2025-01-28

うさぎさんと亀さん、そしてゼノンはん

イソップ寓話の「うさぎさんと亀さん」のお話いうのは、昔からよう知られた教訓話でんがな。俊足やけど油断しがちのうさぎさんと、のろまやけどコツコツ頑張る亀さんの対比を通して、努力継続の大切さを説いてるんやけどな。せやけど、ここにゼノンはんのパラドックスを重ねて考えたら、なんやおもろい哲学的問題が出てくるんやおまんがな。つまりやな、「動く」とはどういうことなんか、「時間」や「空間」はほんまにワイらが思ってる通りなんか、ちゅう話になってくるんやでんがな

ゼノンはんのパラドックスの中でもよう知られとるんは、「アキレスと亀さん」の話やがな。俊足のアキレスが、ちょっと先にスタートした亀さんを追いかけるんやけど、亀さんがどんなにのろくても、先におる限りアキレス永遠に追いつけん、ちゅう理屈やねん。これ、運動無限に細かく分けることで、結局たどり着けへんのちゃうか、っちゅう話なんやけどな。これを「うさぎさんと亀さん」のお話に当てはめて考えたら、うさぎさんは途中で寝てしまうし、亀さんはちょっとずつでも確実に進んでゴールする、ちゅう寸法やねんけど、ほんまに「進む」っちゅうことはどういうことなんか、っちゅう深い話が見えてくるんやでんがな

まずやな、このお話の「時間」っちゅうもんを考えてみよか。うさぎさんは途中で居眠りしとる間に、亀さんは休まず進んでいくわけや。でもやで、ゼノンはんの言うとおりやと、亀さんの動きも無限に細かく分けられるから、ほんまにゴールできるんかいな、っちゅう疑問が出てくるんやおまんがな。お話の中では亀さんがちゃんとゴールしてるけど、ゼノンはんに言わせたら「いや、それは無限過程やで」ちゅうことになるかもしれへん。せやから、単に「努力は報われる」っちゅう教訓話やなくて、「運動とは何や」「時間とはどういうもんや」っちゅう奥深いテーマにつながってくるんやでんがな

ほんでやな、うさぎさんの居眠りと亀さんの歩みを比べると、ゼノンはんの「二分割のパラドックス」を思い出させるんやおまんがな。このパラドックスは、どんな距離も進むためには、その半分をまず行かなあかん、ほんでまたその半分…と無限に続くから、結局どこにも行けんのちゃうか、ちゅう話やねん。うさぎさんがどんだけ速うても、亀さんがチマチマ進むことで、うさぎさんには追いつかなあかん無限区間」ができるんやないか、っちゅうことになるんやで。寓話では亀さんがゴールするし、うさぎさんは負けるけど、ゼノンはん的に考えたら、ほんまに勝負は決まったんか、よう分からんようになってくるんやでんがな

寓話ゼノンはんの考えを比べてみると、時間っちゅうもんがどういうもんなんか、だんだん分からんようになってくるんやおまんがな。寓話では時間がまっすぐ進んでるように思えるけど、ゼノンはんの考えでは、時間無限に分けられて、結局進んでるようで進んでへんのちゃうか、っちゅう話になるんや。うさぎさんがどれだけ本気で走っても、そこにある無限の分割のせいで、ゴールはどんどん遠のくように見えるんやでんがな

努力っちゅうことについても、ゼノンはんの視点で考えたらちょっとややこしなってくるんやで。寓話では「コツコツやれば成功する」ちゅう話やけど、ゼノンはんの話に乗っかると努力無限に続くだけで、ほんまに成功にたどり着けるんか、怪しなってくるんやおまんがな。せやから努力ちゅうもんは「進んどる」と思ってるだけで、実際には無限過程の途中におるだけかもしれへんのやでんがな

こう考えてみるとうさぎさんと亀さんのお話は、単なる童話やのうて、運動時間努力意味を深く考えさせる哲学的お話なんやおまんがな。寓話の中では亀さんが粘り強く頑張ってゴールするけど、ゼノンはんの考えやと、そもそもゴールなんかあるんか、ちゅう話になってまうわけや。もしかしたら、うさぎさんも亀さんも、無限の分割の中では、ずーっと同じ場所におるだけかもしれへんのやでんがな

要するにやな、「うさぎさんと亀さん」のお話ゼノンはんのパラドックスを一緒に考えたら、ワイらの日々の「努力」とか「目標」とか、ほんまに達成できるんか、それともずっと追いかけるだけなんか、ちゅう大きな問いが浮かび上がってくるんやおまんがな。せやけどまあ、亀さんみたいにコツコツやるんがええんか、うさぎさんみたいに一気にやるんがええんか、それを考えるんもまた人生のおもろいとこでんがな。ワイらも結局、無限に続く道をトコトコ歩いてるんかもしれへんのやおまんがな。

ほな、ぼちぼち気張っていこか、おまんがな。

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