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ゆううつ

宇宙から根っこを引き抜く

どこにでも沈んでいく船
(病室で)
花、雨の音、
夜、

夜が花を抱いているのか(?)
雨、花弁の白は乾いている
雨音も乾いている
「(ここは室内だもの)」

天には大きな磁石があった
さて、
天使は言う
地上こそ巨大な磁石だ…(?)
と目を見はり、
そして
天使とは過去の私
もしくは
私の過去だった

ノルアドレナリンがどう
セロトニンが、メラトニンが、
と先生が説明している
声がスピーカーに吸い込まれていく
私はスイッチを切り、先生をポケットに入れ
夜の病室を、
泳ぎながら、倒れていくみたいに、
仰向けになり、浮かびながら
いつの間にか着いていたヘッドホンを
両手でぎゅっと耳に押し付けてる
――それから着換えの時間……

パジャマは水色……?(?)

眠り…眠りの時間……(寒い)

悪夢は私を感光しない


それはただのミックスジュースだったのだけど、
形を失った果物に、また世界は混乱した、
それで笑ったんだ、
私は世界から切り離されていった、
それは単純な言葉によって、記述できないから、

私は世界を見たけど、
見ても、見ている私などいない、
世界は私を見ない、
夜は全てを消していき、全ては夜に優しく消えた、
夜へと言葉をかけられる「私」に、
存在が単純なひとつになりかける。

私は昼に立っていた、
笑わなかった、変な奴だと言われた、
ノイローゼって倒れるものなんですね、
(ただ在れば在るだけの世界それだけですよ)、
栄養失調でしょう(先生、栄養を
あなたは知っているのですか?)、
遠くでずっとぐるぐる回っている何かみたい、
(精神て栄養的なものですか?)精神て、って…
どう使えばいいのだろう、死なないかもね私…

(先生、僕には何も分からないのです)
(あら、私にも分かりません。あなたは物知りさんですよ)
(でも、僕にはどうだっていいこと)
(そんなこと言ったら可愛そうですよ)

言葉の裾を拡げてほしい、
だってあなたは私と違う、
同じ世界に住んではいても同じ空や同じ服、
同じお金を使い回せるだけの、共存なのなら、
私は私と何を信じればいい?

私は眠っている、起きたときには弾かれる、
空も海も、単純に鳴るばかり、
見ても見ても、何も見えないのです。

冷たい空の下で鳴る孤独な電線を見上げると、
身体が渦巻く、宇宙は何処までも続く、
回線も人間の時も過ぎ、
私の今を釘付けにする、死ねるかな、と少し
期待できると、安心します、私が
普通だといいな、ただの普通であるなら。

(でも先生は死んだら火葬がいいとか考えますか)
(火葬はお寺でしょう、私は教会なの)
(土葬?)
(昇天するのよ、私は)



部屋の中では、物たちが流れていて、
みんな名前が付く前に形を失う、
私は世界の光のプラグを探している、
とても疲れてしまったのは、世界の方、なので
私には行き場がない、
私は膨張を止めない、このまま
何もかもが冷え切ったとしても、
頭の中の会話だけは終わらない。

「“She said ‘Welcome’and…”.、」
「分かります。彼女は、神様が何かと仰っていましたが」
「あなたは神様の一部のようなのに、カメラが無いみたいなことを言ってました」
「彼女はカメラを持っています。多分‘camellia’の傍で二人を撮りたいから、寄ってくれと仰ったのではないでしょうか」
「いえ、確かにカメラと言いました。けど、あなたの言うことも正しいみたいです。
 …それならあのツバキでしょう」
「彼女は何故神様といったの?」

(血のよう。光に近付くのは怖くない?)
(そこでは自分は釣られる側に回る。海は拡く、空は狭い、)
(空に閉じ込められた身体、身体に閉じ込められた心、心の中には何処までの空?)
「“Maybe… ah possibly is your name‘——-’?”」
「違う。それに私は英語を喋らないのです」
「それならやっぱりあなたを指したのですよ」
「そうでしょう。でも違うのです」
「そうかも知れません。でも映るのは無いものだけです」

私たちが眠る写真は、私の眠気に支障を来たした、
そしてまた、私たちは人間たちの家で、
神様の一部であることに、抗えない、私が、
眠気と怠さに、押し潰されてしまうまで、
地球も空も回転を止めない。



だから私は暗い場所で待っている、
世界が花のように消えていくまで、

(引き出しの中の鉛筆箱)、
(靴箱の中の電子線/空)、
私には折られた世界と祈る空、ばかり、
(いいんだよ、誰も帰ってこない)、
(この空は、私たちのもの)、
私は、歌を飲み込んで、まるで
死んだように目覚める、もうすぐ何もかも、
ひっそりと消え去ってくれることだけを
冷え切った手で祈りながら。

