はてなキーワード: 隊商とは
アメリカの少年がヨーロッパに留学に行くんだけれど、ママと仲良しで、自分の行動原理をカントの定言命法から導き出そうとしていて(すごく不正確に表現しちゃうと「普遍的な道徳に一致するように行動しろ」っていうあれ)、政治的に正しくいようとしていて、頭でっかちで、マッチョで荒っぽいことができないところにシンパシーを感じる。あんまりモテそうじゃないしね。モテる主人公の話を読んで一体何が面白いというのか。あっはっは。
しかし、読後感がいいのは、やっぱり誠実だからだ。たとえば、アパートの家主がホームレスを追い出すときに「連中は寒さを感じないんだ」と言いつつも、「こいつらはあたたかいところに寄ってくる」とも言い、そういう矛盾というか二重思考にさっと気づくところがいい。
ピーターが思うに、最悪なのは、人々がこの世の現状に合わせて詭弁を弄することだった。たとえここの管理人のように、不運な人間を追い出すしか方法がない、世の中とはそういうものだと考えるにしても、それくらいでやめておくということができない。彼らは語らないと気がすまないのだ。たとえば、マダム・プエルは酔っぱらっているクロシャール(引用者註:浮浪者)は寒さを感じないのだと言って自分を納得させていた。「あの人たちは何も感じないの。あなたや私とは違うんです」彼女は本気でそれは科学的に証明されている事実だと思っているらしい。しかし、彼らが寒さを感じないなら、どうしてここのエレベーターや玄関ホールに潜り込んでくるのか。その二つの事実を結びつけようとは思いもしないようだった。
ところで、実はこういう真っ直ぐな少年少女が現実に屈して理想を捨てたり変節したりするお話がすごく好みだったりする。真っ直ぐな青年が悪意に勝てずに差別主義者になってしまうとかも含めてね。あとは、エリート候補が挫折したりトップの座を失ったり夢を諦めたりするのも好きだった。進学校に行ったのに退学してしまうヘッセ「車輪の下」とかル・グイン「ゲド戦記 影との戦い」でゲドが影を呼び出してしまってしばらくは闊達に才能を伸ばせなくなる場面とか、アナキン・スカイウォーカーがダースベーダーへと堕ちる「スターウォーズ」のエピソード1~3とか。
そういうわけで、新海アニメの感傷マゾアニメ「秒速5センチメートル」の少年が、ラストでどういう経緯でああいう疲れた大人になってしまったのかを空想するのが好きだった時期がある。「童貞卒業は風俗だったのかな?」とか考えたりね(マジ最低!)。とはいえ「結局お前モテてんじゃん! あの子の好意に気づいてんだろ!」とも思っていたので、こう考えてしまうのもすべて個人的な怨念であろう。今となっては恥ずかしすぎる。
まずこの小説の舞台がよくわからない。密林があると言いながらトゥアレグの隊商がやってくるので、アフリカの西なのか東なのかとんと見当がつかない。日記を読み返したところ、アフリカの独裁者の視点を通じて、アメリカ人の平均的な姿や人種間対立を風刺しているらしいのだが、「別に詳しくないのにアフリカ人以外が架空のアフリカを書くってどうなの」って疑問を当時の僕は日記に書いていた(たぶんアチェベを読んだ後だからそう思ったんだろう)。それに特に必然性もなく素っ裸で暮らす少女が出てくるし、あれはいったい何だったんだ。一応、独裁者の出身の民族の伝統的な暮らしを、宮殿の中でしているという体裁ではあるが……。
独裁者ものではやっぱりアメリカを風刺した側面のあるガルシア=マルケスの「族長の秋」のほうががオススメ。今度新潮文庫で出るしね。
アップダイクは「ケンタウロス」のほうがピンときた。「ノルウェイの森」で主人公ワタナベトオルが一時期ハマっていた小説だ。これも古典のパロディというか、アメリカのしがない高校教師の生活と、ギリシア神話の神々を二重写しにしたもので、例えば体育教師とその浮気相手はアレスとアフロディテ、厳格な校長はゼウス、たまたますれ違う酔っ払いのホームレスはヘルメスと、卑小な現実とそれを再解釈する神話の無駄な壮大さ、あるいは逆に神話を卑小化する面白さがあった(どうでもいいんだが、神々がギリシア名なのにアフロディテだけ英語名のヴィーナスと翻訳する美術書を見ると、定訳なのかもしれないが、イタリア関連の文献でヴェネツィアをベニスと表記されたような、釈然としなさを感じる)。
僕は知的な作品というか、浮世絵と加歌舞伎である見立てみたいに、知っていること前提で楽しむものに心ひかれる。原作を知っている映画のほうが好きなのもそれが理由だろうな。この素材で俺をどう楽しませてくれる? みたいな。
