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マルハール・ラーオ・ホールカルとは? わかりやすく解説

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マルハール・ラーオ・ホールカル

(Malhar Rao Holkar から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/05/23 01:13 UTC 版)

マルハール・ラーオ・ホールカル
Malhar Rao Holkar
ホールカル家当主
マルハール・ラーオ・ホールカル
在位 1731年 - 1766年
別号 サルダール
マハーラージャ
出生 1693年3月16日
プネー近郊
死去 1766年5月 20日
アーラムプル
子女 カーンデー・ラーオ・ホールカル
王家 ホールカル家
父親 ハーンドゥージー・ホールカル
宗教 ヒンドゥー教
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マルハール・ラーオ・ホールカル(Malhar Rao Holkar, 1693年3月16日 - 1766年5月20日)は、インドマラーター同盟ホールカル家の当主(在位:1731年 - 1766年)。

生涯

マラーター王国の武将として

1693年3月16日、マルハール・ラーオはハーンドゥージー・ホールカルの息子として生まれた[1]

1717年、マルハール・ラーオはマラーター王国の遠征に従軍した[2]

1724年、マルハール・ラーオはサルダールに任命され、宰相バージー・ラーオの命により、ラーノージー・ラーオ・シンディアとともにチャウタサルデーシュムキーを徴収するためマールワー地方への遠征を行った[3]

1726年には、マールワーに12のジャーギールを与えられたばかりか、1728年には騎兵5000の指揮官となった[4]

マールワー地方の統治

マルハール・ラーオ・ホールカル

1731年11月2日、マルハール・ラーオはマールワー2州の支配を宰相から委ねられ、マラーター同盟の諸侯となった[5]1734年までにその支配はインドールマヘーシュワルにまで及んだ[6]

その後、マルハール・ラーオはバージー・ラーオの軍勢に随行し、1738年3月デリーの戦いでムガル帝国を破り、同年12月にはボーパールの戦いニザーム王国をはじめとする軍勢を破った。翌1738年1月に結ばれたボーパール条約では、ニザーム王国はマールワー地方を割譲せざるを得なかった。

また、ニザーム王国からのマールワーの割譲をムガル帝国に認めさせるため、1740年から1741年にかけて、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは帝国の首都デリーに向けて遠征を行い、同年7 月にその割譲と支配を認めさせた[7][8][9]。これにより、マラーター勢力のホールカル家の支配がマールワーに確立するところとなった。

1743年、ジャイプル王国の内乱に介入し、マードー・シングに味方し、ラームプラ、バーンプラトーンクを割譲された[10]

1747年、マルハール・ラーオはインドールに巨大な宮殿ラージワーダーの建設を始めた[11]

ムガル帝国への介入とアフガン勢力との交戦

その後、マルハール・ラーオ・ホールカルはインドールを中心に勢力を広げ、1754年にはシンディア家とともに皇帝アフマド・シャーの廃位とアーラムギール2世の擁立に関与するなど、帝位継承を左右するほどとなった。だが、アフガン勢力ドゥッラーニー朝が頻繁に侵入してくるようになり、北進するマラーター勢力と南下するアフガン勢力の衝突は避けることが出来なかった[12]

1757年1月、アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーは帝国の首都デリーを占領し[13]、2月にデリーで虐殺・略奪を行い、その近郊マトゥラーヴリンダーヴァンでも同様に虐殺を行った。

これに対し、王国宰相バーラージー・バージー・ラーオは弟ラグナート・ラーオをデリーへと派遣し、マルハール・ラーオもこれに随行した。同年8月デリーの戦いでアフガン勢力を破ったのち、パンジャーブ地方への遠征に赴き、翌年5月の遠征終了までマラーター軍の一角として活動した[14]

1759年末、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがラホールを奪うと、1760年にマラーター王国はヴィシュヴァース・ラーオサダーシヴ・ラーオ・バーウを指揮官にデリーへ軍勢を派遣、マルハール・ラーオもこれに合流し、8月にデリーを占拠した[15]。その後、11月にパーニーパトにおいて両軍は対峙した。

しかし、1761年1月14日第三次パーニーパトの戦いでマラーター同盟軍は大敗し[16]、マルハール・ラーオは辛くも逃げ延びることが出来た[17]。この大敗で同盟の結束は緩み、諸侯の独立性が強くなった。

1766年5月20日、マルハール・ラーオ・ホールカルは死亡した。息子のカーンデー・ラーオ・ホールカルは戦死していたため、孫のマーレー・ラーオ・ホールカルが当主位を継承した[18]

脚注

  1. ^ Indore 3
  2. ^ Indore 3
  3. ^ Indore 3
  4. ^ Indore 3
  5. ^ Indore 3
  6. ^ Indore 3
  7. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p216
  8. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p216
  9. ^ Peshwas (Part 3) : Peak of the Peshwas and their debacle at Panipat
  10. ^ Indore 3
  11. ^ Indore 3
  12. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p218
  13. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p218
  14. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p218
  15. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p218
  16. ^ 小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p219
  17. ^ Indore 3
  18. ^ Indore 3

参考文献

  • 小谷汪之 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年 

関連項目




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