はてなキーワード: 出会とは
驚くことに、世の中には食に全く興味がない人間ってものが存在するんだ
疲れたときに何か美味しいものが食べたいな、と思うのは人間共通の感覚だと思っていたが、そうじゃない人間もいるんだということを夫と出会ってから知った
朝から何も食べてなくて、あーお腹すいたーご飯どうしよう、何が食べたい?なんてときでも「別に何でもいい」A5ランクのお肉ですき焼をしても「うーん別に普通」という感想
食べ物なんてそんなにこだわらなくていい、玄米と味噌汁さえあれば生きていけるだろ、みたいなことを本気で言う
こういう人にこだわりの食材で作った料理を食べさせてはいけないし、何時間も並んでやっと手に入るような手土産を食べさせてはいけない
洒落た店での外食は友達や両親兄弟と行き、奮発して買った食材は1人で楽しんだ方がいい
この人は味覚がない人なんだな、何食べても同じなんだな、と割り切るしかない
年が明けた。もう30代半ば。婚活歴、長くなってきた。
「今年こそは」とか「今度こそ出会える」なんて、もう言いたくない。正直、言い飽きたし聞き飽きた。友達も家族も、言葉には出さないけど、心の中で「また?」って思ってるの、わかる。私だってそう思う。
でも、諦めたわけじゃない。むしろ、今年は違うんだって、自分で自分に言い聞かせてる。ただ、焦るのはやめる。今年は、「選ばれる」んじゃなくて、「選ぶ」年にする。
思えば、ずっと誰かに良く思われようとしてきた。プロフィール写真は奇跡の一枚を探して加工しまくり、趣味だって本当は興味ないけどウケが良さそうなものを並べた。会話だって、相手の好みに合わせて調子を合わせてた。でも、そんなことしても上手くいかないんだって、もう気付いた。
だから、今年はもっと自分を出す。好きなことを好きって言うし、苦手なことは苦手だと言う。背伸びしないで、そのままの自分でいい。そうじゃなきゃ、たとえ相手が見つかっても、続かないと思うから。
友達が去年結婚して、「結婚ってゴールじゃなくてスタートだよ」って言ってた。その言葉、最初は半分聞き流してたけど、今になって思う。自分を偽って結婚したら、スタートラインに立った時点で息切れしてるんじゃないかって。
だから、今年の抱負は「私を生きる」。自分を大事にする。誰かに合わせるんじゃなくて、私自身を選んでくれる人を探す。それが難しいこともわかってる。でも、今年はそれをちゃんとやりたい。
新年の空気は冷たくて、でもなんだか澄んでいる。未来に期待する自分がいることに気付く。きっと大丈夫。少なくとも、私はもう一歩踏み出してる。
男性34歳169cm64kg。
似ていると言われた有名人は、サンボマスターの山口、King Gnuの井口(髭かな?)、北朝鮮の金正恩(笑顔)。
再来年度、2年間の帯同不可の海外出張を予定(希望)しており、帰ってきたら37-8歳に。子供欲しいのに婚期逃す焦りがあり、活動したい。
例えば高学歴の人、アカデミズムの人、クリエイターの人、料理家の人……とかと出会ってみたいと思ったが、出会えるのか?職業や経歴でふるいにかけるのは悪手か?ふるいにかけたとて自分がふるいに耐える相応しい相手か?
一度オタク系相談所のオンライン相談を受けたことがあるが、なんというか生産者と消費者の場違い感を覚えてそっと閉じた。改めて地方にある大手の門を叩こうかと思うが、効率的な相談を行うにあたって準備は何をすべきか?フォーマルでクラシカルなマナーが嫌いならば相談所は避けるべきか?
結婚相談所に登録している人はある程度の金銭の余裕のある人、というスクリーニングはあるのか?
相談所に登録するにあたって、自分の理想とする人と出会えるのか?究極的には、素敵な人と出会うためにはどうすればよいか?そのために、どのような自己アピールをしていく戦略が望ましいか?相談所の人にいち早く自分のことを理解してもらうにはどうすれば良いか?
マッチングアプリも、当たり障りのない文章で書けばマッチングはするが、押しに弱いので疲弊する。マッチング数を最大化する戦略より少数精鋭を呼び寄せる戦略の方が良いか?例えばここに書くような文章をそのまま載せるくらい尖らせたほうが個性的な方とマッチする可能性あるだろうか?
ここには業者さんもいる気がするので、ぜひご助言いただければ幸いです。
以下蛇足
来歴
社会人なってから、ネトゲで知り合った1人と遠距離で一年半ほど付き合う。大人しい方で、天性の美声で可愛らしい方だった。私の優しいところが好きだったらしい。他の男と仲良くなっていくのを見て嫉妬したところフラれる。
その後マッチングアプリに登録。一カ月で20いいねくらい。10人くらいと会話。半数近くはすぐにドロップ。3人ほどとLINE交換、2人ほどと会う。
自販機の経理の方と食事、家で映画鑑賞2回。積極的なボディタッチがあり、奥手な私にはありがたかった。スタイルが素敵な人だった。仕事で困っていることを相談してくれて、マクロ組んで自動化できる方法を伝えたら喜んでくれて、頼られ甲斐があった。積極的なのは嬉しい反面、求められる時以外の私の意見が無いものとして扱われがちなことを徐々に認知したため、お祈り。
銀行の方と3回デートしたのち、5年ほど付き合う。ものすごい美人で、天然な受け答えが大変愛らしく、万人が好感持つのだろう、転職後もお客さんからよく貢がれてた。一方でこだわりが強く、宿舎引越し手続き終わった後に引越さない等、私は自分の職場の庶務担からブラックリスト入り予告される程度には我儘に振り回された。帯同不可の出張時に1人(と親)で子育てをどうするかでお互いの懸念点が払拭できず、別れることとなった。私の優しいところが好きだったらしい。
別れた後、再びマッチングアプリに登録。一ヶ月で20いいねくらい。5人ほどとやりとりをし、1人と会う。
福祉関係の方と食事のみ2回。積極的にコミュニケーションをとろうとしてくれて、私のしょうもない話でも笑ってくれる素敵な人だった。ものすごく落ち着いてて優しく丁寧な方だったが、少し読解力に不安があり、お祈り。
現在、マッチングする五大都市に出るまで5,6時間かかる僻地勤務なこともあり、4月の都市転勤まで活動休止することにする。
好奇心が強い。個性と呼べる程度には多分強い。したことないことなら法と健康の許す限りは一度はなんでもしてみたい。多様性信者。
自発的な行動力は弱い。だらしない。自分を律するのは苦手。他人のためなら頑張れる。
ASD傾向がおそらく強い。こだわりを自覚し、できる限りそれを崩す努力を重ねたい。意図せぬ心無い発言をしてしまい怒らせてしまうことが多々あった。2度目は繰り返さないように注意するが、基本性能がある程度ポンコツ。
年賀状などが非常に苦手。これで伝われ私の特性。準備して書けばいいだけなのに1ステップ1ステップできない。やるとなったらガッとやる。
ASD傾向といいつつも表情はどちらかというとある方かもしれない。笑顔が印象的らしい。不満がある時は眉間に寄せた皺によく指を当てられた。
政治思想は保守リベラル。安倍派や維新を憎んでいるが基本はてブでしか毒は吐かない。
ボケることが多い。ツッコミは下手。コミュニケーションはそれほど得意な方ではなく、慣れてはいないが、おそらく当たり障りのない感じ。慣れるとよくボケる。
課題解決能力は高めを自負。国総も受かったがノンキャリ志向(当時)で一般入り、専攻異なる異業種だったが関連学会入って一年で賞とれたりはした。
容姿や清潔感は自信がない。相手の好みに合わせたいが、ファッションセンスもないので指示待ちになる。それなりに無難かなと思うシャツを外界との接続用に用意してる。仕事は無個性なシャツとスラックス。
