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SUPER_MONKEY'Sとは? わかりやすく解説

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SUPER MONKEY'S

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/04 22:57 UTC 版)

SUPER MONKEY'S
出身地 日本沖縄県
ジャンル J-POPユーロビート
活動期間 1992年 - 1996年
レーベル 東芝EMI
旧メンバー 安室奈美恵(1992年 - 1996年)
澤岻奈々子(同上)
天久美奈子(同上)
松田律子(1994年 - 1996年)
宮内玲奈(同上)
牧野アンナ(1992年)
新垣寿子(1992年 - 1994年)
仲曾根梨乃(1992年 - 1993年)

SUPER MONKEY'S (スーパー・モンキーズ) は、過去に存在した日本女性ダンスアイドルグループであり、安室奈美恵MAXの源流のグループである。

歴史

元々「SUPER MONKEY'S」は「沖縄アクターズスクール」内における20人ほどのトップ選抜グループの総称であり[注 1]、現kiroroの玉城千春も一時在籍していた。そこから新たなチームが編成され、最終段階では女子5人男子2人(そのうち一人は牧野アンナの実兄)のメンバーとなるが、デビュー前に変更されて女子5人グループとなる。名前の由来はスクールの校長であるマキノ正幸の「お前たちはまだタレントではなく猿の段階、でもただの猿(モンキー)じゃかわいそうだから”スーパー・モンキーズ”にしよう!」の一言がきっかけであると当時の雑誌インタビューなどで発言している[1]。グループ結成から「TRY ME 〜私を信じて〜」がヒットする迄、何度かメンバーチェンジを繰り返している。以下にその歴史を段落分けして記述する。

「スーパーモンキーズスペシャル」時代(1991年~)

  • 1991年、女子5人男子2人の7人組でグループを結成。メンバー全員が琉球空手の初段で、デビュー前に琉球放送『HOT NIGHT沖縄アイランド』のオープニングで空手パフォーマンスを演じるなど地元番組に度々出演しており、それが東京のテレビスタッフの目に留まったことがきっかけで全国ネットのテレビ出演が決まる。

「SUPER MONKEY'S」時代(1992年4月 - 1993年4月)

初代リーダーはマキノ校長の娘で既にアイドル歌手を経験していた牧野だったが、1992年の12月に脱退し、沖縄アクターズスクールの講師に転身した[注 2]。また牧野の脱退直前の11月に新メンバーの中曾根梨乃が加入するが、年明けに入院のためイベント出演も欠席するなど「SUPER MONKEY'S」として本格的な活動はなかった。牧野脱退後、澤岻が2代目リーダーとなる。

「SUPER MONKEY'S 4」時代(1993年4月 - 1994年6月)

  • 安室、澤岻、天久、新垣の4人体制に移行。同時にメンバー全員が沖縄アクターズスクールを卒業し、上京する。
  • 1993年4月より、NHKの音楽番組『POP JAM'93』に番組のマスコットガール兼バックダンサー・“PJG(ポップ・ジャム・ガールズ)”としてレギュラー出演。
  • 同5月に発売された2ndシングル「ダンシング・ジャンク」は現在も続くNHKのテレビアニメ『忍たま乱太郎』の初代エンディングテーマとなり、番組終了間際のミニコーナーもメンバーが担当していた。
  • 同11月、シングル「愛してマスカット」をリリース。同曲でロッテ「マスカットガム」のCMイメージキャラクターに起用され、「新作ロッテガムキャンペーン」と題したイベントを各地で行う。
  • 同年大晦日の『第44回NHK紅白歌合戦』では、森口博子の楽曲「ホイッスル」のバックダンサーとして参加した。

「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」時代(1994年7月 - 1996年9月)

