はてなキーワード: 意図とは
30代の兵庫県民です。
昨年の知事選挙や最近の元県議が亡くなった件で思うことがあり、どこかに放出して気持ちを落ち着かせたいので、記事を作成します。
コメント荒れそうなら投げっぱなしになるかも。ごめん。クソデカひとり言だと思ってほしい。
・パワハラ、公益通報問題は(真相が分からない為)判断材料にできないため投票先を選ぶ根拠にしなかった
・高額な物のおねだりは前からあったしなあ
・それはそれとして堂々と人の権利を踏み躙ることの意味を考えない奴は嫌(それを容認する社会になることを意味するから)
・有権者に与えられた「公務員を選ぶ権利」を妨害していると言って相違無かったあの選挙戦で実質チーム組んでるような候補は論外
→S氏に通って欲しくないのでI氏に投票。
結果はご存知の通り。
暫く人間不信になりました。その辺歩いてる人の4人に1人が「『俺は悪くない。集団でハメられたんだ』と言う加害者疑惑のある人」の言うことをそのまま信じるタイプなんだと思うと。
そんなわけで改めて投票した兵庫県民が何を考えているのかぼんやり考えていました。思考の傾向は兵庫県民に限ったことじゃないかも。
■思っているより自分や他人の権利を踏み躙られても何とも思わない人が多いのかもしれない
言い換えれば殴られているのが自分じゃなきゃどうでもいい人がいる。
権利に敏感な人間はパワハラ加害者疑惑のある人間が陰謀論を展開したところでそのまま信じないかと思う。
選挙戦やポスターを見ていて「現在進行形で兵庫県民の『公務員を選ぶ権利』が妨害されているな」と思ったが、同時に当選するとは思っていなかった。仮に再当選したとしても、こんな力づくの状態で当選したら他候補に投票した有権者は納得しないし、職員との関係も0どころかマイナスからのスタートになる。トータルで県民にとって良いことが無いと思った。
また、「法律に記載されていないから」という理由で人の権利を踏み荒らし、その状態を許容した先にどのような未来が来るのか想像する能力が無く(或いは問題ないと思っており)、自分が受益者になって何とも思わない人間は、この先何度でも同じことをするということは目に見えているし、その態度から「パワハラ気質」ということも薄っすら真実味を感じた。
蓋を開けたら同じような考えの人間は多くなかったわけですが(誰が知事になっても同じだと思っているだけかもしれないけど)、
思い返せば人を踏み躙っても何とも思わないタイプの人間、結構いるんだろうな、とも思った。
約20年前、私は私立中学受験のために某塾の街まで塾通いをしていました。
当時の私が通っていた塾は、一番上のクラスになると机が毎回の小テストの成績順になり、上位成績者は誉めそやし、下位成績者はクラスの誰もが馬鹿にしていい存在でした。特定の誰かを生贄にして、他に競わせることが講師主導で行われていました。それが所謂ブラック企業と同じ方式であることを知ったのは卒業後です。(私が卒業した後、生徒が精神科行きになり多少マシになったようですが)
しかしその街では全員が中学受験の塾に通っており、公立の学校でも成績至上主義でした。下位成績者の待遇が悪いのは当たり前です。よく「アホには人権ないねん」と言われていました。
また、
・難関校進学後、友人に将来の夢は獣医だと言ったら鼻で笑われた
・「○○(一番の難関校)に行ったら人格が歪むからあそこは進学を許さない」と言われる学校がある
・消しゴムが転がってきたら遠くに蹴り飛ばせ
という話もありました。間接的に聞いたことも、直接言われたこともあります。
受験のため小さい頃(特に小3くらい通わされている子)から「人を蹴り落とすことは正義」「自分より下の奴には多少なら何をしても無罪」「馬鹿なのはサボってるだけ」という価値観を刷り込まれた子を多く見てきました。
小4から通い始めた子はまだマシなのですが、受験対策を初期の初期から始める家庭の子はほぼ洗脳に近い状態だった印象があります。「他の子が遊んでいる間勉強させられていた」「だから何らかの恩恵が無いとおかしい」というある種の復讐なのかもしれません。
中学までに外れた倫理観を、以降の人生で矯正される機会はどれほどあるでしょうか。
思い浮かぶのは、
②友人から諭される
くらいでしょうか。
先生からの指導はあるかもしれない。ただどれほどその子が素直に受け取れるかにかかっている感は否めない。成績優秀な子ならその場限り取り繕うことは可能。
強いて言えば就職後や大学時代のバイト先雇用主が指導してくれるかも
②友人からの指摘
それなりに親しい友人ならしてくれるでしょうが、先述の塾のような環境で受験戦争に勝利した子の集まりに、どれほど「それはおかしい」と言える子がいるでしょうか。
もちろん、塾に通わずとも合格するような子はいると思うけど、その子も人格者だとは限らない。そもそもわざわざ倫理観を指導する理由もない
本、映画、その他から倫理観を学ぶのはあるかな。私の学生時代はまだオタクが若干迫害されていたのでもう10年後くらいなら……?