業務繁忙期には過食して太ったり、閑散期にはランニングして標準体型に戻ったりしてる。63-68kg。過去の推移は基本ふくよか。
半額惣菜大好きで守銭奴な傾向があるが、使う時は一気に使う。特に新しい体験(主に飯)と子には金かけたい。
マナーやエスコートが苦手。経験値不足を補う学習コストを払いたくないというバイアスもあるが、本心からやることなすこと素で行いたい(ASD…)。奢らないとか道路側歩かないとかそういうわけではないが、善意にタダ乗りしようとする人を避けたい。婚活はスーツでラウンジで、みたいな型は、楽なフォーマットではあるもののそれが相手の本性を隠す気がして、乗り気になれない。やってみたらやっぱそれが楽なのかもしれないが。
……不要な情報も多い気がするな。長文書いてしまう傾向あり。捨てられないタイプ。
求める相手
友人の奥様が、たわいのない会話から政治の話まで中立なのに中身のあるお話方をされてて、羨ましいと思った。
非常に雑な言い方をすると、頭の良い方とお付き合いしたいと思った。でも、ペーパーテストが苦手な人でもコミュニケーション能力が凄まじく高い方はいるし、無償の愛を注ぐ力がある方はもうそれだけで素敵すぎる。一方で、例えば医者とマッチングしたことあるが、お医者さんなんですねとコメントしたらレッテルで人を判断する差別主義者と罵られたことがあり、色々擦れてるんだなと同情しつつもこのような短気短絡は好ましく思わない。頭が良いの範疇が不明瞭だ。
何かしらの専門性に長ける方だと嬉しい。博物学でも、看護でも、イラストでも、ファッションでも、スポーツでも。何かしら誇りを持って極めている人、自分にはないものを持っている人は尊敬する。ただ、今までお付き合いした方々もみなそういった素敵なところがあり、基本、人は深く付き合ったらどこかしらそういうポイントが現れてくる気がする。このスクリーニングは機会損失を生むだけな気もする。
容姿にこだわりはないが、自分のことを棚に上げてばつが悪いが、健康であると嬉しい。
資産運用の価値観(結婚前の資産はお互いが好きに使う)が合う人、転勤族との結婚がOKな人は優先度高い。私がr>g教と心中するの許してくれると嬉しい。転勤については帯同・単身赴任の他に、リスク許容度に応じて転職も視野に入れたい。
子供できても夫を嫌いにならない人と結婚したいが、これは見分け方・結婚後の自分の身の振る舞いも含めてどうすればよいのか不明。
お金はあればあるだけ選択肢が増えるのである方と付き合えると少し嬉しいが、そのスクリーニングで機会を損失することは避けたい。
討論を嫌わない人だと嬉しい。私は父とよく討論をし、おかげで多少弁が身についたと喜んでるが、母からはよく煩わしいと怒られた。子供と真面目な話をするのをやめさせられると悲しいので、できればその辺りの価値観合う人だと嬉しい。……これはどうやったらスクリーニングできるんだろうか?
ゲームを一緒に遊べる人だと嬉しい。共通の趣味を過ごしたい。テレビゲームでもボードゲームでも探鳥でも温泉でも鑑賞でも。よかったらスプラトゥーンしたい。
ダジャレとか韻踏んだりとかシュールな自虐とかを笑ってくれる人だと嬉しい。……こういうのは求めるとは違うか。別にこの辺あわなくても他のところであえばそれでいいし、無言の時間を仲良く過ごせれたらそれの方がほんとに嬉しいし、結局は相性の話かもしれない。それは会って話をして探るものか。
優先順位がつけられていない。端的に表すなら私は何を求めているのだろうか?
「どうして」というのは「どうしておれは腰痛持ちなんだろう」というのと同じで、いろいろな要素がある。人体は微妙なバランスの上に成り立ってて、うまくいってる場合はいいけど、バランスが崩れることもあるよね。
脳内のこともホルモンのちょっとしたバランスの問題で、いわゆる幸福物質の出やすさが大きい。
彼女いない歴≒年齢の所感
・「おいしい?」って聞かれて「普通」みたいな相手が全然喜ばなさそうなリアクション返すことあるんだ。長く付き合ってるとそうなるのか?自分は人間はありのままで相手から受け入れられるほど、まともではないのでお互いの関係を長く良好に続けていくための弛まぬ努力がカップルには必要なのだろうと考えているんだけど、まあありのままの姿を見せられることがカップルの醍醐味なのかな…
・「お節に4000円払うか」といったお互いの金銭感覚とか価値観って普段行く店の相談とか日常の会話からなんとなく察せないもんなの?それがなくても「これでいい?」とか買う前に一応確認しない?
・お節に金を掛けるか否かは自由。人による。そこに正義も正解もない。私は全然掛ける派だけど、毎日牛丼食べてたって25歳ぐらいまで健康に生きられただろうし、人間としては必要最低限の栄養素さえ接種出来てれば何の問題もないから、金をかけてまで美味いものを必ずしも食う必要もなければ、興味をもたなくても特に不思議はない。
・自分と他人はまったく違う生き物だという認識が足りなくないですか?生きてきた環境も出会った人もかけられた言葉も食べてきたものも体の作りも何もかも違うんですよ?価値観や考え方が同じなわけなくない?自分の当たり前は他人にも当たり前だという考えは今日この場で捨てて彼氏との会話を通じて他者理解を深めた方がいいのでは。
https://anond.hatelabo.jp/20241231202037
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https://anond.hatelabo.jp/20241231202042
ここまで詳しく書いておいて創作なのか!と驚いた
今後はこのような増田でも釣りの可能性があると考えなければならない
特に、事実を元にした創作(聞いた話や、出会った誰かになりきって書かれたもの)ついては、見分ける術がないのでは、とすら思う
・話したいと思わせるような人を目指す。趣味や仕事の話題で引き出し増やす。つまり自分を磨く。
こういうこと意識してみたらどうだろう。
気が引ける気持ちとかすごくよくわかる。無理してそういう自分を変えるんじゃなく、今の延長上で波長合う人に出会えるといいね。
チー牛が高校時代にはじめて付き合った女の子と先っちょ入れるところまで行くが挿入する前に早漏炸裂させ、恥ずかしくて顔も会わせられなくなり自然消滅し、大人になってからまた仲良くなるもノロノロしてる間に10歳年上のジジイに女の子を寝取られ処女膜ブチ破られる悲しき話だ
やめてくれ・・・やめてくれ・・・直前で止まるだろ・・・願いながらページをめくったらジジイに挿入されててショックだった
チーは高校の頃はチーだったがその後女の子とやり直すことを夢見て努力して眼鏡を捨てオシャレになるも、一度眼鏡をかけたものは裸眼になろうともチーのカルマから逃げられなかった
女の子の前で「俺もう女なんか慣れてますけど?」ってフリをするもずっと童貞だった(先っちょをカウントしなければ)
チーが1ページぶち抜きで「どうせ童貞だよ」とモノローグして28歳にもなって泣きながら走るシーンは胸に響いた
女の子は高校時代はチーと戸建てのお隣さん同士だったが、親が戸建てから200m離れた場所のマンションの2階を買って転居
女の子が22歳の時に両親が事故死し、ローンはチャラになるが女の子は寂しさを抱える
チーはこっそり女の子を支えていたがこっそりすぎてあまり有り難みを感じてもらえず、タワマン2階から200メートル上の階に住む上級国民の金持ちジジイに女の子を寝取られてしまう
低層マンション民にはわからないが、管理費が2階は7千円でジジイの部屋は10万円とか差がありすぎなのってリアルでもそうなのか?