  • 名実共に安室メインの体制となり、1994年7月にリリースした「PARADISE TRAIN」以降は単独でボーカルを務めた。翌8月より、日本テレビ系『夜もヒッパレ一生けんめい』に準レギュラーとして出演するようになる。
  • 同年10月、新垣が沖縄アクターズスクールの講師となるためグループを脱退。新垣と入れ替わる形で松田律子(後のLina)、安室の同級生で同じ中学校に通っていた宮内玲奈(後のReina)が加入し、デビュー時以来の5人体制となる。
  • 1995年1月、MAX松浦プロデュースによるシングル「TRY ME 〜私を信じて〜」をリリース。ユーロビートのカバーでもある同曲は、初登場の49位からじわじわと上昇し、初のオリコンチャートTOP10入りを果たすと同時に累計でも70万枚を超える大ヒットとなった。その後も同路線で立て続けにヒットを生み出す[注 3]
  • 同年4月から日本テレビ系音楽バラエティ『THE夜もヒッパレ』にレギュラー出演。同時に安室を除く4人がMAXとして活動を開始する。
但し、MAXのCDデビューや安室のavex移籍後も、安室のシングル「Body Feels EXIT」、「Chase the Chance」ではバックダンサーとして4人が参加しているほか、ライブもグループ名義で行われており、5人での活動は継続された。
  • 1995年12月、初の沖縄凱旋ライブを沖縄コンベンションセンターで行い、4000人を動員。念願の地元での初公演だったこともあり、アンコールの際のMCではメンバー全員が感極まり涙を見せた。
  • 1996年3月~5月にかけ、日本武道館大阪城ホール公演を含む初の全国ツアー「mistio presents AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S TOUR '96」を開催(ホール21公演)。
この時期になると、安室の一大ブームやMAXのブレイクなどから別々での活動が目立つようになり、テレビで5人が揃うことが徐々に減少していく。
  • 同年8月~9月にかけ、野外ライブ「SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S」を開催。最終日である9月1日の千葉マリンスタジアム公演を最後にグループとしての活動を休止し、以後それぞれの活動に専念する。
1997年9月に一度「スーパーモンキーズ再結成」という記事のもと、年明けからの5人での活動再開が検討されるが、安室の結婚・産休やMAXの多忙も重なり立ち消えとなった。また、2000年に放送されたテレビ番組の中で安室が「またMAXの皆と同じステージがしたい」と語ったが、5人でのステージも1997年放送の「THE夜もヒッパレ」を最後に実現されていない。

その後の活動については安室奈美恵MAXを参照のこと。

エピソード

  • 芸能活動は1992年の春からスタートし、東京のマンションに5人揃って共同生活を行う。メンバーの中学卒業までは、金曜日に東京へ行って仕事をこなし、火曜日に沖縄へ帰るという生活をしていた。
  • 当初デビューするには『空手で初段取得』『バック転が出来ること』が条件として挙げられていたが、一番順応していた安室が右肘の靱帯を痛めてしまい「やっぱりアクロバットは危ない」ということになり引き下げられた。
  • 田園調布に引越した際、リーダー牧野が作ったルールに則り、ボイストレーニングやダンスレッスン以外にも朝起きてからの腹筋、背筋、ストレッチ、それが一通り終わると近くの公園までジョギング、到着すると空手の形(上段蹴り・中段蹴り・下段蹴り)などをするのを日課にしていた。また、羽根木公園に無料設置されていた器具で体を鍛えたりもした。
  • 当時デビューするために上京したアクターズの研修生は、寂しさから恋人を作ったり、または東京での遊びに目覚めてハメをはずし過ぎたことが原因で出戻りが多く目立った。そのためSUPER MONKEY'Sのメンバーも行動や発言を厳しく制限されており、恋愛禁止令・菓子は1ヶ月に1回・門限は夜6時とされた。他にスクールの代表としての自覚と責任を忘れないために家の玄関に生徒皆が写った集合写真を飾り、それに向かって毎朝「行ってきます!」と言っていた。
  • 下積み時代はあまり仕事がなく、交通費も自腹で食事も割り勘で洋服を買っただけでもお金が足りなくなるため、どこへ行くにもメンバー全員で行くことが多かった。どうしても足りない場合は電話で沖縄に居る家族に頼んでいた。しかし、それぞれの親からの仕送りの量がいっぺんに重なると部屋中が食料や沖縄名産品で埋め尽くされてしまい逆に断りの電話をしなければならないこともあった。