3月初めのメモ

2月はとても調子が悪かった。どろどろした重力に耐えて生きているだけで、ほとんど精一杯だった。読んだ本はたった一冊だけ。3月に入ってからも、相変わらず気分の悪さは続いています。
一ヶ月間、何にも無かったような気がするけれど、いくつかいいことはあった。まず、少しだけ、内向的な気分を思い出せた。眼鏡が壊れたけれど、代わりにいい眼鏡を買えた。ディスプレイと椅子を新しく買った。ギターアンプを改良して修繕したら、とてもいい音が出るようになった。よく机の下に毛布を敷いて眠るようになった。机の下から見える部屋の中は、他人の部屋みたいで落ち着く。自分が、きちんと保護された漂流者になった気がする。あと、インクが詰まって使えなくなっていたペリカンの万年筆が、何度かインクを出し入れしては辛抱強く書いていたら、ちゃんと使えるようになった。

個人的な感傷で生きている。今日(3月3日)は病院の日だったけれど、僕は少し多めに薬を飲んでいたので(本当に悪い習慣だと思う)、数日間薬が欠乏していて、本当にひどい状態だった。それで、母に薬だけ貰いに病院に行ってもらった。僕は昨日の朝から全く眠れなくて、本当に30時間くらい椅子に坐ってた。何も食べず、お茶だけを飲んで。アニメ(リゼロ)を2話見て、あとはノートに万年筆でひたすら書いてた。あまりに書き過ぎたので、久しぶりに右手の手首から力が抜け始めて、少し震えるので、腱鞘炎になる前にリストバンドを着けた。
音楽を聴いていると、ときどき昔の気持ちを思い出す。大抵はとても寂しい気持ちだ。死んだ祖母のことと、誰も友達がいなくて、友達になりたいと思える人もいなかった十代の初めの頃の、どうしようもなく孤独で、とにかく周りに合わせようと必死だった日々を思い出して、そして無理に付き合って友達の振りをしていた奴の顔を思い出した。相手の方も多分僕に無理して付き合っていたんだろうな、何故なら高校生活で誰も話し相手がいないのは致命的なことだから、と思うと、詩を書きたくなった。
僕は中学二年の頃、本当に誰とも話さなかった。家族はいないのも同然で、父は僕を見れば説教をして、母はおろおろしているばかりだった。中三のときにフリースクールに行ったことは、本当に、本当にいい思い出。そこで親友に出会ったから。彼ほど魅力的な人は滅多にいないし、友人になれたのは奇跡みたいな感じだ。
高校を半年も行かずに辞めて、フリースクールで出会った親友に思い切って電話を掛けたら、彼も僕とは違う高校を辞めていたと知って、僕がどんなに嬉しかったか分からない。ともかく、彼と僕とは、僕が大学に行くまで、いつもいつも一緒にいた。だから、何年会わなくても、彼との縁が切れるとは、露とも思わない。

あの頃は、十代の頃から二十代の初め頃までは、僕は本当に命がけで本と音楽を愛していた。そして、いくらでもずっと書いていることが出来た。今は書けない。本当に十年以上、僕は何にも書けた気がしない。何が好きなのかもよく分からなくなっていた。

眠れないけど、ちっとも眠くない。横になると情報がぐるぐる回って、身の置き所が無くなって、僕の身体も情報の渦に巻き取られそうな感じがする。椅子に坐っている方がずっと楽だ。母にはコーラを買ってきてもらった。しばらくコーラだけで生存していたい。糖分さえあれば、僕は十分生きていける。

今は薬を飲んでいる。だから元気だ。薬に生かされているような気がする。頭の中に弱々しい充電池があって、薬は少しだけ僕を充電してくれるけれど、満充電には決して届かない。常に切れ切れで震えるみたいに生きていて、ぎりぎりのところで病院に繋がれているような気がする。

先月の下旬に少し、意識が遠くなって、しかも冴えていて、そう言えばこの感じに、昔は好きなときに入ることが出来て、全てから切り離された世界で、宇宙の果てのシェルターで、温度の無い心地よさの中で、音楽の中で浮かびながら、電信機のようなキーボードを情熱的に打ち続けていられたな、とすごく懐かしく、嬉しく感じた。もしかしたら、僕は僕なりに回復出来るかもしれない。

小学生の頃、一番好きだった教科書は、音楽の資料集だった。楽器の写真はいくら見てても飽きなくて、特にクラリネットとか、すごい格好いいと思ってた。その後ハーモニカが好きになって、しばらく吹いていたし、十歳の時からは(ジョン・レノンの影響で)もちろんギターが大好きになった。歌うのも好きだった。歌の世界に簡単に入ることが出来た。
生活の中では、音楽はすごく遠い、ただの薄っぺらなBGMのようにしか聞こえない。アコースティックギターは買ってみたものの、とても難しかった。次にレスポールのコピーモデルを買ってもらったけれど、それも中途半端に、コードが自由に弾ける程度のレベルで頓挫した。次にテレキャスターに、完璧なくらい惹かれて、そして今はテレキャスターばかり弾いている。全然上手くなったとは言えないのだけど。

部屋の温度は24.3度。まったりと暖かい。寂しさ。無理に友達の振りをしていた人たち。そして、このまま別れることは間違ったことのように思いながら、それでもおどおどしている内に、声を掛ける機会を失って、多分永続的に縁を結べなかった人たち。
若いことは全然いいことじゃない。耐えられないことが多過ぎる。でも、よく言われることではあるけれど、他の全てを放棄してもいいから、自分が惹かれる人には、どうしても声を掛けた方がいいと思う。だって、孤独に慣れると人間がどうでも良くなる。当たり前の大好きな人がいないと、少なくとも僕はすごく簡単に犯罪者になると思う。