ただ物語に影響されて自分の行動を変えるタイプもそう多くない気がしている。
そこそこ倫理観が強制される可能性はあるけど、環境の影響が大きいので同じようなタイプの人間が周囲に固まっていたら望み薄な気がしてきました。
特に中学受験→難関大学ルートは費用もかかるので親も競争に勝ってきた人間が大半かと思う。
■必ずしも「勉強ができない」=「努力不足」というわけではない
ということを認識できずに育つ(育ってきた)人間が一定数いると思う。有名人とかでもたまに「ああこのタイプなんだな」と思う発言があるので兵庫に限ったことじゃないと思うけど。
特に中学受験をして、そのまま難関大に入った人間の世界に、どれだけの種類の背景を持つ人間が現れるだろう。
少なくとも勉強がしたいけど授業料を出してもらえなくて塾に行けなかった子や、家庭内DVでそれどころではない子などは一瞬たりとも視界に入らない。
よく「金が無いなら奨学金借りれば?」という話を聞くがそれも親の同意がある前提の上に成り立っている。恵まれている自覚が無いというか、「恵まれてないとは何か知らない」ような印象。
性質が悪いのは情報を自ら取捨選択できるインターネットが身近になったことで自分が「世界の全てを見ている」ような誤解をしている人間が増えている印象がある。インターネットに上がってる情報は誰かがインターネットに上げた情報だけやで。Xのオススメとか興味に沿って内容をカスタムするので猶更……
問題を解く能力は無いが他の才能があることは往々にしてある。それを生かせる仕事に就けばいい。職業選択の自由があるのだから、特定の職業が見下されるいわれは無い。
もしかしたら、兵庫県職員のことも同じように見下していて、どれほど踏みつけてもいいだろうと思っている有権者もいたのかもしれない。(「あれは陰謀」という論調があるようですが一方の論調をそのまま信じるのは、やはり軽視しているように思う。「もし自分の身に起こったことなら」と考えたことがありますか?)
兵庫県民の選ぶ社会はそのような価値観にあっていいのだろうか。私はイヤだ。
色々倫理観について考えたけど、まあいいんですよ倫理観が無くても。
人間の数だけ価値観があるわけだし、営業とかまともな倫理観してたら仕事に影響しそうだし。(営業が苦手な理由これかもしれない)
ただ他人が殴られてるの見た時に「次は自分かもしれない」という考えは持ってほしいし、
インターネットで情報収集するとしても「どんな立場の人間がどのような意図で発信しているのか」「その上でどんな社会にしたいか」を考えて投票してほしい。
その上でS氏支持なら何も言わない。顔や判官贔屓の投票はやめてほしい(とここで言ったところで何も変わらないのでこれはただの悲鳴)
投票から将来が不安になったし、ついでに周囲の人間も信用できなくなった。この人たち自分の権利を侵されていても何とも思わないんだ……
維新に兵庫県を今後4年でどれくらいメチャクチャにされるのかとか、
色々な人間に精神が壊れるまで嫌がらせをする連中が支持する勢力をこのまま許容すると今後何度でも同様の攻撃が行われて、その勢力の都合のいいように税金を使われる奴隷と化すんだろうなとか、
北米の大火事の経緯を見て同じように2022年に防災予算を切ったS氏のいる地域としては他人事には思えないなとか、
じゃあその矛盾した文章がどういう意図の文章なのかAIに聞いてきなよ
適当にはぐらかされるだけだぞ
「ちゃんと質問すれば」の「ちゃんと」ができてないから笑ってるんだよ
わかれ
やったぞ。以下chatgpt 4oとのやりとり。
質問文:
LLMの応答性能についての会話で、「LLMは嘘やいい加減なことを出力する」という主張に対して「質問の仕方が悪いんじゃない?もちろんハルシネーションはあるけど」という応答がありました。「質問の仕方」と「ハルシネーションはある」の関係について、応答部分の意図を解説してください。
回答:
この応答には、「質問の仕方」と「LLMのハルシネーション(事実と異なる出力)」との間に潜在的な関連があることを指摘しています。以下に、その意図を解説します:
1. 「質問の仕方が悪いんじゃない?」
この部分は、ユーザーの質問の構造や内容がLLMの応答に影響を与える可能性を示唆しています。具体的には、以下のような意図があります:
曖昧な質問: 質問が不明確で曖昧な場合、LLMは文脈や意図を推測して応答することになりますが、その推測が間違っている場合があります。
不正確な質問: 質問自体に誤った情報が含まれている場合、LLMがそれを前提として応答を生成し、誤解を広げる結果になる可能性があります。
過度に広い質問: 質問が広すぎると、LLMは関連性の高い情報を特定できず、結果としてハルシネーションが発生することがあります。
つまり、この指摘は、LLMを正しく活用するためには、明確で具体的な質問をする必要があるという点を強調しています。
ここでは、LLMに固有の課題としてハルシネーションの存在を認めています。この部分には以下のような意図があります:
LLMの限界を認識する姿勢: 「質問の仕方が悪い」という指摘がある一方で、ハルシネーションはLLMの基本的な課題であり、ユーザーの質問が完全に正確であっても誤った応答を生成する可能性があることを認めています。
LLMの責任を明確にする: ハルシネーションが完全にユーザーの責任ではなく、モデルの性能や学習データにも起因することを示しています。
この応答の意図は、「質問の仕方」と「ハルシネーション」は相互に関連していることを伝えることにあります。具体的には:
明確で具体的な質問をすることで、LLMが文脈を誤解したり、誤った推測をする可能性を減らすことができます。
一方で、どれだけ質問が適切であっても、モデル自体の限界によるハルシネーションは完全には防げない、というバランスを理解する必要があります。
この応答は、「LLMのハルシネーションを減らすために、質問の仕方を工夫することが重要だが、それだけでは限界がある」という現実を認識しつつ、ユーザーに対してLLMを適切に使いこなす方法を考えさせる意図を持っています。
じゃあその矛盾した文章がどういう意図の文章なのかAIに聞いてきなよ
適当にはぐらかされるだけだぞ
「ちゃんと質問すれば」の「ちゃんと」ができてないから笑ってるんだよ
わかれ
「ポテトの量が少ないのは、あれこそモスの良心。 その意味は自分でよく考えてみなさい。 どうしてもその意味がわからなければ知恵袋で質問なさい。」
この発言は、一見すると矛盾しているように思えますね。しかし、この発言の背景には、モスバーガーに対するある種の「愛」や「こだわり」が感じられます。
* ポテトの量が少ないことへの肯定的な捉え方: この発言をした人は、モスバーガーのポテトの量が他のファーストフード店に比べて少ないことを、むしろ良いことだと考えている可能性があります。
* 自分で考えることの大切さ: 単純に答えを与えるのではなく、自分で考えて結論を出すことを促しています。これは、発言者自身がモスバーガーについて深く考えていることを示唆しているかもしれません。
* 知恵袋への誘導: もし自分で答えが出ない場合は、知恵袋で質問することを勧めています。これは、他の人の意見も参考にしながら考えてほしいという意図があると考えられます。
考えられる解釈
* ポテトの質へのこだわり: ポテトの量よりも、質を重視しているという考えです。少ない量でも、厳選された素材を使って丁寧に作られたポテトの方が美味しい、という価値観を持っているのかもしれません。
* 健康への配慮: ポテトは高カロリーな食品なので、あえて量を少なくすることで、お客さんの健康を考えたメニューを提供しているという見方です。
* 環境への配慮: 食材の無駄をなくし、環境に配慮したメニュー作りをしているという解釈もできます。
* ブランドイメージの確立: ポテトの量が少ないことで、モスバーガーは他のファーストフード店とは異なる、独自のブランドイメージを確立しているのかもしれません。
まとめ
この発言は、モスバーガーのポテトの量が少ないことを、単なる事実として捉えるのではなく、様々な角度から考えてほしいというメッセージです。発言者の個人的な意見や価値観が反映されているため、一概に「これが正解」という答えはありません。
* モスバーガーのポテトは、他のファーストフード店に比べて量が少ないということが、昔から話題になっていたのかもしれません。
* 発言者は、この話題について独自の考えを持っていて、それを共有したいと思ったのかもしれません。
あなたの考えは?