メンバー

活動終了時のメンバー

デビュー時からメインボーカルを担当。デビュー前、アクターズの仲間と一緒に出場した琉球放送のローカル番組「HOT NIGHT沖縄アイランド」内で行われた「ちびっ子カラオケ大会」(1989年8月1日O.A)でゆうゆの『-3℃』を堂々披露し、見事優勝を果たす[注 4]。その後は学校へ行くのも惜しんで大好きな歌とダンスに没頭、スクールでの行事優先としその節約のために食べ物以外では水ばかり飲んでいた。自分からはあまり前に出ないが反面負けず嫌いでもある。ジャネット・ジャクソンポーラ・アブドゥルに強く影響を受けており、当時語っていた夢は「ダンサブルな歌手」[2]
  • 澤岻(→沢詩)奈々子 (Nana)
脱退した牧野に代わって2代目のリーダーとなる。デビュー前から沖縄ローカルの番組『沖縄クラブハートキャッチTV』のレギュラーや、新垣と共に沖縄の砂糖をPRする「沖縄砂糖真時代」のCM等に出演していた。デビュー直前に出演した『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』で空手少女として出演した際、司会の高田純次と両者海辺で全身毛布グルグル巻きに棒一本で対決することになりあえなく敗れ高田に海に流された。海に浮いて身動きがとれない間、澤岻は「これが初めての芸能界での仕事なんだ…」と思ったとその当時を振り返っている。当時は歌とダンス以上に芝居が好きだったこともあり、オードリー・ヘプバーンやエマニュエル・ベアールをリスペクトしている。当時語っていた夢は「お芝居も踊りもできる女優」[2]
  • 天久美奈子 (Mina)
振りの覚えが最も早く、「ダンスの振付確認は美奈子に聞くのが一番確実」とメンバーも認めている。共同生活時代は洗濯・掃除・炊事の当番はあったが、炊事は天久の得意分野だったため、自然と皆の分やお弁当を作る回数が多く、他のメンバーにも作り方を教えたりと食事面でも頼りにされていた。テレビで安室や松田が言うように「美奈子の作ったご飯は美味しい」とのこと。幼少期から歌手志望で、同じ夢を持つ同級生の安室や新垣とは切磋琢磨し、ライバル関係でもあった。デビュー前、アクターズの定期公演で安室と「Dreamers」というデュオでステージに立ったことがある。当時語っていた夢は「人に夢を与えるほのぼのな歌手」[2]
  • 松田律子 (Lina)
脱退した新垣と入れ替わる形で、宮内と共に1994年10月に加入。それ以前からメンバーと同じライジングプロダクションに所属しており、当時人気だったC.C.ガールズのようなセクシーグループとして宮内含む3人組でデビューする予定であった。宣材写真の撮影やレコーディングをする等デビューに向けて着々と準備をしていたが、3人目のメンバーの辞退によりデビューが白紙となる。アクターズの頃からダンスを重視していたこともあり、加入当初からキレのある動きを見せていた。澤岻や新垣とはアクターズの同期である。
同上。上述のようにデビュー前からダンスレッスンを経験していた松田と違い、アクターズ時代は歌・芝居をメインにしていたため、上京後に初めて本格的にダンスを始めたと語っている。安室とは同じ中学校に通い、とても仲が良かった。