なんとかしてチーに勝ってほしい
チーの方が先に出会ったのに
膜を破ったのはジジイかもしれないが、チーの方が先っちょ入れるのは先で実質処女をもらったのはチーだ
作者はわりとチーのヘタレさを可愛がってる感じはあるのでチーが勝てる見込みは感じるが、ジジイと女の子が一から出会って恋仲が育まれるところを順を追って書いてるからジジイ勝利もありそうだ
読んでる途中で気づいたがこの作者「悪魔とラブソングを」の人なんだ
清純百合描いてた人が今や巨乳ヒロインの乳首を描いてるなんてギャップがエッチだ
ToLOVEるダークネスをいきなり読むよりも、先にBLACK CAT読んでる方が「あの作者エロに行ったのか」とびっくりしちゃう感じ
もう、ほんっとにイラつくのよ!この歳になってまで、なんで俺が女子力なんて気にしなきゃいけないのよ!でもね、世の中そういうもんなのよ。わかるでしょ?
40代だからって、オシャレしちゃいけないなんて誰が決めたのよ!俺だってね、美容院行って、髪型キメて、ネイルだってしちゃうわよ。そう、ネイル!文句ある?
それにね、スキンケアだってバッチリよ。朝晩の美容液、パック、日焼け止め。これ、手を抜いたら即効で老けるんだから。あんた、そんなの許せる?俺は絶対イヤよ!
料理だって頑張ってるのよ。インスタ映えする可愛いお弁当作って、職場で「キャー素敵!」って言われたいじゃない。でも、そんな俺を冷ややかな目で見る奴らがいるのよ。許せない!
でもね、こんな俺を理解してくれる人もいるの。そう、ゲイバーで出会った仲間たち。あそこでは誰も俺の女子力を笑わないの。むしろ褒めてくれるのよ。
だから言うわ。女子力なんて、性別関係ないのよ!俺は俺の道を行くわ。文句ある?あるなら、どーぞ。でも、その前に鏡見てみなさいよ。誰が一番輝いてるか、一目瞭然よ!
[B! 芸能] 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
知ったような口で語っているブクマカどもがいかに何もわからず書いているかを逐一反論を書いていくことにする。知ったような口ではない門外漢ブコメは今回の対象外とする。
勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にない”/この話に関連し、大会前に書いたこれを再度。⇒
> そもそも「ツッコミ」とか「ボケ」とかを、視聴者が普通に認識して番組名になっているのがおかしい。いや知ってるぐらいはまぁいいかもだけど、結局ボケもツッコミもバックステージにある(べき)ものでしょ?
べき論を正論として振りかざしたところでなんの意味もない。YouTuberがテレビに出るなとか声優がバラエティに出るなとか言ってるようなのと同様の自分の理想論を述べているだけ。
大枠同意で、この結果何が起きるかって言ったらネタ作りや審査のAI化、ひいてはお笑い業界のAI化の加速だよね。別にそれ自体が駄目とは思わないけど、M-1のコンセプト的にどうなのか
意味不明。記事内にもお笑いのAI化が進んでるなどという話は出ていないし世間でも言われていない。頭の中にあるAIという単語を出力しているだけ。
100点満点持ってるけど殆ど無意味。一人バグった審査員が100点と0点しか使わなかったらぶっ壊れる空気読み得点でしかない。素直に全組見てから各審査員ごとに順位つけて総合得点出すでよくねって思う
100点満点が無意味というのは同意するところだが、伊集院は競技化の先鋭化を批判しているのに対して競技化を追求しろと言っているのは謎。
"おかしな芸"をバラエティー向きと考えているのだろうか。トム・ブラウンはウケ量も勘案したら妥当な評価だろう。
マニアがジャンルを殺すってやつかな。M-1って競技になって最適化されててそれが令和ロマンの連覇に繋がったとかは言うけど。90点以上が連発した大会だったから2人くらい視点が違う人を入れないと点が揺れなさそう
「90点以上が連発した大会だった」という適当な印象論で最近の問題点みたいに語っているが、滑りに滑った2019ニューヨークに松本人志が82点をつけたように80点が事実上の基準となっている。ウケていると90点以上が出るのは例年通り。
「競技に最適化」というのが具体的になんなのかわかるのだろうか。"ボケ量を重ねて常に爆笑を取る漫才が強い"という状態になるとマニアがジャンルを殺すになるの理屈が全く紐づいていない。
敗者復活戦含め、年末の日曜日に7時間もテレビの前に座って漫才をひとつひとつちゃんと見ないと十分楽しめないコンテンツな時点で、振り落とされる人はかなりいる。「テレビの娯楽」としては末期なんじゃないかなぁ
漫才1本は4,5分なのだからそこだけ見ればいいのでは?スポーツ中継だって同じで、別に全体を把握せずに今映っている状況を見るものだ。
M-1が歴史になり権威になったからラパルフェが準々決勝でやった2019年M-1決勝のニューヨークのものまね漫才でお笑いオタクにバカウケして話題になった所はあるので
お笑いオタクにバカウケしたのは究極の内輪ウケだからであってM-1の権威とか関係ないでしょう。KOCのライスのネタをやられても俺は笑うと思う。
競技化して最適化していく過程でノウハウが蓄積されるのはジャンルでもそうだと思うけど、審査員が過去の経験者だと評価指標がM-1型に特化してしまって同調圧力で変なコンビを上げられないのはありそう
M-1で勝てるネタというのはM-1の場で客ウケを取るテクニックとかの話であって審査員の評価を稼ぐという話ではない。仮にそんな評価指標があったとしてもノンスタ、オードリー、ナイツの2008と現代のM-1は漫才の構成などかなり変わっているのだから全然話が繋がらないだろう。
この流れを作ったのが松本人志。意図した訳では無いが視聴者含めて皆それが正しい漫才の見方であると受け入れた結果、松本氏の作った箱庭の中で新しい笑いを語ってる
漫才を格闘技のような大会にして盛り上げようと提唱したのは島田紳助なのだが。今年の放送を見ていればわかるはずのことすら知らず適当なことを言っているこのブコメを知ったかぶり王としたい。
もはやプロじゃないと客が納得しないんだろうけど、芸人の登竜門じゃなくて漫才競技大会に寄って行ってるし、テレビ朝日が足抜けしてABCのみの関西ローカルになる未来もあると思う
漫才競技大会だったのが芸人の登竜門になっていったの間違い。芸人の登竜門として完成されたのは霜降り明星以降。2016の優勝コンビ知ってるか?あと、ABCお笑いグランプリって知ってるか?
大会順位に不満はない。ただ大衆娯楽として広い層に受けると言うのは大事だと思う。子供だったら基礎知識不要のトムブラウンとか、バッテリィズとかウケるだろうなと思ってたけど、審査にそう言う視点はなかったな。
ホストクラブのイメージを元にやってるトムブラウンと世界遺産の知識とか必要なバッテリィズが基礎知識不要って本気で言ってる?
THE Wのことも知らないような人は知らないだろうけど、THE WやR-1は飽きられる段階に達するほど盛り上がっていない。
身内が身内奨励する感の強いそれまでの漫才賞と一味違う、広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1の先鋭化は寂しいというか「普段漫才に関心ない層にもリーチできる」強みを捨て去る方向に進むのは惜しいなと思う
「広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1」ってなんですの。誰が優勝したときの話?
競技プログラミングは数学(アルゴリズム)力と実装力を競うジャンルであってプログラミングの競技化じゃねえんだよ。適当なことほざくなボケ。
まぁ令和ロマンもウケた量より技術面で評価されてたりするから先鋭化してるってのは分かる。単純に面白いと思ったかの視聴者投票でも良い気がする
ウケ量以外を加味されてるのはバッテリィズ2本目じゃあないの。2本目にウケが弱かったバッテリィズと2本目も強かった令和ロマンの構図だった。
同意。成り立ちが無名の発掘と才能がない人には区切りだったはず。M-1出身者ばかりという事は、他で花開かなかった人が審査員という事。身内ネタに過ぎないよね。連覇は既に名を馳せたはずの人が枠を奪う行為。
オードリー若林を他で花開かなかったとはおかしなことを言う人もおるもんで。
参入障壁が低いからついにエントリー数が1万を超えたですけどね。大会運営としてもアマチュアには専用の賞を置いたりしてアマチュアの参加に積極的。
高学歴が連覇ってのはまあそう言うことやろな…
学歴しか見ないコメントはこれしかなかった。この方向はヤフコメ民の方が強いのだろう。
ラパルフェがニューヨークの滑ったネタをやったことを言ってるのだろうか。
というかM-1じゃなくY-1なのが問題、審査員9人中6人が吉本(決勝の決勝令和ロマン5票中4票吉本からで非吉本審査員からは3人中1票、同じ事務所から2人以上審査員にするな
自分は予選会場の観客席の先鋭化が気になってる。観客のウケ具合が審査に少なからず影響が出るにもかかわらず、会場にはほぼ完全にお笑いマニアしかいない。
博多大吉が言ってた「予選は総合格闘技、本戦はプロレス」って言い得て妙だなと思う。今の審査員が総合格闘技だと思って審査してるのは危険
予選と決勝で戦いが別モノになってるといった話をできる人はきちんとわかっていそう。
映画や音楽ではそうでもないのにお笑いだと大衆受け原理主義者みたいな人がやたらと出てくるね / 今の自分にはまだ良さが分からないものに出会えるのが(お笑いに限らず)審査員方式のメリットだと思うのだけれど
この前オシャレ系カフェ入ったら見た目とかファッションとかランク上位のカップルが会話が聞こえてきた。明らかに余所余所しい話し方でマッチングアプリで出会ったばかりっぽかった。
会話も跡切れ跡切れでお互いに「この人とは合わないな」感が出てて聞いてるほうも辛かった…。
非モテだけが活用してるからマッチングアプリアプリの失敗談が溢れてると勘違いしてたけど、天上人の人達も出会いを求めて活用してるっぽい。しかも言わないだけでみんな失敗してる。
「マッチングアプリの攻略法」なんて考えないでマッチングアプリの出会い方自体を否定する方向で考えたほうがいいよ。マッチングアプリなんて良くない。
それでも時折、怒りを覚える。
なんでこの作品が受賞するんだよとか、百万部売れた有名な芥川賞作品は特定の障害をモチーフにしているようだが、作者は当事者じゃないっぽいし、こいつは「文化の盗用」ってやつじゃないのかとか、演技の下手な俳優が障害者を演じるとミンストレルショーみたいで馬鹿にしているようにしか見えないから個人的には当事者に演じてほしいが、キャンセルするのは表現の規制につながるし他人の自由は奪いたくない、だがクリエイターの良識に任せるのも信頼できないとか、そういえば文学賞を取ったあの作品に障害ネタを使われちまったなとか、女性視点男性視点とかそういうのには飽きたとか、まあいろいろと矛盾した感情を抱え込んでいて我ながら面倒くさい(関係ないけれど、イーロン・マスクは優れた才能を持っているのに好きになれないのは、きちんとした診断を受けていないのに自閉症だと公言しているからだ。彼の欠点が自閉症の持ち主全員に共通しているって思われたらどーすんだ)。とはいえ、他人に非難がましいことを言うのはあまり美しくはない(性癖について語っておいて今更美しいも何もあったもんではないが!)。
創作意欲がほぼ消えて以来、落ち着いた暮らしをしているのだが、それでもなお、時折作家になりたいと空想している(「何かを書きたい」ではないことに注意! カズオ・イシグロは、おのずと書いてしまう人が結果的に作家になってしまうという趣旨のことを書いている。まったくその通りだ。自分も心が折れる前は何もせずとも一日原稿用紙五枚書いていた。今となっては何も行動せずに空想しているに過ぎない)。
そして、書くことが思いつかず、こんな感想を書き散らしている。僕は中島敦「山月記」のように半ば虎になっている(他人の小説を批判ばかりしているくせに、今でも有隣堂や紀伊国屋書店で自分の書いた小説が平積みになっていることを空想することがある!)。
これだけ時間と愛情をかけても評価されなかったことで、文学そのものを嫌いになってしまいそうなほどだった。それに、文学という梯子でたどり着いた境地の先に行くには、一度梯子を捨てて距離を置かなければいけないのではないか?
自分が正気を保つためには創作や乱読が必要だったが、依存先を変えるときが来ているのではあるまいか? 感情や本能を爆発させる場所が変わったのか?(おそらく毎日日記を原稿用紙五枚分書いているのも、正気を保つ手段の一つな気がする)
それとも、これらすべてはただの思い出話、酔っぱらったおっさんが過去の栄光をいつまでも忘れられずに管を巻いているだけか。昔は甲子園に行ったけれども今は野球とは離れた人生を送っている、しかし酒を飲むといつまでもその話をやめないみたいな。とある文学賞の最終選考に複数回残ったという実績はあっても、たとえば最後の十人に選ばれたということでしかなく、受賞のためにはそこからさらに十分の一で選ばれねばならないのだ。
小説に関する愛憎をここまで書いてしまっては、自分が将来創作するのに役立てるであろう豊かな土壌を売り飛ばしてしまうことになり、小説という野菜が作れなくなるのではないかって気がしないでもないのだが(この比喩については私生活をそのままネタにすることへの批判を扱った沙村広明「シスタージェネレーター」所収「制服は脱げない」参照)、自分が愛しているジャンルは小説くらいで、それ以外のものがないとデビューも難しかろう。小説家は、物語を書かずにはいられない人間が、おのずとなってしまうものだが、小説について書く小説家の想いに共感できる読者は、まれな存在だ。小説以外に熱く語れるものが作家には必要だ。スポーツ、恋愛、仕事、サイエンス、なんでもいい。
じゃあ自分の障害について書いたっていいわけだが、そうやって毎日己の姿を見つめ続けて幸福になるかは疑わしい。モテない苦しみをはじめ、疎外感をネタにして創作をしていたころ、果たして幸福だっただろうか? 自分の負の感情を言語化し、現実的に対処するのには役立ったが、小説にするよりも、素直に現実を直視し、言語化していくほうが手間もかからない。それに、自分の気持ちを綴っただけでは文学にならない。自分の感情の垂れ流しの更に先に行かねばなるまい。
これだけ書き綴ってもなお、自分が抱えている欠落は何だろう。久しぶりにこれだけの長文を書きなぐって、何かが成仏してしまったような気もするが、一時的な緩解に過ぎないってこともありうる。ああ、ダメな人間がダメなまま存在することが許される話が読みたい。愚かさを包み込んでほしい。
これだけ「もう小説なんて読めない」とぼやき、「他人の人生について読んで何になるのだ!」と叫びながら、またいつか発作的に文学を読みたくなるに違いない。よくよく考えれば半年前に新人作家のを含めて小説をちょっとは読んでいたので、読める周期と読めない周期があるってだけかもわからない。
ここまで書いてきて思うのは、くやしいことにまだ文学に対する愛が残っているってことだ。憎んでいる対象に対して、ここまで語れるだろうか? 二十代や三十代のように文学にハマることはできないかもしれないが、またいずれ読めるようになるかもしれない。こうして、何が好きで何が嫌いかが言語化されたのはまちがいなく小説のおかげだし、自分の感受性を形作っているのは間違いなく乱読の結果だ。時々忘れてしまうけれども、これだけ語れるものがあるってことは間違いなく財産だってことはわかっている(映画はさほど見ていないことが若干のコンプレックスではあるものの!)。そしてそれゆえに出会ったサークルの友人もいるのは、間違いなく恵まれている。正規の文学教育を受けず、正当な読解の仕方がわかっていないが、友人を得られただけでも幸福だ。それがわかってきて、だんだんひがみも十年以上かけて薄れていった。
それに、まだ読んでいない「ハツカネズミと人間」をはじめとした名作だってある。ディケンズさえろくに読んでいない。フォークナーもほとんど読んじゃいない。これ以上体力が落ちる前に熱量のある物語に齧りついてやるべきだろうか。いや、再読すればいい。「百年の孤独」をはじめとして、楽しかったけれど細部を忘れてしまった作品が多い。これ以上新しい物語を読まなくても、再読の楽しみがある。
あるいは友人からのオススメを読んだっていい。フォークナーを勧めてくれた友人が教えてくれた阿部昭「大いなる日、司令の休暇」はマジでよかった。おかげで手が出ていなかった野坂昭如「火垂るの墓」が読めた。
(一方、ろくに本を読まずに芥川賞を取ったとうそぶいている作家もいるっちゃいるのだが、名前を忘れてしまった。こういう人を思い出すとプリプリしてしまうので忘れよう。芥川賞は通過点に過ぎない。受賞してから、継続して書けるかどうかが問題である。その点では、数年後にまだ書いている芥川賞作家のを読んでいけばいい気もする)
SFだってやっぱり好きだ。QUEEN「’39」を聞くと感傷的になるもの。理系で研究者になれなかった僕が、日本人の理系の青少年が夢をかなえるSF小説を読むのが、時々ひどく辛くなることはあるけれどね。
そして、嫌な面ばかり見て愚痴をこぼしながら暮らしていると、目の前の幸福を見過ごしてしまうことだろう。嫌なことはすべて過去のこととしてしまえばいい。忘れたほうがいい。そう、重い感情はすべてここに置いて行ってしまおう。すべてのひがみにさよならだ。楽しければそれでいい。ここに、十代から引きずってきた感傷マゾを捨て去ることを決意する。三十代、四十代の鑑賞態度を身につけよう。
今望むのは、他の増田にも池澤夏樹世界文学全集の感想を書いてもらうってことだ。全部じゃなくていい。好きな作品を一つだけでいい。いや、なんでもいいので愛する作品の感想文を読みたい。文学に対して持っている愛を、そして含まれていれば憎しみも、読みたいのである。世間がどう叩こうとも、時代が移り変わろうとも、自分の愛する作品は常に最高である。過去の作家は生まれた時代の偏った思想と社会という制約の中で最高の作品を著し、現代の作家はそれを批判的にしかし愛を込めて継承し、それ以上の高みを目指して己の作品を書く。たとえ古典には弁護できない箇所があったとしても、己のすべてを賭けて高みを表現しようとした黄金の精神は必ずや受け継がれる。作者を非難するのは下策、愛を込めた批判を含んだ評論を書くのは中策、それを超える次世代の作品を書き上げるのが上策である。加点法で評価しろ、好きな物で自分を語れ。言いたいのはそれだけだ。
ざっと振り返ってみたが、どの本も細部がかなり記憶から零れ落ちている。ほぼ記憶が頼りだから極めていい加減だ。アラフォーの文学少年崩れなのでしょうがない。そして、当時感じていたひがみ根性を思い出して少し苦しくなってしまった。欲望のコントロールに苦しんでいた若いころの感想なので、今になって読み返したらまるで違った感想を持つことだろう。知識も増えたし。
そのドロドロした感情の半分くらいは過去のものとなっている。近頃は心の闇が薄れてきた。これは加齢によるものだろう。読書の好みもすっかり変わってしまった。たぶん今読み返したら全然違う感想を持つはずだ。今となっては、モテない悲哀には昔ほど心が動かされないのではないか。
モテない怒りというのは、自分がプラスの感情を渡したのにそれが返ってこなかったというのが根っこにあるのだろう。しかし、相手の気持ちがどう動くかってのは相手の自由意思なので、こちらの意のままになるはずなんてない。任意の相手の心を開く万能の鍵なんてない。相手をコントロールしようとするのは無駄だ。それで相手に怒りを覚えてしまうのは、共感的に深く理解できるが、己のわがままでしかなく、こんなこだわりはどこかで捨ててしまわないと苦しい。
話を戻そう。前ほど心を動かされないと書いた。そのせいだろうか、読書量は変わらないが、小説を読む量も減った。
今の自分は、何を読んでも似たような感想になってしまう。結局、何を読んでも同じことを思い出すのではあるまいか。そして、前述の感想を見るとわかるように昔からそうだったのだが、自分の境遇に引き寄せてしまって無数の誤読をしているはずだ。結局は自分が、我がどうこうという意識から離れられない。
もしかしたら、凝り固まった大人になってしまったのかもしれない。過去のエントリから大して感想は進歩していない。そしていつの間にか、たとえば「女性作家とはこういうものだ」「この国のこの時代の文学はすべてこうだ」という、偏見に満ちた思想が自分の中でどんどん育っていっているのを感じる。気づいた範囲で修正してはいるものの、怖い。しかもこの半年ばかり、小説を読んでいない。
文学にすがらないと生きていけない段階を、幸福なことに脱したのかもしれない。どろどろとした感傷はすべて過去のものとなり、深い眠りについたようにも見える。それに、小説を読んで感情を揺さぶることが、メンタルヘルスに対してプラスなのかどうかも疑わしくなってきた。穏やかに、つらい出来事の起きないフィクションに移行したほうが、幸福なのかもしれない。クラークが「2001年宇宙の旅」で、最後に生き残ったデイヴィッド・ボーマンが一人ぼっちで音楽鑑賞をするのだが、オペラにうんざりしてクラシックしか聞けなくなり、最後はバッハにたどり着いたのを連想する。人間社会から離れた彼は悲劇の筋書きに対して、「常識を働かせれば解決策があるのでは?」みたいな感想を持ってしまう。そして、感情の激流であるヴェルディのレクイエムにひどく打ちのめされ、物静かで抽象的な音楽に向かうのだ。
それとも、文学は僕にとって生きていくうえで出会う出来事への予行演習だったのかもしれない。今、何気なく「予行演習」と書いたが、これはかなりしっくりする表現だ。振り返れば、若い人間が生きるとはどんなことなのか先が見通せず、答えを得ようとしていたようだ。起こりうる様々な不幸に備えて心の準備をしていたのだろう。
いや、少し矛盾している。何を読んでも似た感想になってしまうのは、モテたいという気持ちがあった若いころもそうだった。感情で消耗するのに、単に疲れているのかもしれない。感情を動かされるのを避けていて、知識をいたずらに溜め込むことしかしていない。最近は阿部勤也の中世の本や、ブルーバックスの地質学の本を読んでいる。これはこれで楽しい。
⑤で触れた「エタンプの預言者」みたいに、最近の海外文学のあらすじを読むと、文学と価値観の変化の速さに正直ついて行けなくなっているようだ。実感をもって何かを理解する間に、すべてがどんどん先に進んでしまう。おそらくこのエントリも古い価値観で書かれていることだろう。僕はもう世界には追い付けない。職場でコンプライアンス違反にならないように表面を糊塗することしかできない。文学を読んで正しく真っ当な人間になろうとしたが、結局はあらゆる欲望からは自由になれなかった。むしろ、意識の高さは自己批判を強め、心のバランスを崩すことになった(余談だが、東大の有名な総長がタフであれと何度も言っていたけれども、心身の障害でタフになれなかった僕は苦しかった。また、十数年後の新入生式辞でジェンダーギャップについて述べたこれまた高名な社会学者がいて、これはニュースにもなった。理屈はまったく正しいし、性別による不平等や扱いの違いは僕も大嫌いなのだが、一方で新入生に私怨から祝福ではなく呪詛を浴びせたように思ったし、自分がされて嫌だったことを次の世代にぶつけているだけではないかと感じた。そして、そのせいで「自分が入学できたのは性別が理由なのか?」と、ものすごく努力していたのにもかかわらず、重篤なインポスター症候群に悩まされることになった。愚痴は以上である)。
そもそも、なんで文学が好きになったのかを考えると、はじめは頭が良くなりたかったからなのだが、究極的にはそこに人間の愚かさが表現されているからだろう。そこにいれば自分のひがみっぽさや醜さを受け入れることができる。少なくとも同じくらい大きくてネガティブな感情を抱えた人間が世界にはたくさんいるのだと慰められる。ダメなところを許してくれるのが文学だった。そんなものを読んでいても、大人は何も言わない。
文学が読めなくなった文学少年崩れになっても、はてな匿名ダイアリーから離れられなかったのも、それが理由だ。人間の偽らざる感情が増田の怪文書にはある。
ところで、僕は障害者であり、二級の手帳を持っている(ただし、弱者だと名乗るつもりはさらさらない。うちの大学を卒業した連中の平均の給与の半分どころか三分の一ももらってはないだろうが、弱者男性とかブサメンとか非モテとかそんな看板を立てるのは正直に働いている自分のプライドが許さない)。加えて、海外在住経験がある。にもかかわらず、社会派の文学にはほとんど心が動かされなかった。その多くで感情よりも理屈が優先されているからだ。政治的な主張がしたければ、直接論理的に分析したほうがわかりやすいし、散文なら書く方も読むほうも時間が短くて済む。イデオロギーに縛られていては展開だって予測できてしまう。政治的な作品で面白いのは全体の一割だろう。最後まで読みたいだけの魅力が薄い。
余談になるが、そういう意味でも、現代アートで深く刺さる作品は少ない。知的には面白いと思っても、心を動かされ、性欲を刺激され、あるいは激しく嫌悪し、内臓が理屈を超えて震えるのが、僕にとっての芸術だ。一昔前の表現でいうと前なら左脳ではなく右脳が刺激されるような作品がいい。ルネサンスや近世の西洋画のように、シンボルを読解するのはそこまで心が動かされない(ごくごく一部の高度に知的な作品、持てる知識を総動員しないと面白くない作品を除く。これは全力で取り組まないといけないため、別の良さがある。ジョイスとか円城塔とかエーコとかね)。そして、優れているのに、言語化が困難なものの評価が一番高い。その点、マグリットの、言葉遊びによる対象の置き換えをモチーフにした作品はピンとこなかった。理詰めで説明がたやすいのは良くない。
もっとも、あらゆる芸術の九割はそもそも刺さらないというのは、普遍的法則である可能性がある。なんであれ、世間がどう言おうとも、作品を好きに読んで好きに解釈する自由は、失われてはならない。唯一の正統的な解釈があるのはつまらん。「丁寧に読解しろ」ってのならわかるけど、どんなものであれ上から押さえつけられるのは相手が正しくても嫌いだ。人間にはどんなに歪んでいても、そして不道徳であっても、正直な気持ちを話せる心理的安全性が担保された場所が必要だ。そして、相手が世間的に正しいとされていると、こちらは反論できないし、反論すること自体が批判される。だからキレて暴れるしかない。正しさへの嫌悪ってそういうことなんじゃなかろうか?
ときどき、「どんな理屈をこねるよりも、目の前の相手に敬意を払うにはどうすればいいのかという実践にのみ意味があるのでは? 知識は参考にしかならんのでは?」って疑念が兆す。それとも、こうなってしまったのは文学に対して心を閉ざしてしまったからだろうか? だから前ほど心が震えなくなってしまった。だとしたら寂しいことだ。
近頃、文学に対して心を閉ざしているとしたらなぜだろう? 政治の季節は理由ではない。他に理由がある。僕は実はかつては小説家になろうとしていた。名作に手を出していたのはそれも理由だ。最終選考まで行ったこともある。だが、その願いは叶いそうにないと気づき、怒りから小説から遠ざかった。
同じ夢を持っていた友人・知人がデビューするのも見てきている。現代作家を読まなかったのもそれが一因だ。自分のほうがいいものが書けると傲慢にも思いこんでいたからだ。彼らの作品を読むと、そんな思い上がりは雲散霧消するけれどね。
今でも、数か月に一度目を覚ます飢えがある。発作的に何かを書きたいという欲望だ(実際、こうやってちょっとした短編小説くらいの長さのエントリを書いていてすごく楽しい。じゃあ増田じゃなくてブログでやればいいんだろうが、少なくとも同レベルのエントリは継続的に書けない。なぜならこの文学全集を読むのに十数年かかっている。こういうネタは量産できない。このエントリでいったい何冊の本に言及してるんだ?)。
しかし、最終選考の講評ではボコボコに批判されたし、これ以上自分の気持ちを書いても自分は幸せにならないと、諦めがついたはずだった。それに、小説は感情の垂れ流しではありえない。読者を楽しませる必要がある。少なくとも読者の受けるであろう感情を計算せねばならない。加えて、デビューした友人はものすごいインプットをしている。これは認めないといけない。活字を読む量は僕のほうが多いが、それ以外に漫画だとかソシャゲだとかエロゲとか映画とか、とかくジャンルを超えて摂取しているものが多い。例えば現代の女子高生を魅力的に書くには、そのキャラがかわいいことと、リアルなティーンエイジャーとしてありそうかという軸がいるが、僕にはどちらもできない!
裏アカ夜職ADHD女同士が夜の店で出会って3ヶ月で破綻してLINE晒し合ってるの、社会の最底辺って感じですごくいい
しかもお互いが被害者面しつつも(女同士の揉め事はより被害者である方がより強者なので)うっすら相手を見下し合ってるの、最高に女しぐさでクソ笑える
数世代の女性たちの年代記であり、「百年の孤独」と対比されるんだけれど、こちらのほうがずっと読みやすい。ちなみにガルシア=マルケスはコロンビア人で、アジェンデはチリ人。
しかし、女性の物語としての記憶は薄れていて、覚えているのは暴君として君臨していた祖父エステバン・トゥルエバのことだ。彼が地元の女性を強姦して産ませた息子が、因果が回って彼の孫娘を強姦する。因果というか、悪い行いの結果って一番弱い立場の人に最悪のしわ寄せがくる。しかし、孫娘の嘆きや苦痛は強姦の苦しみの割にはごく短く語られている。
同じく、よしもとばなな「アルゼンチンババア」かなにかで、語り手がいとこに犯されそうになったことをさらりと書いているのだが(そして、そのいとことほとんど恐れもなく顔を合わせるのだが)、性暴力について文学でどう扱えばいいのかは自分はよくわからない。女性からセクハラされた僕だって迷う。性暴力を表現するときにどれくらい気をつかうかは、殺人事件よりも慎重になっている印象がある(それだけ殺人が稀になったってことかもしれない)。
書かなかったのか、書くことができなかったのか。アンソニー・ドーア「すべての見えない光」でも、ソ連兵に犯されたドイツ人女性がたくさん出てくるが、彼女たちが戦後どう生きたのかについては、わずかしか触れられない。
道徳的な理由で表現が規制されるのは、真実から目をそらすことになる気がするので好まない。一方で、当事者の声を無視しても結果的には良い物にはならない。このあたりは想像力の飛翔との兼ね合いでいつも居心地が悪くなる。「好きなように書かせろ」という書き手としての自分と、「当事者以外が勝手なことを書くんじゃないよ」と別の自分がいつも喧嘩している。
ブルース・チャトウィン「パタゴニア」を読むと、旅はいい、とため息が漏れる。何度だって書くが、紀行文はいい。定期的に読みたくなる。その土地にしかない暮らし、風土、それゆえに自分たちと異なった風習を持ち、理解しがたい態度を取る人々。航空機以前のように、数か月の旅を空想するのが好きだ。チャトゥインはオーストラリアを舞台にした「ソングライン」もある。アボリジニは他の文化の持ち主には見えない道をたどり、万物に名前を付けて大陸中を歩いてきたのだ。
カルロス・フエンテス「老いぼれグリンゴ」はあまり記憶していない。モデルとなったアンブローズ・ビアスの書いた「悪魔の辞典」はかなり好きなんだけどな。筒井康隆を始めいろんな翻訳があるのでオススメ。
フエンテスは短篇集「アウラ・純な魂」のほうがずっと面白かった。老いが迫る男、幼馴染のようにべったりした兄妹の別離、小さい頃に一緒に遊んであげた小さな女の子の末路、鏡のある真っ暗な部屋で魔術によって若さを保つ老婆、それから脱走兵が出てくる。
ミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」はかなり観念的な話だったと記憶している。文明と自然を対比させるために(?)読者に理解しやすいロビンソン・クルーソーとカオティックな行動をするフライデーが出てくるのだが、舞台はロビンソンが島そのものとの性交で子どもが生まれるという神話的な世界だった。これを読んだ後で、理解を深めるためにデフォーの原作を読んだのだが、記憶していたような絶海の孤島ではなく、近くに南米大陸がある島だった。そういえば子どものための抄訳版にも、近隣から人食い人種が攻めてくる描写があった。
M・G・ル・クレジオ「黄金探索者」は姉と弟の閉じた世界が壊れるというか、外部の世界を知るような話だったと記憶している。姉と不可分な存在となって、マダガスカルのサトウキビ畑を歩いていた場面があったはずだ。小さな子供の目から見た植民地世界の、どこかに宝物が埋まっているんじゃないかと期待しながらも、閉塞した記憶だ。ラストでは故郷も家族も恋人も黄金もすべて失い少年期が終わる。しかし、不思議と読後感が清々しいのはなぜだろう。まるで、すべてはここから本当に始まるのだ、という気分である。
ル・クレジオは難解な作品とそうでない作品の差が激しい。「海から来た少年」はまだわかりやすいんだけれども、太陽を見つめて意図的に盲目になる「大洪水」は二回読んだはずなんだがさっぱりわからなかった。
一時期ナボコフがすごく好きで、文学講義のシリーズも読んだんだよね。前のエントリで書いた「ロリータ」だけじゃなくて、ソ連から亡命した冴えない教授を主役にした「プニン」だとか、架空の国ゼンブラを舞台にした架空の詩と、それに対する真実か虚構かわからないような注釈が、見開きの右と左に分かれていた「青白い炎」だとか、そもそも実在する世界を舞台にしているかどうかさえ疑わしい兄妹の恋物語「アーダ」だとか、みんな好きだった。で、これらは英語で創作されているんだけれど、最後にロシア語で書いたのがこれ。詩人になるまでのお話。
難民のように食うや食わずではなかったけれども(そしてそのせいで政治的に過小評価されることもあるけれど)、ナボコフはやっぱり偉大な亡命作家の一人だ。でも、ユーモアを忘れていない。
で、本作では片想いをしている女性を思い浮かべながら、どの女性を見ても彼女のことを思い出し、彼女を連想できないタイプの女性には嫌悪を覚えたという趣旨のことを書いていて、ちょっとだけ分かるんだけれどひどいことを平気で言う作家だなと苦笑いをした。
フョードル・コンスタンチノヴィチに向かってうら若い、牛乳瓶を持った娘がやってきたが、彼女はどことなくジーナに似ていた。いや、より正確に言えば、この娘には、彼が多くの女性たちに見出しているある種の魅力――それは明確なものであると同時に、無意識的なものであった――ひとかけらが含まれていたのだ。そして、彼はその魅力の完璧なものをジーナの中に認めていた。だから、そういう女性たちは皆、ジーナとある種の神秘的な親族関係にあるということになるが、その関係について知っているのは彼一人だったのである。もっとも、その関係の具体的に言い表せと言われても、彼にはまったくできなかったけれど。(ただ、この親族関係の外にある女性たちを見ると、彼は病的な嫌悪感を覚えた)。
僕は基本的に豊かな知識を持ち、普通に文章を書くだけでその該博さがこぼれてしまうために、結果的にひけらかしと受け止められてしまう作家が割と好きで、一時期円城塔にもどっぷりハマっていた。一方で、「ロリータ」については、暇なときにパラパラとページを開いていると、語り手の身勝手さがだんだんと鼻につくようになってきた。ハンバート・ハンバートって、でっぷりしたおばさんを見て、「ニンフェットの美しい肢体を生き埋めにした棺桶だ」って趣旨のことを平気で言うんだもん。性格悪いよね。
とにかく、前は金に困っていない人間が、道徳を踏みにじっているのを美々しい文章で糊塗しているのが(当時は悪とは何か知りたかったし、悪いことをしている狂った人間の話が読みたかったし、知性を感じる文章が好きだった。そういう意味でも「悪」を扱った遠藤周作がすごく好きだった)面白くてしょうがなかったのだが、いまとなってはそこまででもなくなっており、自分の中で「ロリータ」の魅力が少しかすんできた。それとも僕が少女に心惹かれなくなっただけなのか。
なんにせよ猛烈な魅力を感じていたのにプツンと魔力が消えてしまうことはある。以前は三島由紀夫が大好きだったのに、「豊饒の海」を読む前に魔法が消えた。たとえば「潮騒」を読もうとしたら、彼の文章のリズムが心に響かず、全然読めなくなっていた。
少女と言えば、初めて「ロリータ」を読んでいた二十代の頃、一年に数回ほど発作的に年端もいかない少女に対する強烈な憧れが募っていた時期があったのだが、少女と知り合って仲良くなるプロセスを現実的に細かいところまで検討すると、真っ当な手段がどこにも存在しないと気づいて、途端にこうした欲望への嫌悪の情が浮かんび、緩解していった。それに、無知な相手を自分の利益のためだけに利用するのは邪悪の定義に当てはまってしまうしね。