何と言うか、人の未知な部分に惹かれる。決まりきった人には惹かれない。人の空白の部分がとても心地よくて、空白の形に僕は自らを投影していく。だから人を好きになることはいつも思い込みなんだけど、でも、言うに言われぬ言葉を隠し持った人に惹かれないなんていうことがあり得る? いつも相手の言葉を予測しては、どきどきしている。そして相手はいつも予想を超える。何故ならもちろん相手は僕じゃないから。予定調和的な関係には耐えられない。退屈過ぎて死んでしまいそうで。

そろそろコーラが冷えてる。宇宙の果てに僕がいても、僕が日本語を書いてて、コーラはちゃんと冷えているのは、とても不思議なこと。自分はここにいないのに、この世界は僕抜きで、きちんと透明の向こう側で、いつも通り、予想通り、動いてる。でも予想通り、の世界に自分も取り込まれると、自分が無くなって、この僕もまた決まりきった運動を無理に行い続けるだけのつまらない存在になる。僕にとって、僕が耐えられない存在になる。
つまり、生きる価値が無いのはいつも、自分自身ではないんだ。自分と世界との関わり方、つまり自分の人生に価値が無くなるのであり、自分自身には価値があるもないも無い。ただの掛け替え無い宇宙であることが僕であること。

暗くなってきた。雨がやんだ。自分の内部で混線した言葉に塗れてても苦しいだけだ。他人の書いた言葉をどんどん食べて、流されて、声を新たにしていく方がいい。

トランス状態っていいよね。勝手にトランスと呼んでいる訳ではなくて、櫻井まゆさんが仮にトランスと呼んでいた状態を、僕もまた仮にそう呼んでいる。仮の言葉を仮に使うことで、言葉は少し強固になると思う。いろんな人が「あの状態」をトランスと呼ぶようになったら、やがてその状態は共通概念となるだろうから。もしかしたら、だけどね。概念というのはおかしいかもしれない。「やっぱり天国ってあるんだよ」というのが一番正しい気がする。

言葉。すごくハイな状態。トランスとか、とにかくすごく気持ち良くて楽しくて、完璧で、多分本来的な状態。そこにみんな行ける。行けないとしたら悲しい。僕はもう行けないかもしれない。でも、言葉には言葉を超えて宇宙も超えて、自分の最果てまで行くことの出来るすごい力があるということは信じてる。困難も、一生懸命な数十年も、きっと報われる。神さまはいてもいなくてもいい。「いてもいなくてもいい」が、そのまま神なのかもしれないから。
日本語を書く人は、日本語を信じて欲しい。自分を満足させるに足る、十分で、しかも可変的な力が、日本語にはあるから。どんな言語にもあると思う。言葉を変化させることで、自分が変化する。自分って水みたいな存在だ。水に濡れただけの存在じゃなくて。身体なんて無い。けどきちんと在るから大丈夫。心配しなくても何にも無くならない。

本居宣長は山桜を死ぬほど愛していた。葛飾北斎は富士山とか波を完璧に目撃したし、あらゆる形と、多分描くこと=筆を持った指先を動かすこと、を愛していた。と言うことは僕にも、僕なりに何か山桜や富嶽百景に値するものがあると言うことなのだろう。それはこのキーボードかもしれない。違うかもしれない。日本語かもしれないし、違うかも。

愛すること、愛されること、多分それだけでいい。そこに光があるから。それ以上の光があってもなくてもいい、納得出来る以上の光があるから。

でも、もっと実際的なことも書きたい。例えばすごく低俗みたいなことだけど、新しい眼鏡のフレームが微妙に合ってなくて、自力で完璧にフィットさせるのに苦労したとか。だって、眼鏡がずれたりしてるとげんなりするし、音楽が無いと嫌だし、音楽にはある程度の音質が求められるし、で。人間はある程度はアバウトな存在で、完璧じゃなくても、ある程度完璧に近いなら完璧になれる。完璧な文章は存在しないと村上春樹は(実はあんまり好きじゃないんだけど)最初の小説の最初の行で書いていた。でも、ある程度、つまりは自分なりに完璧だと、それはもう完璧ってことでいい。天国の宮殿が完璧に真っ白じゃなくても、真っ白に見えたらそれはもう真っ白ってことでいいんだ。

人間は素敵で、愛せる存在。多分、それを知っているだけでいい。

2月の日記

2月1日(土)、
 心の中に空虚がある。僕はそれを忘れられない。心の影を捨てられないから病気になるのだとしたら、それなら暗いまま、悲しくて寂しいまま死んでもいいと思う。
 それでも精一杯元気には生きようと思う。わざわざ自分を損ないたくはない。腕を切ったり、少しODをしてしまっても、別にもう深刻にはならない。それはズドンと落ち込んだときの発作みたいなもので、コントロールしようがないから。それで、自分が許せないなら許せないで、それもまた仕方のないこと。
 でも、病気であることをアイデンティティにだけはしたくない。「僕は暗い人間だ」と敢えて思うこともやめたい。