脱退したメンバー

グループの初代リーダー。他のメンバーより年上で当時は20歳である分、他人のお子さんを預かる身としての責任を自覚し常にリーダーとして他の4人を𠮟咤激励している。グループ全体のレベルを上げるべく知識と教養を身につけるためによく5人で図書館に通った。また歌って踊ることに関してはまず歌をもっと好きになり知ることと考え、一例としてアン・ヴォーグの歌に皆で一生懸命聞き耳を立て「今は無理でも将来こういうこともやれたらいいね」とハモリやコーラスを練習してラジオで少し披露したりしている。安室はこれに関して「もし今もグループでアン・ヴォーグの曲をカバーするなら『FREE YOUR MIND』にしたい」と語っている。牧野が当時の雑誌で語った夢は「芸能界のリーダーになりたい」[2]
当時のグループ内で一番の天然で爆弾娘だったらしく、門限6時を守らずに帰って来なかったために皆で探し回ったり、内緒で食べていたお菓子がばれて怒られたりもした。これに関しては他のメンバーもバレないようにNanaはジョギングの途中でコースをそれて買いに行ったり、安室は沖縄に帰ったときにこっそり食べていたと話している。プリンセスプリンセスリンドバーグが好きで目標はシンディ・ローパー。当時語った夢は「シンディ・ローパーのような、見てるお客さんを圧倒させられる歌手」[3]
  • 中曾根梨乃
牧野脱退の直前に加入したアクターズ時代の仲間の一人である。1992年11月に行われた千葉ロッテマリーンズのイベントに参加しメンバーとして初パフォーマンスを行うが、年明けに盲腸で入院し、そのまま復帰することなく脱退となってしまった。早速宣伝に新メンバー紹介も兼ねて色々な雑誌で今ではかなり貴重なインタビューも受けており、本人は急激な環境の変化に舞台で「緊張して頭が真っ白になった」と語っている。バスケットボールが大好きだが中学では華道部だった。当時語った夢は「歌も踊りもできるアイドルフェイスのアーティスト」[4]。なお、k-popアイドル等の振付けをしている仲宗根梨乃とは別人である。

ディスコグラフィ

シングル

No. タイトル 名義 発売日 順位 備考
1 恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A. SUPER MONKEY'S 1992年9月16日 29位 日本テレビ系『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』エンディングテーマ
c/w ミスターU.S.A.:ロッテ「シリアルアイス」CMソング
TV出演やプロモーション活動で歌われていたのは「ミスターU.S.A.」のため、実質こちらがメインだった。
両A面
2 ダンシング・ジャンク SUPER MONKEY'S4 1993年5月26日 68位 NHKテレビアニメ『忍たま乱太郎』エンディングテーマ
c/w レインボー・ムーン:同番組挿入歌(安室がソロで担当。)
c/w レインボー・ムーン
3 愛してマスカット SUPER MONKEY'S4 1993年11月5日 67位 ロッテ「マスカットガム」CMソング
元々はCM用に作られたサビパートのみのもので、初CM時には歌詞も異なっていた。
c/w わがままを許して
4 PARADISE TRAIN 安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S 1994年7月20日 - 毎日放送TBS系ドラマ『野々山家の人々』オープニングテーマ
ロッテ「マスカットガム、ブルーベリーガム」CMソング
同曲を最後に新垣寿子が脱退。
c/w 悲しきブロークンボーイ
5 TRY ME 〜私を信じて〜 安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S 1995年1月25日 8位 95'「ミナミ」CMソング
この曲より松田律子、宮内玲奈が加入。
c/w MEMORIES 〜明日のために〜
SUPER MONKEY'S参加シングル
太陽のSEASON 安室奈美恵 1995年4月26日 5位 裏ジャケットに"安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S"と記載
ロッテ「クレープアイス」CMソング、日本テレビ系「GROOVY」オープニングテーマ
c/w ハートに火をつけて
Stop the music 安室奈美恵 1995年7月24日 4位 裏ジャケットに"安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S"と記載
フジテレビ系ドラマ「湘南リバプール学院」オープニングテーマ
c/w GOOD-NIGHT
Body Feels EXIT 安室奈美恵 1995年10月25日 3位 バックダンサーとしてSUPER MONKEY'Sが参加
タイトー・家庭用通信カラオケX-55」CMソング
c/w Body Feels EXIT (X-TENDED MIX)
Chase the Chance 安室奈美恵 1995年12月04日 1位 バックダンサーとしてSUPER MONKEY'Sが参加
日本テレビ土曜ドラマザ・シェフ」主題歌
c/w Chase the Chance (TRIP CLUB MIX)

アルバム

タイトル 名義 発売日 順位 備考
DANCE TRACKS VOL.1 安室奈美恵 1995年10月16日 1位 安室の単独名義ではあるが、SUPER MONKEY'Sの楽曲を含み、裏ジャケットやブックレットにメンバー全員の写真が載っている。
ORIGINAL TRACKS VOL.1 安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S 1996年9月30日 3位 東芝EMI時代の楽曲が全て収録されたベストアルバム。

