高島の戦い・鳥坂峠の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:44 UTC 版)
「毛利氏の伊予出兵」の記事における「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」の解説
1568年(永禄11年)の1月、土佐一条氏は、土佐・伊予国境の三間衆・両山衆らを引き込み、また対立していた西園寺氏にも圧力を掛け従属させた。その軍勢を加えて、鳥坂峠の東、伊予国高島(現・大洲市梅川地区、高島山)に進出。河野軍は土佐一条軍の拠点となっていた高島に攻撃を行ったものの撃退された。この頃には小早川隆景の指示によって、周防国上関の水軍衆、因島村上水軍も伊予国への展開を始めていた。それと同時期に九州より、もっとも伊予の事情通である乃美宗勝が隆景に合流し、一条軍との対決を模索していた。 一方、土佐一条氏と対陣していた河野軍は、村上通康が死去したため、村上吉継が主力となって鳥坂峠に陣城(鳥坂城)を築いた。進行路を塞がれた形となった一条軍は2月4日に鳥坂城を攻撃、激戦が繰り広げられた。鳥坂城は落城の危機を迎えたものの、後詰として参陣した村上吉継の奮戦もあり、土佐一条軍を大いに討ち破った。しかし最終決着はつかず、鳥坂峠と高島を挟んでの、にらみ合いが続いた。
※この「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」の解説は、「毛利氏の伊予出兵」の解説の一部です。
「高島の戦い・鳥坂峠の戦い」を含む「毛利氏の伊予出兵」の記事については、「毛利氏の伊予出兵」の概要を参照ください。
- 高島の戦い・鳥坂峠の戦いのページへのリンク