日本数寄
- 作者: 松岡正剛
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2007/03
- メディア: 文庫
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セイゴオ先生の「千夜千冊」に感動して、つい買ってしまった本。
……え、買うなら書籍版の千夜千冊を買えって? そりゃあ無理ってもんだ(ぇ
とりあえずしみじみ思った事ですが、やっぱりこの人くらいの博覧強記になると、何かを考える際にも思考の射程距離が長いなぁということ。縦横無尽というか、限界を感じさせることなく連想とアナロジーの輪がどんどん広がっていくというか。単純に、その広さが読んでいて心地よかったのです。
「桜」というテーマひとつとってもそうで、日本人の桜嗜好の始まりから、たとえば「同期の桜」的なイメージが生まれる淵源にも触れつつ立ち戻って西行に行くと。「桜」をテーマに短文を書く時に西行を持ってくる事は誰にでも出来ますが、それ以外の「桜」に関するトピックへの目配りの広さが担保されているので、ありきたりにならない。「梅」と菅原道真も同様で、道真が少年時代に最初に作った漢詩にも梅が現れていた、というところまでちゃんと押さえているという。
と、その辺を感心して読んだのはそうなのですが、一方でちょっとカチンとくる事もあり。なんだろう、文中にわりと頻繁にカタカナ語の挿入されて、その意味が分からなくて突っかかるたびにムッとしました。なんだよ安っぽいビジネス書みたいじゃないか、とか思いつつ(笑)。もちろんセイゴオ先生は海外の人ともさかんに交流のある方だし、そうした感覚からごく自然に文中に英単語も混じって来るのかも知れませんが。読みにくいってば。
そんな感じで、分からない部分も多々あったわけですが。
やっぱり、この汲めども尽きぬ泉っていう感じの知の奔流が気持ち良かったのでした。自分の知らない事にも容赦なく、問答無用でガンガン接続されてしまう快感というか。それは逆を言えば、まだ私の知らない事が世界に満ちているという事でもあって。
私はいつでも、世界の広さを教えてくれる智者には、最大限の敬意を払って来ました。物知りが好きっていうのは、そう言う事で。
ですから、こういう本を読むと嬉しくなってしまうし、さぁ俺も頑張ろうっていう気になる。
中身について言うと。
茶道関係の話は私の方に素養がなかったせいか、あまり頭に入ってこず。悔しい限りですが、そんな私が特に楽しめたのは近世、江戸時代のあたりの話でした。
特に、たとえば歴史の教科書とかだと、明治と江戸ってまるで断絶してしまっているような印象を受けるのですが、実際には江戸の中に明治が、明治の中に江戸がけっこう濃厚にあったんですよね。特に江戸時代の学者たちは、既に近代的なものをかなり知っていたし身につけていたわけで。
たとえば、本書で引かれている以下のような文章。帆足万里『窮理通』の自序に
西人の学、累を積みて進み、日になり月にすすみ、明季以来、可辟児の天を論じ、欠夫列児の星を比し、波意玄斯の下降を算し、奈端の牽引を徴する、花蕊雌雄の弁、気水分析の方、その器械にあるや、顕微の鏡、排気の鐘、層累生焔の柱、升降候気の管、その学に便して、智を益するもの、また東方のよく及ぶところに非ざるなり。
とあって、この「可辟児」はコペルニクス、「欠夫列児」はケプラー、「波意玄斯」はホイヘンス、「奈端」はニュートンだと言うんで、思わずびっくりしてしまいました。
明治を待たずとも、江戸時代の学者たちはこうした西洋科学の実績を知ってたんですね。
そういった話を読むうちに、やっぱり江戸時代というのは我々が学校で教わったよりもはるかに、豊穣で面白い時代だったんだなぁと思ったりします。
しまいには、仏教界でも停滞していた流れを打破しようという動きが出て、もう一度仏教の世界観である須弥山説をぶち上げて、西洋の地動説よりもはるかに優れていることを説こうとした円通や佐田介石のような人が出たとか。その部分を読んで思わず爆笑してしまう私。江戸後期の仏教がそんなハッスルしてたなんて知りませんでした(笑)。
そうした事も含めて、いやはや楽しませていただきました。
さぁ、この本で興味を持った分野の本を、次に読んでみよう。次に私は、どちらへ行っても良い。自分の興味関心を、どちらへ走らせても良い。
多分、私にとって、それ以上の幸せはないのでありました。