この発言について、あなたはどう思いますか?上記の解釈以外にも、様々な考え方が考えられます。ぜひ、ご自身の意見を聞かせてください。
補足
* この発言は、あくまで個人的な見解であり、モスバーガー公式の立場を表すものではありません。
* ポテトの量が少ないことが、モスバーガーを選ぶ理由の一つになっている人もいるかもしれません。
より深い議論のために
* モスバーガーのポテトの量について、他の人の意見を聞いてみましょう。
元グラフィックデザイナーでもいい。
なんなら私もそうだし、そういう他人にリアルで会ったこともある。意外といるんじゃないかと思ってる。
リアルで会った人には言わないけど、(元含め)デザイナーで創作活動やってる人って「デザインするためのコンテンツを作りたくてやってんのか、本当に創作したくてやってのか」が如実にわかる。
デザイナーって本業以外で創作活動したがる人も多いけど、実際に他者からデザイン依頼を受け続けられる人はそう多くない。
私もその一人だった、
だから自らが創作活動主になることで、自分の活動に必要なデザインを自分でデザインして諸々の欲を満たしていた。
でもそういう目的だと、デザインだけやたら頑張った中身がペラッペラで死ぬほどつまらない創作になるパターンがちょいちょいある。
誤解を恐れず言えば、デザイナーって中身がないんだよね。他人のデザインばっかしてんだもん。
よく「デザイナーは相手の意図や気持ちを汲み取るのが大事」とかいっても、他人の熱意まで毎回ちゃんと受け止められてんのかって話で。
だから自分で自分の創作活動のデザインをするってなったときに、主従関係が逆転して「デザインばかり頑張ってる中身ペラクソの何か」が出来上がる。
デザイナーはデザインオタクだから、良くも悪くもデザインしか見てない。見れていない。
批判したいんじゃなくて、気持ちがわかる故にその痛さが伝わってくる。
あと、昔デザイナーやってた宣言する人をYoutuberなどでも見かけるようになった。
「昔美容師やってた」とかなら人前で切ることもないだろうけど、デザイナーやってたとなるとロゴからグッズまでチェックされる。
字詰めとか0.00ミリの世界でどうこう言わないけど、ロゴで気持ち悪い隙間作っておいて「昔デザイナーでした」は草でしかない。
「
2. 「どうするつもりでいるの?」
3. 「マジで逃げないでこれを見た人全員答えてみて」
この文章の主語は 「これを見た人全員」 です。つまり、あなた自身が答えることを前提としていません。あなたは「叩いていた側の人間」ではなく、その人たちに向けて問いかけているだけなので、「お前も答えろ」という指摘は的外れです。
次に、「増田、自分でこう言ってんのよ。」と指摘した人の誤解は、あなた自身が「答えるべき立場」にいると勝手に解釈したことにあります。しかし、文章全体の流れを見ると、あなたは「特定の人々」に向けて問いかけており、自分がその対象者であるとは書いていません。
したがって、「言ってる人達にって文脈で普通に成り立つし、そういう意図で書いてるよ」というあなたの返答は筋が通っています。
相手が「いや、お前も含まれてるだろ」と主張するなら、逆に「では、どの部分で俺自身が対象者だと読み取れるのか?」と問い返せばいいでしょう。文脈的に「対象者」ではないことを示せれば、あなたの論理の正しさが明確になります。
」
・はじめに
今回の記事は特定の国や人種を差別する意図は一切ありません。実際の出来事を元にSNS上での誹謗中傷や荒らし行為がもたらす影響について考察、教訓を共有する目的で執筆したものです。
【eスポーツ界の影!!!VALORANTで見えた荒らしコメントの裏側】
最近話題のeスポーツ。その中でも、FPS(ファーストパーソンシューティング)の人気タイトル「VALORANT」は、2022年に日本のZETA Divisionが世界大会で堂々の3位に輝いたことで、日本国内での人気がさらに急上昇しました。
だが、人気になると同時にチームや選手への誹謗中傷が増え始めた。チャット欄は国際戦で日本チームが負けると「日本は弱い」「外国人傭兵がいないと勝てない」といったような所謂荒らしコメントのような物が頻発ようになった。
きっかけは些細な事であった。VALORANTの大会で日本のチームが劣勢になると毎度おなじみのように「日本は弱い」という荒らしコメントが流れてきた。またいつもように変な奴が暴れているな、と冷たい目で見ているとそのユーザーはアカウントのリンク先にSNSのリンクを貼っていたのである。私は興味本位でSNS はリンクをクリックしてみた。すると驚きの光景が広がっていました。
そのアカウントは誹謗中傷した人間の個人情報が余す所なく載っていたのである。
SNSのユーザー名は荒らしていたチャット名とほぼ変えていなかった。そしてそのSNSには個人情報がびっしり。驚いた事に自撮りの写真を堂々と加工もせずにSNSにアップして背景からどの大学に所属しているのかすら簡単に特定できる状態でした。さらに、投稿内容を調べると以下のような情報が浮かび上がりった。そのSNSの情報をまとめると
・いわゆるチー牛顔
などが確認された。
私は思った「「なんでそんなに日本が嫌いなのに日本に来てるの!?!?」
【教訓】
今回荒らし相手を特定してみて現代のSNSではどこの誰か発信しているのかも分からない誹謗中傷をストレートに受け取ってししまう様なことは人生の浪費にすらならないという教訓を得た。SNSで飛び交う誹謗中傷の多くは、顔の見えない誰かの無責任な発言である。そんなものに感情を振り回されるのは時間の無駄。自分の人生を豊かにするために、くだらないコメントはスルーするのが一番だと痛感した。
