夫であるとともに、室内に変化を与える意匠上の工夫である。 障子の骨は、竹を用い床の框には三つの節が見え、床柱は、北山丸太である。壁には、大きさや位置が異なる、明かり取りの障子が設けられている。壁面は土壁とし、加賀奉書紙を腰張貼り貼っている。襖障子は太鞁張(たいこ)張りにした雲母(きら)の一色刷りの唐紙である。あらゆる部分に利休の精緻な精神が息付いて、一分の隙もなく独自の世界に引き込まれる仕掛けとなっている。利休の茶の精神を表現した極小宇宙の世界である。 茶室は俗世間と遊離した小宇宙である。茶室に入る前にすでに俗なる世間と違う精神世界に身を置いているほうが望ましい。市中の道路から武家や公家や寺院の境内に入り、茶室に近付く通り道を、単なる通路とせず茶のための予備空間としてさまざまな工夫を凝らす。 茶室を見通せないよう樹木を配し、飛び石も茶室へ進む客が歩きやすくしかも雅趣があり、さりとて作意の目立たないように配慮する。路地を外と内に分け、その境に中門または中潜りを置く。中門や中潜りを潜ることで茶室に近付きつつあることを実感し、そのことで俗世間から少しずつ遊離しはじめる。 茶室へ入るのを待つ腰掛け、手を清める蹲踞(つくばい)夜足元を照らす灯籠(灯篭)などさまざまな演出と意匠が施される。露地は、京や堺の町人たちが屋敷の奥に造った茶室への通路にさまざまの工夫を凝らした事に始まるという。茶人たちは、茶室だけでなくそのアプローチの外部空間へも緻密な工夫と気配りを行なったのである。
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「茶室」の例文・使い方・用例・文例
- 喫茶室
- 苔むした庭にとびとびに石が置いてあり, それが茶室のつくばいまで続いていた.
- 茶室としての囲い
- 勝手口という,茶室の出入り口
- 勝手床という茶室の部分
- 茶室において,貴人口という出入口
- 茶室において,客が着座する畳
- 4畳半以下の茶室
- 茶室の出入口
- 茶室風の風流な建物
- 数寄屋造りという,茶室風に造られた建築様式
- 茶室で,畳の四分の一枚を切り取ったもの
- 茶室に付属した,一定の形式のととのっている庭
- 茶室の床の間を飾る生け花
- 茶室に付属した庭の外露地と内露地との間にある門
- 塵穴という,茶室内に設けられる穴
- 茶室の洞庫棚という棚
- 中潜りという,茶室のある庭にある門
- 茶室の庭などに飛び飛びに置いてある石
- 茶室に付属する待ち合い室
茶室と同じ種類の言葉
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