その点「ユリシーズ」も楽しめた。ただし、以前に必読書コピペにマジレスしてから大分経つが、結局まだ「フィネガンズ・ウェイク」を読んでいない。ああいうのは気合がいる。
ダニロ・キシュ「庭、灰」はあまり記憶に残らなかった作品、その二。読んだ記憶があるのだが、デジタル化した二〇一〇年以降の日記を読み返しても読んだ記録がない。ここまで書いてきてなんだが、実は読んでいないのかもしれない。今度図書館で中身をきちんと確かめてみるつもりだ。
イタロ・カルヴィーノ「見えない都市」は飛ばした。というのも、過去に文庫で読んだからだ。こちらかは架空の都市の伝説を、マルコ・ポーロがクビライ・カンに語る体裁で、僕は幻想的なホラ話が好きなのである。ギョルゲ・ササルマン「方形の円 偽説・都市生成論」もいいぞ。最近文庫化されたし。
同じ著者ではこれ以外にも「冬の夜ひとりの旅人が」というメタフィクション幻想譚もいいし、人間が物理的に切断されてそれぞれ善悪両極端な人格になる「まっぷたつの子爵」、地上に降りず木を伝って暮らしている「木のぼり男爵」(今にして思えば荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」に鉄塔で暮らすキャラいたな)、鎧の中が空っぽな「不在の騎士」と、児童文学っぽいのもいい。結構読んでいる。
全然関係ないけど、友人と雑談したときにガルシア=マルケスの長編を半分くらい読んだと話したら、「全然読んでないじゃん」って煽られたので笑ってしまった。彼は全部読まないと読んだうちに数えないらしい。「じゃあ何人の作家を読んだんことになるんだ」と言い返して僕は笑った。一応長編を大体読んだのは夏目漱石とドストエフスキー、トルストイくらいか? 中島敦は手帳のメモ書きまで記載した全集を読んだ。何度も言うが一生のうち一人の作家しか読めなくなるなら中島敦を選ぶ。ちなみにブローティガンを勧めてくれたのは彼だ。
続く。
ロシアの文化にモンゴルとかイスラムの影響があるかっつーと、あんまりない。
欧州の中心から見たら、ロシアは東の方にあるよく分からない蛮人の国で、それは最初から現在まで終始一貫してる。
ユーラシア中央部のただっぴろい草原地帯をどう見るかは人によって評価が分かれるが、「使いにくい海」ぐらいに思っておくのが簡単。
「シルクロード」って言葉がバズワードになったあとに「海のシルクロード」って言葉が後付けで出てきたけど、量的には今も昔も海路の方が優勢なのは変わってない。
「たまたま草原ルートが使いやすかった時期」にフォーカスした言い方がシルクロード。
誇張すれば、海は航行技術があったら誰でも使える。少々治安が悪い場所があっても、普通はスキップ可能。
陸はそうは行かない。海よりも陸上の方が隘路が多い。例えば、乾燥地だと要衝のオアシス都市がすべて維持されてないと隊商の通行が不能になる。
船は風さえ吹けば船員の水食料だけでどこまでも行けるが、陸路は馬だの駱駝だのを食わせないとなにもできないのでどうしても高コスト&膨大なインフラ必須
あのねえ成功の方程式を正しく描けるか田舎それこそが成功への片道切符なのだ。
だいたい努力 * 才能 = 成功 などというチンケな俗流成功哲学を信じているようでは駄目でありますww
なぜかならば、才能は生まれつきの不変であるから努力しかないことになってしまう。ところが努力では人と差がつかないんよ。
厳密には一つのことに継続は力なりで差はつくけどな。後述。じゃが全体量としてはヒトの体力で決まるんですわ。いくら室伏でも18時間毎日円盤投げできません。山口真由は19.5時間やってたけどさw
だから大真面目に語るのもバカらしいことであるが、世直しのために我らは正しい方程式を広めねばならないのだ。わかるね?正しい方程式とはこうである。
わかった?w ノウハウが追加されてるな? そして才能は生まれつきで不変であるから不定項、じゃあ変項は?変項は言わず喪がな、努力とノウハウなんです。よろしい。
では、よく努力の方向が間違ってるという言い方をするな?あの言い方は非常に有害危険なの。まるでベクトルのように方向と大きさで決まるかのように、そういうふうにできている?そんな単純な話じゃあない。
がむしゃらにやって良いのはエロ画像掲示板だけ。ソフトにタッチしないと。アダムタッチじゃないけど!雑にガッシャアとやってしまうなよ。
いくらでも可能性が転がっているのに単純化してチャンスを逃すのはバカですよ。そのバカだと思える視点を是非とも今日身につけてほしい。
その優しい愛撫のやうな、微細な心で1つ1つ確かめながら組み立てていく。それは単純に努力の方向じゃないですよ。何をやるか、どれだけやるかの二分法よ、さらば!ちょっとそれはディジタル過ぎる。
例えば努力をするということはそこでひずみが生まれる。観測問題じゃないけど努力するという行為自体が努力の隊商を変えてしまう、さらに言えば努力の主体たる私自身もまた変貌をとげる。
これを物の哀れの分かる人が「諸行無常、諸法無我」と言ったであろう。その変わりゆく有様を確かめるようにソフトに愛撫するわけです。それがノウハウなんですね。
ノウハウというとマニュアルをイメージするでしょうが全く違うんですね。それは努力と才能という二分法の古い考え方です。いまは努力と才能とノウハウです。努力でもなく才能でもないノウハウという
ものがあるのだと厳しくそれはそれは厳しく峻別している。このときノウハウはもはやマニュアルではないことを知ってください。確かめてください。何事も敬虔ですから。
ノウハウを今ひとつの角度から見るとそれは無数のツマミやスライダーやスイッチのある機器を考えてください。使わないツマミは忘れるんです。でもそれはじっちゅうはっく使わないのではなく使えない。使いこなせないわけ。
PS Vitaも使いこなせない機能はどんどん忘れていくのと一緒。使ってないとメンテナンスも疎かになって故障も早くなります。そうiphoneでもね。そうなると本当に必要なときもつかえなくなっちゃう。
必要に迫られマニュアル見て使おうとするも半分故障してるわ操作もぎこちないわでもういいやって投げ出してしまう。で、もっと乱暴な手段にでてしまう。優しい愛撫を放棄して荒々しい前戯になる。
それがノウハウということなんですよ。マニュアルが全てじゃない。マニュアルに書いてあるとおりやっても、故障してたり、うまく操作できなかったりする。そういう生身の現象を扱っているのですからよ。
柔らかく接していなければ全て無駄になるのが分かるでしょう。いくらマニュアルに繊細なこと書いてあっても、ユーザーが荒っぽい人だと草臥れ損の骨折り儲けですよ。、
逆に言うなら、柔らかければマニュアルに書いてないことも臨機応変に捌けるのです。これを頓知と言います。今日覚えて帰ってください。頓に(とみに)知る(しる)これ。
これを試すために面接官は突拍子もない質問をぶつけるのです。盤根錯節に遇いて利器を知る(後漢書)です。面白いことに柔らかさもまた諸行無常で、時々刻々とめまぐるしく変化してますよ。
柔らかいときに頓知が利くなら柔らかいときに得た学びを硬いときにも活用できれば擬似的に常時やわらかな対処できますね?これが一休さんのしくみです。ノウハウ特化型です。
エジソンのようにコツコツ煮詰めるタイプとはまた違う俊英なのです。ただ、忘れてはいけません才能とノウハウだけでなく努力もあるんです方程式に。
エジソンのような努力型はなんといっても積み重ねが凄いんです。積み重ねは何が凄いか分かります?継続は力なりと空念仏を唱えるだけでは全く何も分かっちゃいない。継続は何故力なのかメカニズムを理解してますか?
例えば、簡単のため受験生で毎日10時間、時速4ページで学んでいるとします。毎日40pです。で全国平均が20pとしますわな。分散が10p。そしたら40pやるだけで偏差値70なんです。分かります?
これは学力偏差値ではなくあくまでその日の努力偏差値です。でな?これを続けるとどうなると思う?40pを10日間続けるとどうなる?偏差値70のままだと思うそこのお前は統計学を分かってない。
偏差値70よりずっと上がるんだよ阿呆陀羅。これが継続の魔力その1なんです。つまり偏差値70の努力をする日を何日も続けていくと全体では偏差値75にも80にも、いやもっとそれ以上にもなりうるのです。
しかもじゃ、時速4pが慣れとともにスピーダップして時速6pや8pにもなるかもしれない。俺の過去の経験から言っても初日の2倍速なんて当たり前にありますねえ。その意味でも継続すれば努力偏差値は跳ね上がる。分かった?
ただこれは単純化した話。実際には努力にはバランスも必要です。アンバランスだといつかしわ寄せが来ます。バランスとりながらローテーション回していく計画性が必要です。
そこで先ほどのノウハウ型が不可欠なんですよ。努力しか眼中にないとここで頭打ちになる。伸びない原因は硬さにあった。チンポは硬くなると伸びるのにおかしいじゃないか。でもそれが現実。
結局バランスバランス言うけどその系の拘束条件がどんどん変わっているわけですから。マニュアル式に機械的にバランスをとろうなんざ甘いんです。ちゃんと直接指でソフトに触れないと駄目。
頭の硬い人ほど皮膚感覚をバカにするのはそういうわけ。努力とかそういうことは一切合切承知の助で忘れるくらいでないといけない。とにかくソフトに、ソフトに。休日などに数時間はまったりするとよいです。