世界中のメディアがイーロン・マスクを天才経営者として讃えるたび、心の奥底に沸き起こるのは猛烈な反発心だ。彼の壮大なビジョンや野心的な計画がもたらすインパクトは計り知れない。電気自動車での革新、宇宙事業への投資、さらにはSNSプラットフォームを買収して世界の言論空間を一変させようとする姿勢――どれをとっても、彼が稀有な才能を持つリーダーであることは否定できないだろう。しかし、その裏側には、人を顧みない強引さや、誰もが乗り気でない環境を一方的に変革しようとする独善性が垣間見える。彼は常に「未来を創る」と言うが、その方法に正当性はあるのか。私は強い疑問を抱かずにはいられない。
特に、彼がSNS上で見せる軽率な発言は、私の中にある嫌悪感をさらに増幅させる。刺激的なツイートで株価や暗号通貨の相場を乱高下させ、批判者を嘲笑し、炎上を煽るかのような行動を繰り返す姿は、リーダーというより権力を得た“トリックスター”のようだ。彼の言動を追いかける投資家や支持者は多く、SNSでは絶え間なく祭り上げられている。しかし、そうした「熱狂」が生まれるほどに、私は逆に強い反発を覚える。確かに並外れた頭脳や行動力を持つ人物ではあるが、その影響力をどう使うかという点で、彼はあまりにも無自覚ではないだろうか。
テスラの急成長がもたらした電気自動車市場の拡大は、間違いなく自動車産業に大きな変革をもたらした。それまでガソリン車が主流だった市場をひっくり返し、世界的な環境意識の高まりに合わせて時代を先取りする――その功績は称賛に値する。だが同時に、「内部告発を試みた社員への圧力」「過酷な労働環境」などが報じられるたび、私は苛立ちを禁じ得ない。美しい未来を掲げる一方で、その裏では「効率化」「革新」という名のもとに弱い立場の人々を切り捨ててはいないか。企業トップとして、多大な責任を負っているはずの人物が、利益とスピードのためなら人間性を犠牲にしても良いと思っているのではないか――そんな疑念が拭えないのだ。
さらにツイッターを買収したことによって、彼の性格がより露わになったと感じる。コンテンツ規制や言論の自由をめぐって賛否両論あるのは当然だが、長年にわたって築き上げられてきたプラットフォームの秩序を、一夜にして根本から覆そうとする様子には乱暴さを感じる。彼が純粋に「言論の自由」を守りたいと考えている部分もあるのかもしれない。だがそのやり方は、あまりにも一方的で、議論よりも強制が先に立っているように見えるのだ。市場やユーザーコミュニティに計り知れない影響を及ぼすのに、まるで実験場のように扱っている――そんな印象を拭えない。
イーロン・マスクを支持する人々は、彼の天才性に魅せられているのだろう。既存の常識を打ち破り、火星移住やハイパーループなど、大胆不敵な夢を語る。そのビジョンの壮大さは、多くの人の心を掴むだけのパワーを確かに持っている。だが私は、その華々しい夢の裏側を常に見てしまう。膨大な資金を動かし、何千何万という人々を働かせ、社会のルールを変えてしまうほどの権力を持っていながら、彼の言葉からは「共感」や「謙虚さ」が感じられない。むしろ「自分だけが正しい」という慢心が透けて見え、周囲を振り回すことで注目を集めているようにすら思う。
なぜここまで拒否反応が強いのか。それはひとえに、彼が持つ「影響力の大きさ」にある。誰かが極端な意見を言うこと自体は、表現の自由の範疇だろう。しかし、イーロン・マスクほどの知名度や資本力を伴う人間が放つ言葉は、社会全体を揺るがしかねない重みを持っている。ところが、その発言や行動に時として慎重さがまるで感じられないのだ。「自分はあくまで一般人としてツイートしている」というような言い訳をするが、何千万・何億というフォロワーがいる「一般人」など存在するはずもない。こうした言動を繰り返す彼に対して、憎しみすら覚えてしまうのは、私だけではないだろう。
また、彼のコミュニケーション・スタイルがしばしば相手を嘲笑するように感じられることも、嫌悪の理由だ。議論や批判に対して真摯に向き合うより、自分の正当性を訴え、批判者をからかったり攻撃したりする。そのような姿勢は、強いリーダーシップというよりは、単なる攻撃衝動に近いものではないかと思う。カリスマ性を持つトップがそのように振る舞えば、多くの人が追従し、さらに対立や分断が深まる構図が生まれるだろう。まるで、大きな声で威圧した者が勝つかのような、乱暴な言論空間を助長しているようにさえ感じる。
もちろん、メディアは過剰に彼を煽っている部分もあるかもしれない。私たちが知るイーロン・マスク像は、メディアとSNSを介して編集された一面だけだろう。しかし、そこから受け取れる情報だけでも十分に「過激」であることは間違いない。もし彼に穏やかで思いやり深い一面があったとしても、表に出るのは挑発的な発言や、予測不能な行動ばかり。まるで、彼は注目を浴びるために、あえて波風を立てているようにすら見える。そして、その姿勢こそが彼のカリスマを強化し、信奉者を増やす一方で、私のような反発を覚える人間を確実に増やしているのだ。
私はイーロン・マスクの実績をすべて否定するつもりはない。電気自動車市場の発展は、環境問題への意識を高め、産業構造を大きく変えるほどの影響力を持った。また、宇宙事業への参入によってスペース業界全体が活性化した面もあるだろう。だが、それらの「功績」がすべて肯定されるべきかというと、そうとは思えないのだ。なぜなら、そのプロセスや彼の姿勢に数多くの疑問や問題が散在しているからである。テスラの工場では社員への過重労働が報じられ、Twitter社の買収後には大量解雇が行われた。一方的なリストラは、社員だけでなく利用者の信頼も損ねる結果になったはずだ。