 自己嫌悪は、控えめにしようと思う。それから、お酒は確実に逃げ道になるけれど、逃げた先は確実に、地獄と言ってもいい場所なので、飲酒は控えるつもりだ。アルコール中毒になっても、酔拳の達人みたいに、一生調子がいい人もいると思う。
 でも、僕にはアルコール中毒の才能が無くて、飲み続けていると、世界全体が恐怖の館みたいに思えてきて、現実感を無くし、幻覚を見て、飲んだときだけ二、三時間平気、という相当生きにくい状態になってしまう、……残念なことに、僕はお酒と親密な仲になることは出来ない。
 何年か前、ウォッカにポカリの粉やコーラを混ぜて、一日中ちびちび飲んだりしてて、お酒と一緒に眠剤を飲まないと楽になれない時期があった。本当にやばくなったら死ぬつもりだった。でも、飲まないと恐ろしい幻覚が止まらなくなってからは、少なくともウォッカだけは飲むのをやめた。
 床に嘔吐した跡を一年間放置していて、その一年間の記憶が無かったし、歯を何本も失って、もう無事な歯は一本も無いし、脳の中を虫に食べられる幻覚を見て、手で頭を触ると穴が空いていて、指先を虫に刺されて実際に痛みを感じたりした。死ねることさえ信じられなくなって、アルコールだけはもう本当に、さすがに嫌になった。

 感情と言えば恐怖と不安しか無かった時期が十年間はあったと思う。もっと長かったかも。今も完全に抜け出せたとは言えない。でも、最近やっと、言葉を美しいと感じるようになってきたし、音楽も再び好きになってきた。昔は言葉が美しいのは当然だったし、詩が分からないという人を理解できなかった。そして音楽ほど楽しい世界は無いと信じていたので、音楽を聴かない人がいるのが不思議だった。
 今は、言葉や音楽に触れると自動的に気持ち良くなる自分が不思議だ。すごく遠い気分になる。遠い感傷や、自分が自分でしかないという寂しさに心地よさを感じる。
 いつ、この美しい時間を失うのか常に不安だ。地獄から這い出すには何年も掛かるのに、地獄に落ちるのは一日あれば十分だ。気付くと世界が暗転している。全てが美しくて楽しい世界なら、百万年だって生きていたい。とろりとした気持ちいい時間。お酒や薬に頼らなくても、何も怖くない時間。ひとり楽しく完璧さに完結していられる時間。絶望には一日だって耐えられない。

 

2月2日(日)、
 変拍子が好き。ギターの変則チューニングが好き。分裂的で立体的な言葉が好き。

 言葉を書き続けていると、ときどき不思議な感覚に囚われる。言葉が僕を通して言葉自身を表現しているような気がする。言葉は伝達の手段に過ぎないという見方もあるけれど、言葉には言葉自身の命や意思や、流れがある。言葉は決して、僕が自分で自由にコントロール出来る、便利な道具ではない。僕が言葉を操るのか、僕が言葉に操られているのか分からなくなる。
 そして僕は、僕が書いたはずの言葉たちに逆に侵食されていく。とても単純な例を挙げるなら、何気なく「僕は悪い人間だ。とても罪深い」と書いてしまうと、その通り僕は悪くて罪深い人間に思えてくる。書いてみるまで、何が出てくるか分からない。
 誰もきっと、脳の言語野なんかで書いてないと思う。だから、脳にチップか何かを埋め込めば、考えるだけで書けるのに、なんて全然思わない。僕は寧ろ、手や指先で書いている。僕の指先がキーを打つのを、僕は遠くから見ている。そして白紙の画面に電子の活字が刻まれていくのを、興味深く眺めている。いつも音楽を聴きながら書いていて、音楽と言葉がシンクロしているみたいに感じられる時間が一番気持ちいい。

 ヴィトゲンシュタインが、どちらかと言うと気楽な文脈の中で、作曲家にはおそらく三種類いるのだろう、と書いていた。全部頭の中で作曲する人と、楽器を弾きながら作曲する人と、楽譜にペンで書きながら作曲する人と。そして彼自身はペンで思考している、と書いていた。ペン先が何を書くのか、頭は知らないのだと。
 そして彼は、いつか突然、自分の中から何ひとつ出て来なくなるのではないかと、いつもとても恐れていたらしい。僕にはその恐怖が分かると思う。ある日急に、ペンが全く動かなくなり、それを自分ではどうすることも出来ない。すらすら書いていると、そんな事態がいつか起こるなんて、夢にも思わないのだけど。

 

2月3日(月)、
 僕はきっと特定の好きな人がいなければ、人間全般を好きになることなんて出来ないだろう。僕は人からの愛情と、人への愛情が無ければ生きられないだろう。

 昼間からビールを飲んでいる。ヱビスの黒ビール。それで、一本飲めばやっぱり気持ちよくて、ドラッグでもやってるみたいだ。音楽と活字が気持ちいい。

 

2月5日(水)、
 父も母も、僕と会話しながら、僕ではない誰かに話しているような感じがする。僕の頭がおかしいのかもしれない。僕には見えていない別の人格が、僕の笑みに張り付いているみたいに感じる。とても平坦な気分になる。母がコンニャクみたいに見える。父は見知らぬ枯れ木の彫り物みたいに見える。