映像作品

タイトル 名義 発売日 発売形態 備考
avex dance Matrix '95
TK DANCE CAMP
VARIOUS ARTISTS 1995年11月15日 VHS
1995年8月26日東京ベイサイドスクエアで行われた小室哲哉主催の野外ライブの模様を収録。
安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sは「TRY ME 〜私を信じて〜」、「太陽のSEASON」を披露[注 5]
AMURO NAMIE FIRST ANNIVERSARY
1996 LIVE AT MARINE STADIUM
安室奈美恵 1996年12月4日 VHS 1996年夏の野外ライブ「SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S」の最終・千葉マリンスタジアム公演の模様を収録。
このライブを以って安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sはグループとしての活動を休止する。
「Chase the Chance」以降の楽曲でSUPER MONKEY'Sの参加はなかったが、ツアー限定で「You're my sunshine」のバックダンサーを務めている。
2000年9月27日 DVD

ライブ/ライブツアー

公演日 タイトル 日付・会場
1995年 7月16日 - 8月27日 安室奈美恵 with Super Monkey's Concert '95 ~ハートに火をつけて~
12月27日 安室奈美恵 with Super Monkey's First Live in OKINAWA'95
1996年 3月20日 - 5月19日 mistio presents AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S TOUR '96
8月27日 - 9月1日 SUMMER PRESENTS '96 AMURO NAMIE with SUPER MONKEY'S

イベント

受賞歴

バラエティ

ドラマ

映画

  • 学校II(1996年、松竹
    • 作中に登場する養護学校の生徒達が、安室奈美恵 with SUPER MONKEY'Sのライブを観に行くというあらすじのもと、本人たち役でライブシーンで登場する。

CM

  • ロッテ(1992年 - 1994年)
    • ロッテアイス「シリアルアイス」、「クランチボール」
    • ロッテガム「マスカットガム」、「ブルーベリーガム」

ラジオ

脚注

注釈

  1. ^ 前身は「クラブハート」、SUPER MONKEY'Sデビュー後は「B.B.WAVES」へと改名。
  2. ^ この流れはデビュー前から想定されていたとされる説もある。
  3. ^ 太陽のSEASON」、「Stop the music」は安室の単独名義ではあるものの、裏ジャケットにはメンバーの写真と「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」の記載があり、音楽番組などでも同じようにクレジットされていた。
  4. ^ 準優勝は天久美奈子 (Mina) である。
  5. ^ ビデオには収録されていないが、この時にまだ未完成だった「Body Feels EXIT」を初披露している。
  6. ^ 沖縄アクターズスクール主催の舞台劇。主人公のピーターパン役を安室が務め、メンバーも全員出演した。またメンバー加入前の松田、宮内の他、後にデビューするSPEEDのメンバーや、知念里奈なども出演している。
  7. ^ 24時間テレビ内の企画
  8. ^ トラックステージで行われたデビュー告知イベント。
  9. ^ 当時SUPER MONKEY'SがロッテアイスのCMに出演していたことからゲスト出演
  10. ^ 第44回「さっぽろ雪まつり」内で行われたライブステージに出演。
  11. ^ みずいろ公園」のオープニングイベント内で行われたミニライブ。
  12. ^ 日清食品「世直しどん兵衛」の発売を記念して行われたイベント
  13. ^ 7号館1F・7102教室
  14. ^ 中庭ステージ
  15. ^ 「TRY ME」購入者全員対象
  16. ^ 「太陽のSEASON」購入者全員対象
  17. ^ Jリーグ静岡選抜vsJリーグ外国選抜
  18. ^ 同イベント内のサッポロワインコンサートに出演
  19. ^ ラジオ公録の後、ライブが行われた。

出典

  1. ^ 「週刊宝石 92.9.10」より
  2. ^ a b c d 「微笑1992.5.16」より
  3. ^ 明星 92.6」より
  4. ^ Zipper 93.6」より

「Super Monkey's」の例文・使い方・用例・文例

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