「革命児」と呼ばれる彼だが、そもそもその革命は誰のためのものなのか。人類全体の未来を切り開くために行動しているのか、それとも自己顕示と自己満足のためなのか。もちろん、野心や自己顕示欲が全否定されるわけではないし、彼のような強烈なビジョンに突き動かされてこそ社会が進歩する面もある。だが、そこに「協調」や「周囲への配慮」が欠けていれば、残るのは混沌と犠牲だけではないだろうか。彼の一連の言動を見ていると、より良い未来を本当に望んでいるのか、それとも周囲を振り回しながら称賛を得ることに酔いしれているのか、判断に迷ってしまう。
彼のメディア露出やSNSでの動向は常にセンセーショナルだ。発言のひとつひとつが見出しになり、多くの人が熱狂的に反応する。その状況がさらに彼の影響力を拡大し、支持者は彼を「現代の発明王」として崇拝する。だが、それは彼自身が意図して作り出しているイメージ戦略でもあるかもしれない。自動車からロケット、そしてSNS運営まで、多岐にわたる分野で「既存の常識を壊す男」としてのブランドを強烈に打ち出す。その裏には、おそらく綿密なマーケティングも働いているはずだ。
こうした「自己プロデュース」の巧みさもまた、私の嫌悪感をあおる。もし彼が本当に未来のためだけを思って行動しているのなら、わざわざ挑発的な言動を繰り返したり、周囲を見下すような態度を取ったりしないのではないか。むしろ、その尖った姿勢こそが注目を集める秘訣であり、巨額の利益を生み出すエンジンになっている――そう考えると、ますます彼への不信感が募るばかりである。
また、彼のビジネス戦略や資金調達の手法も、ときに「投機的」であるとして批判されてきた。彼のツイートひとつで暗号通貨の価格が乱高下する様子は、社会全体を巻き込む大博打のようにも見える。もちろん、投資家たちはリスクを承知のうえで参入しているのだろうが、そこに新たに巻き込まれる一般層もいるだろう。巨大な影響力を手にした人物が、その力をどこまで自制しているのか、外からは判断がつきにくい。彼がいかに「自由」を標榜したところで、そうしたパワーバランスの偏りは真の自由からはほど遠いのではないか。
イーロン・マスクが嫌いだ、と口にすると、彼を称賛する人々から「嫉妬」や「時代遅れの思考」と批判されることもある。しかし、それでも私は彼の一挙手一投足に警戒心を解くことができない。彼のような存在が絶対的支持を集める社会は、一種の危うさを孕んでいると感じるからだ。リーダーが強引に物事を推し進めることで、一見スピード感のある変革が進んでいるように見える。しかし、その過程で切り捨てられる価値観や人々の声を、私たちは本当に無視してよいのだろうか。
私が彼を憎む理由は、こうした「社会的影響」を踏まえてもなお、彼があまりにも自己中心的に感じられるからだと言えるかもしれない。自分のビジョンこそが絶対に正しいと信じ、批判する者には容赦なく噛みつき、さらには軽率な一言で世界中を混乱させる。そのカリスマが絶大だからこそ、多くの人が振り回されてしまう。それが彼の望む未来の形であれ、人々に「ついていかざるを得ない」状況を作り出すことこそが、彼の真の目論みなのではないか。そう疑ってしまうほど、彼の支配力は強力だ。
もちろん、この強烈な拒否感は私自身の問題でもある。彼のように型破りな人間を受け入れられない、自分の閉鎖的な思考が投影されているのかもしれない。あるいは、あれほど自由奔放にふるまいながら次々と成果を上げていく姿への嫉妬心や劣等感もあるのだろう。しかし、それでもなお、「イーロン・マスクが憎い」という感情は消えない。むしろ、その感情が湧き上がるほどに、彼の存在が大きいこと、そして社会全体に与えるインパクトが桁外れであることを痛感させられる。
だからこそ、私は敢えて彼を批判し続ける必要を感じている。イーロン・マスクのような人物を「天才」「革命児」として無条件に称賛する風潮は、危うい夢を見せると同時に、多くの問題を覆い隠してしまう可能性がある。私たちは、彼のような突出した才能を「絶対の存在」として祭り上げるのではなく、その言動の裏にある思惑や影響力の行使について常に疑問を持ち、検証し続けなければならない。彼がもたらす革新が本当に世界を良くしているのか、それとも特定の価値観や層だけが恩恵を受け、他の多くが犠牲を強いられているのか、冷静に見極める必要があるのだ。
最終的に、イーロン・マスクをどう評価するかは人それぞれだろう。彼の型破りな行動力こそが新しい地平を切り開く鍵になると信じる人もいれば、私のように憎しみや反発を覚える人もいる。しかし、多様な意見が存在することこそが社会を前進させる。この「憎しみ」の声すらも、一つの大切な批判的視点として意義があるのではないかと思う。彼の眩いばかりの成功とカリスマに目を奪われる一方で、その裏側で踏みにじられているかもしれない人々の声に耳を傾ける必要がある。そうでなければ、未来を創るという名のもとに、ただ独裁的な支配が生まれてしまうかもしれないのだから。
私は、イーロン・マスクの存在自体をすべて否定するわけではない。むしろ、彼ほどの影響力を持つ人間が、もう少し「他者に対する配慮」や「謙虚さ」を備えていれば、今よりももっと多くの人々から純粋に支持されるだろうに、と残念でならない。そして、この憎しみの感情は、そんな「あり得たかもしれない別の姿」への期待を裏切られ続けてきた結果なのだろう。私は彼の言葉を聞くたびに、ああ、また無責任な発言で誰かを傷つけているのではないか、と心配になる。その繰り返しが、私の中の反発心を強固なものにしているのだ。