 何もしたくない一日は長くて、自分が嫌になる。

 昼、ルー・リードの『ベルリン』を聴いていて泣きそうになる。全身が白い光に満たされるみたいに。音楽に連れ去られそうになる経験は、とても久しぶりだ。再び音楽を感じられるようになったのかな? それともただ、ルー・リードがすごいだけなのかな。

 

2月6日(木)、
 本の匂いが好きだ。

 

2月11日(火)、
 2月に入ってから、何故か基本的に調子が悪い。特に昨日までの五日間は、何ひとつしたくなくて、椅子に坐ってひたすら怯えていた。薬を飲んで、お酒を飲んで、煙草を吸って、元気になるのを待っていたけれど、疲れるばかりで、自分の脳細胞がすごい勢いで死んでいるのを感じるみたいで、生きてても仕方ないと思った。さっさと死のうとまでは思わなかったけれど。少しだけ元気な時間があれば、ぼんやりとギターやアンプの画像を眺めたりしてた。
 昨日はもう、今まで何ひとついいことなんて無かったように思えて、久しぶりに、ああもう嫌だとか、死にたいと思ってばかりいた。自分がひどく衰えてしまって、もう後戻り出来ないような気がした。

 昨夜は10時半に眠って、今朝5時前に起きた。起きると割とすっきりしていた。いろいろと書きたいな、と思った。日本語で書けることは無限にあるとは言え、全てのことを書ける訳じゃない。いっぱい外国語を知っていたら素敵だろうな。全てを書ける言語は存在しない。だからこそ言葉は面白い。

 以前は憂鬱で堪らなくなると、それが一ヶ月も一年も続くことが多かった。今はたった五日間落ち込んだら、六日目にはそれなりに回復する。運動も全然してないし、滅茶苦茶不摂生だし、栄養も取らないし、家からほとんど出ないし、ODも相変わらずしていたけれど、多分たっぷりごろごろしていたのが良かったのだろう。頭は悪くなったかもしれないけれど、ひどい鬱に陥ることが少なくなった。

 

2月12日(水)、
 痛みも、恐怖も忘れられない。すごくうるさい音楽を聴いている。夜中、苦痛からの逃げ道が無くて、取り敢えず腕をざくざく切った。大きく切るときはハサミを使う。思いっ切り叩き付けるように切ると、傷口が歪になって、血がだらだらと出る。今日はカッターナイフを使った。「そうだ切ればいいじゃん」と思えると楽だ。切るのが怖いという感覚は分からない。一度切ると、二度目以降は、もう歯止めが利かなくなる。
 僕は腕を数十針縫っているし、手首だけでも二十針は縫ったと思う。腱までざっくり切って、今でも痺れが残っている。病院に行くのが嫌で、縫わなかったことも多い。何の自慢にもならないけど、日本国内で僕ほど腕を切った人は、おそらく百人もいないと思う。貧血で倒れるくらい切った。包帯をいくら巻いても、血でびしょびしょになるくらい。腕が凹んでいる箇所もある。
 フェザーのフラミンゴっていうカミソリが一番お気に入りだった。一気に静脈まで切れるから。脂肪のぷつぷつした層を超えて、血が面白いくらい噴き出す。家の駐車場の地面を噴き出す血で真っ赤に染めたりした。母は無表情にホースで血を洗い流してた。
 昔々、はてなブログ自傷に何故か寛容で、自傷カテゴリーがあったくらいで、僕は不名誉なことに自傷カテゴリーで関連度(?)が一位だった。でも、もちろん同時にハイになるくらいの嬉しさも感じていた。はてなの中で僕が一番いかれてるんだ、って。でも、もっと切っている人もいた。だから実質僕は自傷ランクでは二番だったのだけど。

 血とギターには親和性がある。ギターの金属弦は細くて指が切れそうで、そしてギターの音には血の色が混じっている。指先の痛みが好き。金属弦の鋭い音が好き。
 カッターの刃を新しくして、十回ざくざく切る。血は、ティッシュを三枚使えば抑えられるくらいの量しか出ない。僕の腕はごつごつした樹皮みたいに、満遍なく皮膚がケロイド状になっているから、なかなか切れない。一度切った傷口をもう一度抉るように切ると、割と深く綺麗に切れる。

 血の赤を見ると安心するから切る、という気持ちは分からない。僕は痛みが欲しい。鋭い、骨まで染みてくるような痛みが。一番最初のとき、十八歳の時はベルトやハンガーで身体を思い切り叩いていた。割れたハンガーが肌に刺さって血が流れたときから、何だ、自傷って思ったよりすごく簡単だと思った。
 僕はこれでも、まともになりたい。でも僕の腕を見て(ちなみに両腕に傷がある。右腕の傷は少ないけれど、少ないだけに余計目立つ)、僕をまともだと思う人はあまりいないかもしれない。別にいい。誰かに正常者の烙印を押してもらえることを望んではいないから。

 痛みを感じなくなる頃には、エンドルフィンが出ているんだろう。脳内麻薬。三十回カッターナイフを腕に振り下ろす頃には、もはや痒みさえ感じない。頭の中がふんわりしてくる。効果が無ければ、誰も自傷なんてしない。僕はそれでも一年以上も自傷から離れていたことがある。切ることを思いつきもしない。「まともにならなきゃ」と、そればかりを考えている。一年ぶりに切ると、やっぱり気持ちいい。ゆっくりゆっくり畳針を縫うように刺したり、安全ピンを付けたりする。たまにライターや煙草で腕を焼く。熱さよりも強い冷たさを感じる。