おそらく、当時の自分が憧れていたのは現実の少女ではなく、思春期の頃に空想するような、成長の痛みや性の悩みに寄り添ってくれる同い年の少女で、その記憶を引きずっているに過ぎないのだ。つまり、幼馴染への憧れだ。そういう少女と思春期の頃に出会えるはずはないし、自分の問題は自分で解決しないといけない。そのうえ、よしんば実在したとしても、そんな少女とは「ノルウェイの森」のキズキと直子や、「海辺のカフカ」の佐伯さんと彼女の恋人のように閉じた関係になってしまうだろう。結局は、成長の痛みを引き受けないことによる歪みを必ずや生み出すだろう。そういう空想上の女の子は自分自身の鏡像、ユングのいうアニマで、つまるところこれは自己愛である。今はむしろ年上好きである。
(どうでもいいけどウィキペディアのロリコン写真集の記事、内容がやたらと詳しいんだがこれって倫理的にどうなのよ。誰かが興味持っちゃったらどうすんの)
ピンチョンはよくわからない。陰謀論をネタにしているんだろうが、直接扱ったエーコ「フーコーの振り子」のほうがエンタメとして好き。陰謀論的な思考をちゃんと茶化しているしね。個人的にはエーコが作中で既存の有名どころの陰謀論をすべて統合したオリジナルの壮大な陰謀論を作り上げているあたりがヤバい。あるいは架空史の仁木稔の「ミーチャ・ベリャーエフの子狐たち」か。困ったことに、これらの作品が発表されてから陰謀論はネタとして面白い物から現実の脅威となってしまっている。
エーコが楽しめてピンチョンにピンとこなかった理由を考えてみると、たぶん元ネタとなる知識をどれくらい知っていたかに尽きる気がする。自分はキリスト教やオカルティズム、カバラや魔術については多少わかるのだが、六十年代のアメリカのポップカルチャーや現代のエンタメには詳しくない。だが、この作品は実際、死をもたらすツボ押しマッサージが出てきて「あと何日でお前は死ぬ」みたいな「北斗神拳」っぽいネタを扱っている。なんせこの爆弾を埋め込まれるのが日本人サラリーマンなのだ。
文庫本にして三冊の本を無理やり一冊に押し込んで、小さな活字二段組みなので読むのがしんどいし、「早く読み終えなきゃ」って焦ってしまった覚えがある。馬の生首のシーンが有名だよね。
三歳で成長するのをやめたダンツィヒ回廊生まれの少年が主人公の癖に、義母を寝取って子どもを産ませているんだから、とんでもない話だ。純粋無垢なままでいるために三歳よりも大きくなるのをやめた話と思わせて、実は様々な女性と恋愛遍歴をしている。家族が次々と殺されて行ってもね。
そういえば、さっきモテる奴の話を読んで何が面白いのかと書いたけれども、舞台が現代日本でなければ別世界のファンタジーとして享受できるらしい。幼馴染のロマンスだって、別の国や時代が舞台ならまだ受け入れられる。たとえばロンゴス「ダフニスとクロエ」だけじゃなくてコレット「青い麦」も割と好き。どっちも少年側が人妻に性の手ほどきを受けるので、これで多少性癖が歪んだ気がする。村上春樹「海辺のカフカ」と合わせておねショタに目覚めてしまった。あと、青春物があまり好きじゃないのに、「十三機兵防衛圏」はプレイできているの、あれが一つは君と僕みたいだけみたいな閉じた雰囲気じゃなく、感傷ダダ洩れの地の文章が無く、群像劇だからってのもある気がする。
話を戻す。うじうじしているくせに、本当はモテることにすごく憧れているただ。だが、十五分の自慰行為のあいだならエロ漫画の主人公と同一化できるかもしれないけれど、数時間かけて読む文学では自己同一化の魔法は解けてしまう。細かい設定があるのだから、自分との差異がどんどん強調される。自分は到底なれそうにもない、かっこいいキャラがモテても、ちっとも面白くないのである。しかしこんな話を聞かされる読者も面白くないだろうしこのあたりで切り上げる。小説のダメな人間、僕が先に好きだったのにという人間にならなんとか自己同一化できたのである(余談だが、かつての週刊誌の中づり広告のようなエロス無法地帯のウェブ広告で「カラミざかり」が出てきたとき、主人公の来ている服のロゴに「cuckold」と書いてあったが、これは英語で「寝取られ男」という意味である。そういう芸の細かいところ、わかる人にはわかる小ネタは好きよ)。
少し現実的に考えてみれば、滅茶苦茶にモテて複数の女性から同時に交際を求められたら、しかも好みの相手でなければ、それはそれで面倒そうなのであるが、嫉妬と羨望に狂っているさなかにはそれはわからない。同じく、浅ましいことに3Pとかも憧れるけれど、よしんばそんな機会が訪れたとして、絶対気をつかうし面倒くさい。自分が手に入れられなかったものは理想化されて頭の中で猛烈な輝きを持つが、一度頭を冷やしてみよう。
続く。
ここ1カ月婚活してみて虚しさがすごい。
何人かに会って連絡先を交換しても相手にあまり興味が沸かない。
休みの日に積極的に会ったりとか、平日仕事終わりに話したいとか、そういう前向きな感情が湧いてこない。
年末に久しぶりに高校の同級生と会って結婚式の写真を見た時に「婚活辞めよう」と心が固まった。
写真の中の友達夫妻は幸せそうで雰囲気も似ていて、家族計画の話や両家の年末年始の交流の話を聞かされていて惨めな気持ちになった。
彼らは自然の流れで若い頃に出会って同じものにふれて似たような価値観を形成して結婚までたどり着いていて、結婚も通過点のような扱いなのだ。
自分は価値観が出来上がった人間同士受け入れ合うことから始める結婚をゴールにした活動をしていて、結婚のその先を考える余裕がないのが恥ずかしかった。
婚活の現場ではお互いが損得勘定で動いていて、学生時代に出会った人間同士ならかけられたはずの思いやりや自己犠牲の感情がお互いに欠落している。
シゴデキっぽく書き連ねてるけどプラスになるわけじゃなくて全部マイナスをゼロに持っていくためだけの作業なんよね…
ここまで努力してようやく普通に出会って恋愛・結婚してる一般人と同じスタートラインに立てるのだと思うと持って生まれたものの違いって残酷だ
問題なのは義妹の歴代彼氏がみんなそういう人だという事で、歴代彼氏達はみんな短期間のうちに義妹から見切りをつけられているということだ。
義妹は何故彼氏たちと長続きしないんだろうと昔は不思議だったのだが、そうか、旺盛なお客様精神を彼氏という身近な相手にも発揮して辛すぎるジャッジをしているんだろうなと今は思う。
義家族は全員他人に対して謎に傲慢で、いつも他人にカスハラみたいなジャッジをしまくっている。そんな一家の中でお義父さんだけが違っていて、逆にサービス精神が服を着て歩いている様な人だった。家族の為にいろんなイベントを企画実行する人だったのだが、それを外に囲っている愛人とその子どもにもやっていた。
外に愛人を1人かそれ以上作っていたというのはさて置いて、お義父さんがやたら家族サービスをするからか、その他家族は全員他人に良きにはからって貰うことが当たり前として染み付いているので、家族外の人と接する時はまあ酷い。皆で外食する時など最悪である。ちょっと気に入らない事があったり店の従業員がミスしたりすると家族一丸となってカスハラを行うからだ。普通に話せばいい場面で一々ド派手に喧嘩腰。お義父さん亡き今は私が家族の行き過ぎた言動についての謝罪担当になっている。
そんな義家族の一員なので、義妹は彼氏にちょっと期待外れな事があるともういい要らないってなるのだろうし、出会った当初は持ち前の笑いの沸点の低さで彼氏のやること為すことを面白がり彼氏に喜ばせ甲斐を与えハッピーな気持ちにさせるが、飽きると一気に塩対応になり彼を激しく凹ませるんだろうなと思う。
義妹の今度の彼氏はそれでも結婚まで漕ぎ着けたわけだがまだ2年するかしないかくらいしか付き合いがないわけで、既に義妹の対応は塩だがいつまで保つだろうか。