イーロン・マスクが語る夢やヴィジョンは確かに魅力的だ。火星移住に胸を躍らせる人もいるだろうし、電気自動車によるクリーンな未来に希望を見いだす人もいるだろう。彼が巻き起こしているイノベーションは、間違いなく人類の歴史に残る大きな一歩でもある。だが、その過程で生まれる軋轢や混乱、そして彼自身の傲慢ともいえる態度を見過ごしてはいけない。そこには、私たちの社会が本来持つべき「相互理解」や「多様性の尊重」が欠けているように思えてならない。
だからこそ、「イーロン・マスクが憎い」という私の感情は、単なる個人の感情以上の意味を持つのだと信じたい。彼のように突出した存在が現れるとき、社会は否応なく揺さぶられ、さまざまな価値観の衝突が起こる。そのとき、無批判に称賛するだけでは、本質的な問題には気づけないかもしれない。むしろ、強い反発心を抱く人々の声にこそ、彼の手法や態度が孕む危うさが映し出されていると考えてもよいのではないか。
私たち一人ひとりが彼をどう捉えるかによって、社会の未来は微妙に変化する。もしイーロン・マスクが真に誰もが幸せになる未来を望んでいるのなら、批判や反発の声にも耳を傾け、何が問題とされているのかを真摯に考えてほしい。その一方で、私たちもまた、自分たちが彼に何を求めているのかを見直す必要があるのだろう。彼の冒険心に夢を見たいのか、それとも彼が作るかもしれない新たな秩序に身を委ねたいのか。そして、そうした未来像に抵抗を覚えるならば、なぜ覚えるのか。その理由を自分自身に問い続けることこそが、彼のような巨大な存在に対する「本当の対抗手段」になるはずだ。
私がイーロン・マスクに憎しみに近い感情を抱くのは、彼が象徴するものが、私たちの社会の抱える矛盾や欲望をはっきりと映し出しているからかもしれない。彼の波乱万丈の行動は、私たちの心の奥底にある「常識を超えたい」「歴史に名を残したい」という野心を代弁している。同時に、そのためには他者を踏みにじってもよいという暗黙の了解すら示唆している。私はそこに嫌悪感を覚えずにはいられない。より良い未来を見たいと思いつつ、その実現手段にどうしようもない違和感を覚える。この相反する感情が「憎しみ」という強い言葉となって表出しているのだ。
最終的に、イーロン・マスクを憎むかどうかは個人の価値観によるだろう。彼を救世主のように思う人もいれば、私のように嫌悪感を募らせる人もいる。ただ、どちらの感情も社会にとっては大切な警鐘であり、そこから生まれる議論や検証こそが真の進歩へと繋がっていくのではないかと思う。彼が生み出す革新の光と影を直視し、その功罪を冷静に評価する。それこそが、私たちが「イーロン・マスク」という巨大な存在と向き合うために欠かせない姿勢ではないだろうか。私が「イーロン・マスクが憎い」と感じるのは、きっと彼が放つまばゆい光の強さに目が焼かれ、影に潜む危険を見逃せないからなのである。彼は目を背けられないほどの影響力を持っているがゆえに、私たちに葛藤を強いる。だからこそ、その存在について問い続けることが、社会の未来にとっても重要なのだろう。
Mくんの発言からは、いくつかの認知の歪みが見られます。それぞれ解説します。
1. 個人化
症状: 自分の責任ではないことまで自分に原因があると考える。
例: Mくんは他人の指摘や批判に対して「自分の文章力が劣っているから」「自分が至らないせいだ」と感じています。
解説: 実際には、批判する側の意図や性格、背景も関係している可能性があります。すべてを自分のせいにすることで、不必要に自信を失っています。
症状: 状況や自分の能力を「完全に成功」か「完全に失敗」のどちらかで捉える。
例: 「自分は大学生以下の文章力しかない」と、能力を極端に低く見積もり、他人と比較して落ち込んでいます。
解説: Mくんは「少しでも他人に劣る部分があると全体がダメ」と捉えがちですが、実際には得意分野と不得意分野があって当然です。
3. 被害妄想(過度な警戒心)
症状: 他人が自分を批判しようとしている、悪口を書かれていると考える。
例: 「裏で悪口を書かれているんじゃないか」「何か斜め下のことをするとTwitterやnoteに書かれる」と不安に思っています。
解説: 根拠のない想像や過去の経験に囚われすぎることで、実際には起きていないことに過剰に反応しています。
4. 過度な一般化
例: 「Yさんが過去に他人のことを書いた」という経験を、今も必ず自分に対して行われていると信じています。
解説: 過去の出来事が特別なケースである可能性を無視し、すべての場面で起きると考えています。
例: 「都合のいい人なんじゃないか」と考え、自分の価値を過小評価しています。
解説: 他人にとっての自分の役割をネガティブに捉え、それをあたかも事実のように受け入れています。
症状: ポジティブな情報を無視し、ネガティブな情報だけを取り上げる。
例: 「まともなコミュニケーションがない」「都合よく扱われている」と感じる一方で、Yさんからインフルエンザを心配されたりドリルのレビューを頼まれたポジティブな行動を軽視しています。
解説: 他人が見せている好意やポジティブな意図を認識できず、不安や不満だけを感じています。
症状: 自分を犠牲にして他人のために尽くすべきだと思い込む。
例: 「Yさんに恩義があるからレビューをしている」「家事や忙しいスケジュールの中でやっている」といった発言から、無理をしてでも他人に応えなければならないと感じています。
解説: 他人に尽くすことが当然だと思い込み、必要以上に負担を抱えています。
総括
Mくんの認知の歪みは、自己評価の低さや他者の行動に対する過剰な解釈、責任感の偏りなどが影響しています。このような歪みは、ストレスや自己否定感を増幅させ、現実的な解決策を見つける妨げになります。彼がもう少し柔軟に物事を考えられるようになると、今抱えている不安が軽減するでしょう。