 結局、百回くらい腕を切った。

 

2月13日(木)、
 最近、キーを叩くのがすごく好きだ。キーボードを叩いているだけですごく気持ちいい。書きながら快感を登り詰めていく感覚を、もう一度取り戻せるといいな。

 それから最近、活字から得られる快感がすごい。音楽中毒で、活字中毒になっている。ギターも弾きまくってるし、歌ってるし、読み書きをしてるし、……あとは勉強が出来れば言うことないんだけど。したいことが山ほどある。この頃、ベースの音や感触がとても懐かしい。

 詩をもっともっと書きたいし、それから小説を書きたくて、この頃ちょこちょこ短い物語のようなものを書いて、練習している。

 集中力を取り戻したい。「何もかもを捨てなきゃ」という強迫観念めいた気持ちに捕らわれることが多い。それでも、まあまあ集中出来る時間が、少しずつ増えてきたと思う。
 集中出来ないときは、本当にひどくて、ミニマリストにならなきゃ生きていけないかもしれない、と本気で不安になる。

 

2月14日(金)、
 近日中に弟が帰って来るらしくて、緊張したり、久しぶりに弟の顔も見たいなあと楽しみに思ったりする。
 弟は誇張抜きで、僕とは別世界に住んでいる。海外にいて、基本的に英語で生活しているし、英語で会話をする彼女がいて、今は月何十万円だかのマンションに住んでいるとか言ってた。プールがあって、ジムがあって、音楽用の防音室があって、サウナに温泉もあるらしい。部屋の掃除は週二回、業者の人が勝手にやってくれるそうだ。身に付けているものにも、普段酒を飲む店にも、僕には想像も出来ないくらいお金を掛けている。六畳の部屋に引き籠もって、もそもそ本とか読んでいる僕とは、あまりにかけ離れた生活をしているので、羨ましいとも何とも思わない。でも、部屋から都市の光を見下ろせるのだけは、少しいいな、と思う。自慢そうに写真を送ってきたりする。話を聞いても、ふーんって思うくらいだし、僕は僕で、変な自信があるんだけど。

 

2月15日(土)、
 僕なんかいなくてもいいと思ったら楽だ。それでも再生の季節は来る。

 この世に幸せはある。それは間違いないことだ。でもそれ以上の悲しみがある。それもまた疑いようのないこと。

 どんなに好きでも拒否されることはある。雨を願っても干ばつは来る。悲しい人に手を差し伸べたら、寧ろ恨まれることがある。

 

2月16日(日)、
 夜、弟が帰って来る。特に感慨は無し。親しい友人とか、兄弟には数年ぶりに会っても、何か昨日会ったばかりの感じがする。

 

2月17日(月)、
 弟と割と気楽に話した。カバンや靴も含め全身プラダを着ている弟と。カメラが趣味と言っていたけれど、持っているカメラがライカなのにはびっくりした。しかも一眼レフだ。僕の持ち物を全部売り払っても買えないカメラ。でも、弟の中身は変わってなくて、彼は別に気取っている訳ではない。ただ散財しているだけだ。
 せっかく弟がいるのに、僕はほとんどの時間、いつも通り、部屋でギターを弾いて歌っていた。

 昼、病院に行く。血圧は病院に着いてすぐに測ったんだけど、141だった。以前は200を超えているのが普通で、人のいるところだと緊張でふらふらしていた。今日は、いろんな人がいるものだなあ、と冷静に周りを見渡すことさえ出来た。先生とも普通に話せたというか、寧ろ僕が一方的に喋っていた。すらすらと言葉が出てくるのに自分で驚いた。
 最近、鬱になったりハイになったり、ころころ気分が変わるけど、特に躁鬱という感じはしない。躁鬱の薬はきちんと飲んでるし、単に自分がすごく気まぐれなだけだと言う気がする。躁状態のときは、もっと、とんでもなく元気なので。
 イリボーという薬を一日に一回飲むことになった。過敏性腸症候群の薬だ。僕が中学校に行かなくなったときも、本当は明らかに鬱状態だったけど、病名は過敏性腸症候群だった。
 帰ってきて血圧を測ると124だった。もっと低いときには110台の時もある。

 

2月18日(火)、
 あれも嫌だこれも嫌だと言って、腕を切ったり薬を飲んだりするのも仕方ないことだけれど、いつまでもそうしている訳にはいかない。何かが嫌なら、嫌じゃないことを探さなければならない。
 淡々と勉強していくこと。疲れるのは大抵身体ではなく心だ。もう駄目だとしか思えないときでも、誰かからのメールひとつで、まるで別人になったみたいに、唐突に元気になって笑えたりする。

 昼、「僕は空っぽなんだ」って気付く。何を持っていても、何が出来たとしても。僕は空っぽで、それは全然ネガティブなことじゃなくて、寧ろ清々しい。血を流して死んでいくだけ。全然悪くない。何もかも売り払ってもいい。ただ光を集めて、音を聴いて、色を浴びて死んでいく。

 と考えつつも、高さ35cmの椅子を買った。僕の大好きなピアニストの、グレン・グールドの椅子の(座面の)高さが35cmだったそうだから。大抵の椅子は40cmから44cmくらいある。天才の癖を真似しても、あまり意味は無いのだけど。

 僕はいずれは死ぬ。死ぬことを考えると、悪くない気分になる。

 ここ数日、多忙なアニメーターみたいに、机の下に毛布を敷いて寝ているんだけど、密室感があって、孤立した感覚を得られるのが気持ちいい。

 

2月21日(金)、
 昨日の夜は久しぶりに外食をした。豚カツを食べて生ビール(中)を二杯飲んだ。弟は小の生ビールをちびちび飲んでいた。父と母と僕と弟と。これで妹がいれば家族が全員揃うことになるのだけど。

 

2月27日(木)、
 昨日は弟が大きな仕事を終えたとかで喜んでいた。部屋で遠隔ミーティングをしていたらしい。何か英語でぺらぺら喋ってた。僕は弟が大事な仕事をしてるなんて知らないので、部屋で大声でスミスを歌っていた。一階にいる母が、二階の僕の部屋に、もう少しだけ静かにしてて、と注意しに来た。弟は隣の部屋で仕事をしていたので、僕の変てこな声は確実にグローバル配信されていたのに違いないけれど、弟はそれについては何も言わなかった。ミーティングは成功したらしく、弟はとても嬉しそうだったので、僕も嬉しくなって、ビールを買ってきて三本飲んだ。僕は明らかに弟の仕事の邪魔をしていただけなのだけど。

 

2月28日(金)、
 今月は変な気分が続いていた。笑っていると僕は僕自身からどんどん離れていく。

 この社会の中で僕はどうなるんだろう、という不安は無い。どんなに延命技術が発達しても、死ねるのだから救いがある。ひょっとしたら100年生きるかもしれないし、今すぐ死ぬかもしれない。

 僕はときどき、現実とは関係の無い場所にいる。でも多くの場合、僕は現実に囚われている。現実が何か、知っているわけではないけれど。
 僕たちが現実と呼ぶものと、意識とは、本来何の関係も無い場所にある。意識が身体や脳や、そして生活から離れたとき、僕たちは自由になれる。すごく気持ちいい場所で。

 意識がすっと現実から離れる時間。それを僕はトランスとか「あの場所」と呼んでいるけれど、本当のところ「あの場所」について「あ、あれね」と分かって貰えるような単語は存在しないと思う。もしそれを完璧に表現できる単語があるのなら、表現する必要が無い。
 それは離人症ではない。僕は十代の前半から十年間くらい離人症に悩まされていたから分かる。離人症が一番辛かった。

 現実世界で必要なものは優しさだけなのだと思う。

 夜、母と弟が外出していたので、パソコンのディスプレイとコーラを買ってきてもらう。ディスプレイは半年くらい前から調子が悪くて、ずっとノイズまみれの画面を我慢して使っていたのだけど、今日はちょっとノイズが多すぎて、眼が疲れてしまった。一昨日に眼鏡を新調したのも関係しているかもしれない。
 ディスプレイは弟が良いものを選んでくれたので、今は感動的なくらい画面がよく見える。コーラがとても美味しい。弟は明日には帰る(というのも変だけど)らしい。

眼鏡のこと

眼鏡を買った。オリバー・ゴールドスミスのオーバルというメタルフレームの丸眼鏡(とは言っても楕円に近い)。ジョン・レノンビートルズの後期の頃によく掛けていたのと同じモデル。それのアンティークゴールドという色のを2年間ずっと愛用していたのだけど、この間眼鏡を掛けたまま寝ていたら、寝返りを打ったときに踏み潰してしまって、フレームがぐにゃりと折れ曲がってしまった。
自力で直そうとしたんだけど、逆にツルをぽっきりと折ってしまった。すごくレアな眼鏡なのに……と悲しくなって、一応ネットで探してみたら、何と一点だけ、しかもゴールドのカラーのが売っていた。ジョンが掛けていたのと同じ色だ。すぐに買った。届いてすぐにレンズを入れた。
眼がすごく悪くなっていて、裸眼だと右眼が0.15で、左眼は0.1でしかも乱視が入っているらしい。数年前まで裸眼で何の問題も無くて、普通に運転免許の更新も出来ていたのだけど、急に悪くなった。今は眼鏡無しではまともに生活できなくて、でも僕はずっと度入りの眼鏡に憧れ続けていたので、眼が悪くなったこと自体は実は嬉しい。けど眼鏡が壊れるのは少し不安だ。今度はもっと大事にしよう。ゴールドの眼鏡はアンティークゴールドよりもずっと可愛い。僕の顔は可愛くないけれど、眼鏡はとにかく可愛い。

他に白山眼鏡店という日本の眼鏡屋のウィンストンという眼鏡を持っていて、これはジョン・レノンのためにデザインされたのだけど、ジョンが実際に掛ける前に死んでしまったという、やっぱりジョン・レノンゆかりの眼鏡だ。ウィンストンはジョン・レノンのミドルネーム。
セルロイドフレームの黒縁で格好いいし、多分僕にはこっちの方が似合うのだけど、これを掛けたままヘッドホンを付けると耳の裏辺りが痛くなるので、外出時や、ギターを弾いて歌うときや、食事中などにしか掛けられない。僕は起きている間、ほとんどの時間、ヘッドホンで音楽を聴いているので。
アンティークゴールドの眼鏡にも、とても愛着があるから、出来れば修理するか、また同じのを買えたらいいと思う。ネットオークションなどでは手に入るかもしれない。

一応、眼鏡を掛けて写真を撮ってみた。350mlのビールを三本飲んで、しかも徹夜した後に撮ったので、すごく顔色が悪いし、可愛げのない神経質な顔をしているのだけど、一応こういう眼鏡です。

新しく買ったゴールドのオーバル。眼鏡は可愛いのに、えらく暗い顔でしか撮れなかった。↓

これが壊れてしまったアンティークゴールドのオーバル。左側のツルが取れている。むすっとしてて、眼がどろりとしているけれど、それはともかくとして。↓

それで、これが白山眼鏡店のウィンストン。あまり掛けられないけれど、実はすごく気に入っている。↓

そう言えば、僕は多くの場合、右斜め前を向いて自撮りしてる。こっちの方が写真写りがいいのではなく、iPhoneを左手に持っているので、右を向いた方がずっと撮りやすいからだと思う。まあ、ともかく、眼鏡は好きです。

リアル

甘い
酵母のような匂い
手製の人形、てるてる坊主

街を取り巻くたくさんの
グラスファイバー
アンドロイドの廃墟

後ろめたく悲しんでいる
花のヨウ素
木から溢れていく、水たち、太陽の光
永遠の春

音楽の悲しみで空を狙う
そして浴槽
錆び付いた
小さな泡……

ねえ、そこはリアルなの?

綾蔓

こころ 乱れ みだれ
スプーンでメダカを掬ってのみました
筆の先から布衍するもの
暗い感情

水を持って貼り付いてくる
花びら
夜……
止まってしまった高速道路
観覧車が静止する
風を切る音

飢え
まとわりつく笑み

はじけている
暗い
目を瞑る
何も見えない
何も見えない

僕は感情の中に感情を掘ってしまった

トンネルがある
不味い…
天使と神とU・F・Oが同時にバラバラに

ふるわせる…

脳の温度
僕を失う地点

アスファルトに溶ける

しづく

消え入りたくなる…

フィリア

意識というその表層に触れてしまった孤独な
花を植える私は暗いところにいる
隅の子供のように
産声と断末魔
消え入る断面
赤いハーブ
血の管
体液の流れる管

体温
あらゆる場所に電気が…
背骨を折って
折り畳んで
そのまま私の墓のある場所まで這っていこう
地面は割れたスイカに埋めつくされていて
月に冷気を

誰か私を呪ってくれ
私を放ってくれ
私を潰してくれ……

すみか

あなたは、透明な入り口。遠い入り口で泣いている。

私には近況なんて無い。いつも深い森の中にいて、
でも今日、そこには太陽の光が差した、
珍しいことでは、ないけれど。

それだけのことが私の社会的一生だとしたら、
私は透明で躁鬱な社会を生きていける。

あなたの求めは、求めること、
そのものなのだから、苦しみと痛み、
それがあなたの夢なんだから。

きっと、消える宇宙の、最期には、
あなたの宇宙は透明さを増し、
そうして私の一生は一生を遡り、
光で満ち足りるだろう。

私の森には雨が降り、雨が降り、
そうしてあなたは今日も泣いている。

きっと、今この瞬間、あなたは壊れかけていて、
被害者のいない銃弾が降り、あなたは
私に笑いかけ、そして私もあなたも消えていくだろう。

痙攣するように、私は花になり、今も未来も無い、
海も未来も空も無い、私の眠りの中で、
私は目覚めるだろう、そのときあなたは、
まるで見えない涙のようだろう、あなたが泣き止むとき、
あなたはもう何処にでもある、夢でしかないだろう。

そう、ならば良心は何処にあるのでしょう?
……意味を知らなければ、世界の、生きていることの。

私は、間違っているのだろうと、目の奥を潰して、
あなたの枯れる手に、水を遣ります、
私は深い、森の中に棲んでいます、長い、長いこと。

未来

淡い吹雪の息吹が感じられて、
私に三十年後の冬はあるでしょうか、冬は
そのときも私の紅の息を白く染めるでしょうか?

――ねえ、私と一緒に三十歳になろう。
――私と一緒に、透明な、三十歳に、
――映画を見て過ごすの、PVや古い映画、
――ライブにも行くの、卑屈にならないの、
――ねえ、私と一緒に、歳を取ろう、
――一緒に卒倒しよう、ねえ、一緒に歳を取ろう、
――一緒に、死のう、ただ二人きり子供みたいに、
――ねえ、悪くない映画だよ私たち、映らない
――スクリーンみたいに、観客のいない合間に、
――ねえ、二人一緒に死んじゃおう、子供みたいに、
――ねえ、目覚めかけた、私たちの、私たちの子供みたいに、
――死ねば……、死んじゃえればいいね、ねえ
――私と一緒に三十歳になろう、ねえふたり一緒に歳を取ろう、
――子供みたいに、子供みたいに、ふたり……

製薬会社へのお布施として、詩を書いてサイレースを舐めるように摂取して。