深夜の書斎に、絶え間ない雨音が響いている。デスクに置かれたコーヒーカップからは、かすかな湯気が立ち上り、Discordの画面から漏れる青白い光の中でゆらめいていた。
私は画面に映る過去のログを見つめながら、このコミュニティでの2年間を振り返っていた。50代の資産家、Aさんが立ち上げたこの場所は、かつて私にとって理想の居場所だった。
初めてボイスチャットに参加した日のことを、今でも鮮明に覚えている。
「ようこそ!気楽に話してください」
Aさんの声には、相手を不思議と安心させる力があった。その後の数時間、私は夢中で話し込んでいた。様々なバックグラウンドを持つメンバーたちと、仕事のこと、趣味のこと、時には人生観まで。誰もが対等に、自由に語り合える空間。それが、このコミュニティだった。
しかし、ある雨の夜を境に、すべてが変わり始めた。
女性メンバーの一人が終電を逃した時のこと。Aさんの何気ない送迎の申し出が、予期せぬ連鎖を引き起こした。
「Aさんって、本当に紳士的よね」 「私も先週、Bさんに素敵なディナーに連れて行ってもらったの」 「このサーバーの男性陣は、みんな優しくて素敵...」
まるで高級クラブのような空気が、静かに、しかし確実にコミュニティを覆い始めた。表面的な「紳士的配慮」の下で、見えない序列が形成されていく。それは、一枚の美しい絵画に、黒いインクが一滴、また一滴と落ちていくかのようだった。
ある日、ふと気づいた。これは、野良猫に餌を与え続けることと同じではないだろうか。確かに、その場では猫は喜ぶ。しかし、それは猫から狩りの本能を奪い、自立する機会を失わせてしまう。私たちは、本当の意味で相手のことを考えているのだろうか。
デスクの上の結婚写真が、私に静かな確信を与えてくれる。妻との関係は、このような表面的な「優しさ」とは全く異なる。互いを理解し、支え合い、時には厳しい言葉も交わす。それこそが、本当の意味での尊重ではないだろうか。
朝8時、待ち合わせたカフェでAさんと向き合った。昨夜からの雨は上がり、窓ガラスに残った雫が朝日に輝いている。
「このコミュニティでの2年間は、私にとってかけがえのない時間でした」
一呼吸置いて、続ける。
「でも最近、違和感を感じることが増えてきました。特に、女性メンバーへの過度な配慮が、意図せず依存関係を生んでいるように思えて...」
Aさんの表情が僅かに曇る。しかし、彼の返答は意外なものだった。
「正直に話してくれてありがとう」彼の声には、深い思慮が滲んでいた。「私も最近、同じような違和感を感じ始めていた。善意のつもりが、逆効果になっていたのかもしれない」
カフェを出ると、清々しい朝の空気が頬を撫でた。スマートフォンに妻からのメッセージが届く。
その言葉に、目頭が熱くなる。これまで感じていた重圧が、少しずつ溶けていくような感覚。
通勤途中の雑踏の中、私は空を見上げた。昨夜までの雨雲は完全に晴れ、澄んだ青空が広がっている。誰かを本当に想うとは、その人の自立を信じ、見守ることなのかもしれない。その思いと共に、私は新しい一歩を踏み出す準備を始めていた。
例えば最近はVtuberの中の人が踊った動画がたくさんあがってるけど
あれは不気味さ少ないでしょ?
一方で、MMDで踊らせたものって、クオリティ高いものですら違和感があるんだよね
やっぱ「物理的にそうはならないだろう」の積み重ねで、「本物に似た何か」という不気味さがあるんだろうな
特にMMDで、同じモーションを複数に流した時に一気に不気味さが上がる
逆に一人ひとりに違うモーションを流せば全体としては不気味さが下がるんだ
「一つの意思で複数の人間が動いている」というのも不気味な原因なんだろうね
だからアニメダンスとかではあえてちょっとずつずらすんだけど、そのずらし方も意図を感じると気持ち悪くなってしまう
本当はタイミングをずらすんじゃなくて傾きとか細かいところをずらすべきなんだけど、「揃ってない」ことをアピールするためにタイミングをずらしがちなんだよね
回避策としては全身でやらないことだろうな、あとはデフォルメを強くする、繰り返し動作をしないなど
イラストも別に悪意を持って特別醜く描こうという意図は感じなかった。
イケメンではないが。
チー牛がフェミおばさんのイラスト描く時は髪の毛をボサボサにしたり、ものすごい肥満体型にしたり、でかいホクロかいたり、だらしない服装にしたり、めっちゃ悪意入れとるのに。
世の中は大ブーイングですね。
この発言。
私はわりとわかるというか、この発言の裏というか、そっち方面で読むとそうだねってなるんですよね。
まぁ、この発言をした人の真意は別としてですよ、マジで性格ブスな人がそ~のまんま言った可能性も大なりなんですけど。
殆どの人はこの文章は「ブスならいじめる、可愛いならいじめない」と美醜がメインだと捉えると思う。
私は違う読み方しちゃうんだよね。
「昔はブスならいじめるような人間だけどいまや大人になった自分はブスだからといっていじめないわ~」
です。
「同じクラス」「だったら」と自分が過去の中学生と仮定した場合いじめて、今現在の自分がブスをどうするかはまぁ確定していない。
彼は幸運を喜んでいるのです。「今可愛くなっている彼女」と「価値観が変わり大人になった自分」両方を。
今もブスにひどい対応をする男ならわざわざ時計の針を戻さずブッサと切り捨てるか、今の彼女のために過去のブスには触れずただフォローすると思いますです。
こんな発言をしたということは、彼女が過去からの変化を見せたことでこちらも同じく過去からの変化をお伝えしたかったのかな、とも考えられるかもしれません。
「おおきく振りかぶって」という野球漫画があるのですが、その主人公はとてもコミュニケーションに難がある男の子なんですよね。それで中学ではチームメートと揉めてひとことでいうとハブられてました。
そして同中が居ない高校に行き物語がスタートするのですが、人に恵まれなんとかやっていく話です。
そんな高校チームのキャプテン、同じ中1だけど凄く大人びてしっかりしてる子なんですけど、彼をして
「今は先にキレるヤツが居るし許せるけど、絶対中学同じクラス(部活)だったらいじめてたわ~」
ですよ。高校生という人間性が一回り成長した時期での出会いに感謝してるわけです。
まぁそうだよね。ととくに引っかからずに読んだ私は、だから今回のこの発言もこのキャプテンの心持と同じ感じで読み取ってしまいました。
独白と本人に言うには天と地の差がありますけど。それもまた性格の悪さかコミュ力不足かは定かではありません。少なくとも彼女になってもいいと思えるまでは愛情を示せて建前を繕える男性だったんでしょうけど、十全ではなかったのかもですね。
だからまぁ、私は人気ブコメにあるぐらいに即極刑レベルの判決を即座には下せないんですよね。人は往々にして過去の未熟を振り返ることがある。ありませんか?ぶっちゃけ私だって小・中学生ならブスはいじる・いじめるような人間性だったし、今はそれはダメだよねと身についた倫理観で包んで平等に接しようと努力しております。ブスに属する自分のためにも。だから、なんていうか、この男はありえない!と自分と重なる部分が一切ないかのように断罪できる人が信じられないというか、凄い善良な人が沢山居るんだなぁと驚いていますです。
なんの話でしたっけ。まあいいや。
「マジモンなのか判断に困る」とは、結局何を判断したいのか明確にしてもらえないかな?
「童貞の語るセックス」が理解できなかったなら、「学卒が騙る博論」なんてコンプレックスを煽るだけの比喩を出されても、議論として何の進展もない。
具体的な話ではなく、ただ相手を見下そうとする意図だけが透けて見えるよ。
さらに、「どうせ氷河期の文系卒だろうから」という偏見丸出しの一言。
こういった根拠のないラベリングを繰り返している時点で、自分自身の議論の正当性を壊しているのに気づいている?
人の学歴や時代背景をあてこすりにしても、BYDとアルファードの比較やクルマの性能の話には何の関係もないよね。
議論で重要なのは、相手を見下す言葉を並べることじゃなくて、データや具体的な事実に基づいて反論すること。
「学卒が騙る博論」という例えを使うなら、それがどのようにこの議論に関連しているのか、きちんと説明してもらわないと意味を成さない。
もし本当にBYDとアルファードの比較について具体的な意見があるなら、根拠を示して話してほしい。
文系卒だとか氷河期だとか、関係のない個人攻撃を続けるのはただの議論放棄にしか見えないし、そもそも誰にとっても有益な話にならないよ。
かなしい。
いろいろ思い出す、二人のカップルにとってはすれ違いなんだけど子供というファクターが入ることで拗れて壊れてしまうかもしれないよこれ。
記述からして奥さんは今、心身がつらい時期みたい。一方夫のほうは子供が生まれる前から心身の健康状態は変わらないんだろうね。
夫は「時短だからラクなはず」とか思い込んでそう。仕事よりしんどいよ、子供と一対一で向き合うのは。子供と生活していく中で、「アレは教育上ダメ」「コレは発育に良くない」なんてNGリスト作り出したらキリがないし、真面目でいいお母さんでありたいと思う人ほど「今日も◯◯ができなかった、自分はダメな母親だ」と気持ちの上で苦しむんだよ、自縄自縛のストレスで怒りっぽくもなる。
そんな状態のところに「娘ちゃんの前で怒らないでね」とかNGリストを増やして、責めて、追い詰めてるのと変わらない……ハタから見れば夫にそんな意図はないのはわかるよ。でも奥さんにとっては、さらに軛を課すようなものだよ。それだけは理解してあげてほしい。
認知スタイルとは、個々人が情報をどのように処理し、解釈し、世界をどのように理解するかという思考のフレームワークです。この枠組みが異なることで、同じ事象についても全く異なる解釈が生まれることがあります。
特定分野への強い集中力が、専門性を生む一方で、他者との共通理解が難しくなる場合があります。この場合、対話の困難さは「IQ」ではなく、興味や注意の向け方に起因します。
妄想的思考が、現実認識の共有を妨げるケースが示されているように、対話の困難さは客観的な現実を共有する土台の欠如にあると考えられます。
知識やIQの高さは必ずしも「正しい判断」や「効果的な対話」を保証しません。
この問題に対抗するには、メタ認知能力、つまり「自分の思考の仕方を客観視し、軌道修正する能力」が重要です。
異なる認知スタイルを持つ人々が対話を成功させるためには、共通の前提や目的を共有する必要があります。
認知的柔軟性とは、状況に応じて思考や行動を変える能力であり、対話を成功させるために不可欠です。
これらがあれば、異なる認知スタイルを持つ人々との対話もより建設的で有意義なものになります。
現代社会は高度な分業が機能しており、経営者や消費者は投資判断ができ、一般読者が科学読み物を楽しんでいます。
これらの事例は、知識量の差異だけでは対話の成否を説明できないことを示しています。認知スタイルの違いを理解し、調整する能力は特に重要です。
これらによって、個人間や集団間の溝を埋め、効果的なコミュニケーションを実現できます。
対話の成立には、単なる知識量やIQの高さではなく、認知スタイルの理解と調整能力が鍵となります。具体的には以下の点が重要です: