はてなキーワード: M-1とは
普段はほとんど芸能ネタに興味のない人間である。ドラマは全く観ないし、アイドルにもぜんぜん興味がないし、M-1などのお笑い番組も、観ても面白さがほぼ理解できないレベルで疎い。当然ながら芸能に関する知識も全くない。
しかし、今回の中居正広「女性トラブル」問題については、リアルタイムで情報を追っている。その理由は芸能スキャンダルにとどまらない、日本社会の大きな転換点・分水嶺を感じるからだ。
1980年代以降、日本社会の世論はほぼテレビで代表されていた。日本の政治や社会問題で何が争点で論点なのかは、テレビが取り上げるかどうかや、テレビのフレーミングですべて決まっていたと言っても過言ではない。1993年の自社さ連立政権も、2005年の小泉郵政選挙も、2009年の民主党政権とその後の転落も、大袈裟ではなく全てがテレビ発のイベントだった。平成期の政局で最も大きな影響を与えたのは、明らかに小沢一郎でも小泉でもなく田原総一朗だろう。
1980年代当時の、子どもだった私たちにとって「たけし」「さんま」「とんねるず」などのテレビスターは既に総理大臣よりも偉い人だった。その後20年を経て、国会議員や総理大臣の権威は地に堕ちた一方、彼らテレビスターの権威は、本当に総理大臣以上になっていた。実際、彼らは上の世代の芸人がそうしたような、さらなる高みを目指して国会議員に進出する、という道に全く関心を示さなくなった。テレビ芸人の権威が、国会議員をはるかに上回るようになったからである。
しかし、ジャニーズ、松本人志そして中居が次々と性加害報道で凋落していったように、テレビで売れている人が日本社会で最も社会的地位が高い、という2010年まで続いた強固なヒエラルキーは、2020年代に入って急激な勢いで崩壊しつつある。誤解してはいけないのは、SNSやYouTubeの影響、というだけではないことである。ネットの配信者は基本的にネット記事を紹介するだけの「コタツ記者」であり、取材能力は全くの皆無である。週刊誌の取材力とSNSの拡散力が連動して、はじめてテレビの力を打ち倒すことができたのである。
もともと芸能事務所やテレビスターの性加害事件スキャンダルは、週刊誌や夕刊紙で頻繁に報道されていた。かつて中居も堕胎強要事件が報道されたことがあったが、週刊誌の読者に隅っこで読まれるだけで、「週刊誌はデマでも記事にして商売する」というイメージもあり、テレビで報道されない限り社会的影響力は皆無だった。
しかし現在は、状況が一変した。週刊誌の記事がネットで配信され、SNSとYoutubeで瞬く間に拡散するようになった。結果として、松本や中居などがSNSで大炎上し、Youtubeで詳細な解説動画が膨大に溢れているにも関わらず、テレビをつけても全く報道されない、という風景が繰り返されるようになった。少しずつ報道するようになっても、「痒いところに手がとどかない」レベルの報道であるため、「テレビは報道しない自由を行使している」という非難をより強めるものになっている。
結果として、「テレビが報道しない真実」を常套句とする、質の悪い陰謀論的なYoutubeチャンネルが溢れかえるようになっている。中高年の主婦がより陰謀論にハマりやすいと言われるが、これまで彼女らが家の中で一日中テレビをつけっぱなしにして生活してきた層であることとおそらく無関係ではない。SNSでは質の悪い情報ほど拡散力が高く、インフルエンサーの社会保障の理解などは絶望的にひどいものが多く、今後日本はますます衰退・崩壊していくのだろうという悲観的な未来が予想される。
最後に、テレビ局はこうした変化に柔軟に対応してアップデートしてこなかったことを指摘しておく。松本も中居も1990年代半ばから既にテレビで見ない日がないテレビスターだった。言い換えると、「テレビの顔」が30年も更新されてこなかったということである。そして、テレビ制作の現場の価値観も、テレビ画面上で公然とセクハラで笑いをとっていた90年代のノリを引きずっていたことが、今回改めて明らかになってしまった。metoo運動以降に就職した、Z世代の高学歴女性アナウンサーからすれば、松本と中居の女性に対する価値観や扱いと、それに積極的に同調して性加害を隠蔽するテレビ局員と幹部の姿は、ほとんど現実とは信じがたいものと映っていたはずであり、彼女たちが精神を病んでしまうのも当然と言えるだろう。
めっちゃマラソン速いは嘘。アラフィフで普通にサブフォーとかそれぐらいのギリギリ人権ぐらい? よく知らない
その人も歩いてるときには何を考えたらよいかわらず、歩きたくないらしい
だいたいなにか目的をもって始める
(季節・街並みなどの変化を見たいとか、無心になりたいとか、ただ歩くのが目的も)
目的をどれにしても、変化がない場合や、無心になりきれないときには飽きるので、結局悩み事のことを考えてしまう
悩み事(大小あれど)だらけなのでそれでも困らないけど、それだけじゃあネガティブすぎるので
妄想をする。昔(3~4歳の時)は荒唐無稽な妄想してたけど、そっから成長して、
単純に自分の成長の最高ルートだったり、想い人との成功ルートだったり
SFというかファンタジーというか、漫画の主人公になるようなイベント発生ルート(なぜか自分には秘められた力がある)だったり
その後、例で実際とは異なるが、M-1のネタの改善案とか、自分の市の改善政策とか
考えることが沢山ある
多分考えることは尽きない(尽きる人はすぐ尽きるし何も考えずに生きてるんだろう、羨ましい
コースは往復とか周回だとコースに気を取られてしまうし、往復一緒だと飽きるし、
家に帰りたくなくなったり、悩みが増えた時
私鉄のほうは、線路沿いの道は途切れるので、ほぼ平行してる国道沿い歩いた
(わかりやすく行きと帰りで道が変わるような散歩ルートあるならそれでも全然よい)
目的の第一は、これは超第一なのだけど、特に目的を持たないこと 何だと思う
似てるのは家でゴロゴロするとかなんだろうけど、その後の睡眠の質も変わるし
悩みの消化率とかが全然違ってくるので
迷わず歩けよ歩けばわかるさ といいたい
「芸人が自分で『裏回し』って言っちゃったらそれはもう『裏回し』でもなんでもないんだけど、やっぱり『あいつが言ってるなら俺も言いたい』ってのはあるじゃない」ってのがあった
「人に『気付かれない』ことまで含めて『芸』」なんだけど、やっぱりどうしたって裏回し職人として認知されたいって部分もあるよなと。にんげんだもの
芸人に関しては「誰にも気付かれてないけど、俺、裏回ししてんすよ」ってメディアで言っちゃえば承認欲求を満たせるしネタにもなるよな
でも、一般人が仕事してて実際裏回ししてる場合が沢山あるわけだけど、彼等はたぶん「俺、やってるんすよ」って言わないじゃない
出来た上司とか出来た経営者とかはちゃんとそういうの見て評価してくれるだろうけど、基本誰にも気付かれないってのが確実にあるよなあ
世の中はそういう裏回し素人によって支えられてるってこと、忘れちゃいけない
本人的には承認欲求なんか欠片も無くて、ひたすらに「業務が滞らない様に、巧く回る様に」っていう気持ちでやってるんだろうけども
有り難いと同時に言いたいのは、「無理はしないで欲しい」ってこと。それをすることで心身共に弱るようなことにだけは絶対なってはいけないです
みんなで泥縄式で「なんとか終わったぜ」で仕事すればいいのです。華麗に無駄なくスピーディーにこなす為に誰かが犠牲になる必要は無いのです
(でもサボっている奴は論外。というか、サボってる奴が居なければそれなりに綺麗にまとまるんだよ)
あちこちオードリー年末回でもう一つ興味深かった話は、「燃え尽き」について
随分前のことらしいが、伊集院がラジオの仕事に於いて燃え尽きというかイップス状態になったそうで
嫁の扶けもあってそこから抜け出した時、「総てが素晴らしい」と感じたそうだ
その話を聞いた若林が「俺も最近同じ状態になりました」と言っていた(最近も最近で、M-1審査する一ヶ月前くらいのことらしい)
そこで思い出すのはスピリチュアル系の「別の領域」の話。そこは「総て在る」世界であり、やっぱり「総てが素晴らしい」と感じるそうだ
「エゴの声に振り回されず、願望を手放した状態」だが、意図的にその領域に踏み込むのは難しく、「自ずとやって来る」ものだという
まあ、瞑想や自己観察や自愛によって到達するって場合もある様だが
あと、伊集院や若林の様に「燃え尽きた果てに到達する」ことも(ある意味「自意識の死」を迎えてるんじゃないかな?)
実は自分も「総てが素晴らしい」と感じていた時期があった
あの時なんでその領域に到達出来たのかと言うと、「一年間ジョギング」していたからである
そんな単純なフィジカルからのアプローチでも到達出来るのだ(「早足かな?」程度のジョギングで。サブスリーを目指してトレーニングとかではない)
体力がつき、人生初と言っていいほど漲っていたからそうなった様だ
でもジョギングをやめてしまったら元の精神状態に戻ってしまい、同じ気分を味わいたくて愚直に走ってみたもののもう駄目であった
(平地をダラダラ走るからかなあ?あの時みたいに「坂道を登ったり下りたり」ならいけるのかなあ?)
感情老化は激しい今日このごろだけれども、燃え尽きとは違う。何も極めてないので燃え尽きるものが無い
またあの領域に到達する為には、やっぱりフィジカルの鍛錬しか無いのかもしれない(瞑想は苦手だ。脳内が多動な上に呼吸法が下手だから)
もう年明け回が配信されているけれども、いま昨年末のひっかかりニーチェを見ている
その中で「ずっと緊張感が続く番組(ex.M-1)ばかりだとテレビを見て貰えなくなる。ながら見が出来る番組も作らないと駄目」っていう話をしていて
本当にそうだと思う
にけつッ!!とかですら「しっかりと向き合って」見ている。「二人が話しているだけの番組なんだから『ながら見(聞き)』でもいいんじゃあないか?」と思うけれども、何故かしっかりと見ている
だから「出勤前に鏡に向かいながら流す番組(配信)」のチョイスには気を使う
そして、そういう片手間に見られる番組はそれなりの数無いと困る。で、それと同数くらい「しっかりと見る番組」も無いと困る
テレビがその「どちらかだけ」になったら非常に困る
正直、寝る前に見るYou Tube動画ですらチョイスに悩む(ショート動画はなるべく見ないようにしている。きりがないので)
別に誘導瞑想の動画でも良いんだけど(疲れ切ってて直ぐ寝たい時は実際それとかASMRだけど)、ちょっとだけエンタメ性が欲しい時の丁度良い動画が難しいねえ
あと、入浴中に見る動画もすごく難しい。シャワーで音声が聞き取りづらくても大丈夫で、シャンプー流してる時に目を瞑っていても(途中が見れなくても)困らない動画
まあ、音楽や自然音+環境映像とかでも良いけど、もうずっと長い間そういう丁寧なマインドで暮らしてないので
ネトフリとかに課金してて全然見てないんだけど、「外国の料理番組」とかは出勤前や寝る前に最適なのかもしれないな。豪邸紹介とか
これは一見正しいように見えて実は間違っている話
これは過去の採点をみれば分かるはずで、そういう人しか審査員にしていないことで解決している
Aさんは90〜93点、Bさんが80〜95点、Cさんが70〜100点と付けたら、相対的にCさんが支配的になり、Aさんの配点が無意味になるリスクがあるが
審査員は過去の審査と照らし合わせ、だいたい10点前後の幅を出すよう心がけている
画面表示では、80点台は銀、90点台は金、95点以上は赤文字にしている
つまりそういうつもりで採点してほしいという意図が現れていて、空気が読める審査員ならそれに配慮する
・本当に酷いと思った
・そのネタは現代に即していないというマイナス評価(容姿いじりなど)
みたいなものがあると思う
もちろんこれらも絶対そうだというものは無く、評価する側もされる側も空気読みが発生している
もし審査員が正しくお客を代表できているとすれば、テレビにおいて一人の拒否権は重要な意味を持つんだと思う
10点満点の採点システムも存在していて、有名なところだとものまね王座決定戦があるが
そうなると皆10点しかつけず、こんどは10点をつけない人の支配下になってしまう
ほとんどの人の振れ幅が9〜10点になってしまったら、結局0〜10点の人が支配的になるんだ
あと減点方式で見ることになってしまうため、これはこれで採点としてしんどい
皆が0〜10点を入れて審査する場合と、皆が90〜100点を入れて審査する場合で、結果は変わらないが当然点数は意味を持ってしまう
80点は及第点で、90点は上出来というイメージが皆の中にある以上、50点をつけてしまうと「落第点」とみなされる可能性があり誤解を生む
特にショービジネスでは90〜100点の方を取るしか無いだろう
例えば合唱コンクールとか、銅賞(複数)、銀賞(複数)、金賞(複数)というのは本来競技としてはおかしいわけだが
「皆素晴らしかったので表彰したい」という気持ちからこうなってしまうのもわかる
M-1でも同じ事象は起きていて、安易にひどい点数をつけられるシステムは避けたいのが心情だろう
[B! 芸能] 人気芸人 M-1は「滅びるよ」将来を危惧「どんどん鋭角になってく」審査員の構成に疑問「興味がなくなっている」(デイリースポーツ) - Yahoo!ニュース
知ったような口で語っているブクマカどもがいかに何もわからず書いているかを逐一反論を書いていくことにする。知ったような口ではない門外漢ブコメは今回の対象外とする。
勝ち抜いた人たちが、勝ち抜いた経験からのことを、すごい通のファンが見て、みたいなのはあんまりいい傾向にない”/この話に関連し、大会前に書いたこれを再度。⇒
> そもそも「ツッコミ」とか「ボケ」とかを、視聴者が普通に認識して番組名になっているのがおかしい。いや知ってるぐらいはまぁいいかもだけど、結局ボケもツッコミもバックステージにある(べき)ものでしょ?
べき論を正論として振りかざしたところでなんの意味もない。YouTuberがテレビに出るなとか声優がバラエティに出るなとか言ってるようなのと同様の自分の理想論を述べているだけ。
大枠同意で、この結果何が起きるかって言ったらネタ作りや審査のAI化、ひいてはお笑い業界のAI化の加速だよね。別にそれ自体が駄目とは思わないけど、M-1のコンセプト的にどうなのか
意味不明。記事内にもお笑いのAI化が進んでるなどという話は出ていないし世間でも言われていない。頭の中にあるAIという単語を出力しているだけ。
100点満点持ってるけど殆ど無意味。一人バグった審査員が100点と0点しか使わなかったらぶっ壊れる空気読み得点でしかない。素直に全組見てから各審査員ごとに順位つけて総合得点出すでよくねって思う
100点満点が無意味というのは同意するところだが、伊集院は競技化の先鋭化を批判しているのに対して競技化を追求しろと言っているのは謎。
"おかしな芸"をバラエティー向きと考えているのだろうか。トム・ブラウンはウケ量も勘案したら妥当な評価だろう。
マニアがジャンルを殺すってやつかな。M-1って競技になって最適化されててそれが令和ロマンの連覇に繋がったとかは言うけど。90点以上が連発した大会だったから2人くらい視点が違う人を入れないと点が揺れなさそう
「90点以上が連発した大会だった」という適当な印象論で最近の問題点みたいに語っているが、滑りに滑った2019ニューヨークに松本人志が82点をつけたように80点が事実上の基準となっている。ウケていると90点以上が出るのは例年通り。
「競技に最適化」というのが具体的になんなのかわかるのだろうか。"ボケ量を重ねて常に爆笑を取る漫才が強い"という状態になるとマニアがジャンルを殺すになるの理屈が全く紐づいていない。
敗者復活戦含め、年末の日曜日に7時間もテレビの前に座って漫才をひとつひとつちゃんと見ないと十分楽しめないコンテンツな時点で、振り落とされる人はかなりいる。「テレビの娯楽」としては末期なんじゃないかなぁ
漫才1本は4,5分なのだからそこだけ見ればいいのでは?スポーツ中継だって同じで、別に全体を把握せずに今映っている状況を見るものだ。
M-1が歴史になり権威になったからラパルフェが準々決勝でやった2019年M-1決勝のニューヨークのものまね漫才でお笑いオタクにバカウケして話題になった所はあるので
お笑いオタクにバカウケしたのは究極の内輪ウケだからであってM-1の権威とか関係ないでしょう。KOCのライスのネタをやられても俺は笑うと思う。
競技化して最適化していく過程でノウハウが蓄積されるのはジャンルでもそうだと思うけど、審査員が過去の経験者だと評価指標がM-1型に特化してしまって同調圧力で変なコンビを上げられないのはありそう
M-1で勝てるネタというのはM-1の場で客ウケを取るテクニックとかの話であって審査員の評価を稼ぐという話ではない。仮にそんな評価指標があったとしてもノンスタ、オードリー、ナイツの2008と現代のM-1は漫才の構成などかなり変わっているのだから全然話が繋がらないだろう。
この流れを作ったのが松本人志。意図した訳では無いが視聴者含めて皆それが正しい漫才の見方であると受け入れた結果、松本氏の作った箱庭の中で新しい笑いを語ってる
漫才を格闘技のような大会にして盛り上げようと提唱したのは島田紳助なのだが。今年の放送を見ていればわかるはずのことすら知らず適当なことを言っているこのブコメを知ったかぶり王としたい。
もはやプロじゃないと客が納得しないんだろうけど、芸人の登竜門じゃなくて漫才競技大会に寄って行ってるし、テレビ朝日が足抜けしてABCのみの関西ローカルになる未来もあると思う
漫才競技大会だったのが芸人の登竜門になっていったの間違い。芸人の登竜門として完成されたのは霜降り明星以降。2016の優勝コンビ知ってるか?あと、ABCお笑いグランプリって知ってるか?
大会順位に不満はない。ただ大衆娯楽として広い層に受けると言うのは大事だと思う。子供だったら基礎知識不要のトムブラウンとか、バッテリィズとかウケるだろうなと思ってたけど、審査にそう言う視点はなかったな。
ホストクラブのイメージを元にやってるトムブラウンと世界遺産の知識とか必要なバッテリィズが基礎知識不要って本気で言ってる?
THE Wのことも知らないような人は知らないだろうけど、THE WやR-1は飽きられる段階に達するほど盛り上がっていない。
身内が身内奨励する感の強いそれまでの漫才賞と一味違う、広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1の先鋭化は寂しいというか「普段漫才に関心ない層にもリーチできる」強みを捨て去る方向に進むのは惜しいなと思う
「広く漫才で盛り上がれる祭り目指していたM-1」ってなんですの。誰が優勝したときの話?
競技プログラミングは数学(アルゴリズム)力と実装力を競うジャンルであってプログラミングの競技化じゃねえんだよ。適当なことほざくなボケ。
まぁ令和ロマンもウケた量より技術面で評価されてたりするから先鋭化してるってのは分かる。単純に面白いと思ったかの視聴者投票でも良い気がする
ウケ量以外を加味されてるのはバッテリィズ2本目じゃあないの。2本目にウケが弱かったバッテリィズと2本目も強かった令和ロマンの構図だった。
同意。成り立ちが無名の発掘と才能がない人には区切りだったはず。M-1出身者ばかりという事は、他で花開かなかった人が審査員という事。身内ネタに過ぎないよね。連覇は既に名を馳せたはずの人が枠を奪う行為。
オードリー若林を他で花開かなかったとはおかしなことを言う人もおるもんで。
参入障壁が低いからついにエントリー数が1万を超えたですけどね。大会運営としてもアマチュアには専用の賞を置いたりしてアマチュアの参加に積極的。
高学歴が連覇ってのはまあそう言うことやろな…
学歴しか見ないコメントはこれしかなかった。この方向はヤフコメ民の方が強いのだろう。
ラパルフェがニューヨークの滑ったネタをやったことを言ってるのだろうか。
というかM-1じゃなくY-1なのが問題、審査員9人中6人が吉本(決勝の決勝令和ロマン5票中4票吉本からで非吉本審査員からは3人中1票、同じ事務所から2人以上審査員にするな
自分は予選会場の観客席の先鋭化が気になってる。観客のウケ具合が審査に少なからず影響が出るにもかかわらず、会場にはほぼ完全にお笑いマニアしかいない。
博多大吉が言ってた「予選は総合格闘技、本戦はプロレス」って言い得て妙だなと思う。今の審査員が総合格闘技だと思って審査してるのは危険
予選と決勝で戦いが別モノになってるといった話をできる人はきちんとわかっていそう。
映画や音楽ではそうでもないのにお笑いだと大衆受け原理主義者みたいな人がやたらと出てくるね / 今の自分にはまだ良さが分からないものに出会えるのが(お笑いに限らず)審査員方式のメリットだと思うのだけれど
これ
https://news.yahoo.co.jp/articles/3199aacebbf952e0afac22488144c63f9042f537
伊集院は「M-1に出たことある人たちで、しかもM-1がちゃんとステップになった人たちが全員、審査員でいいの?すごい特殊じゃん。そういう文化って滅びない?
あのさあ
大会優勝者が審査して、その価値観で審査したらタコツボ化して衰退するみたいな
浅いこと言ってんじゃねーよ、全体の大会のシステムで見るべきだろ
審査員はまず現役で笑い取ってる人
先鋭的だったり分かる人にしかわからないお笑いやってる人たちじゃなく、毎日のようにお客さんを相手にしてるんだから
変な先鋭化は起きねーよ
難しいテクニック使ったところでそれが客に受けなきゃ点数上げないだろ
しかも会場にはお客さんもいるし、その反応も見て点数つけてると言ってる
テクニカルになりすぎず、自分らのやり方を貫いてる人が多いのはそういうことでしょ
似た番組が登場するだけだよ
くるまは自分から「ハック」 「制圧」 「攻略」 等のワードを使ってるけど
リアルタイムで見てる人、その場に居合わせた人を上手く乗せて歓声をあげさせ盛り上げる力が凄すぎる
だから結果が分かってて後から見たら「はあ?この程度?」ってなる
でもその場を盛り上げてその日に票集めたもの勝ちだからしょうがない
M-1を競技ととらえ完璧にチューニングした慶應ボーイに2年連続でまんまと攻略された
誰もあいつを止められなかったから文句言えないのが本当にやるせない
スポーツを見たいわけじゃないのになあ
バッテリィズの1・2回目と令和ロマンの1回目以外は出来ひどすぎませんか?
真空ジェシカに至ってはもう完全にいつものネタの使い回しで「お前それ地方公演やった時に「すげ~~~生でみるとマジでキチガイすぎて怖~~~~~」って感じで盛り上がるようじゃないですか?」って感じでもうドン引きですよ。
バッテリィズのバカネタもまあいつもと同じなんですけど、引き出しの形が同じだけで中身はちゃんと変わってるんですよね。
飽きた鉄板ネタ、滅茶苦茶なことやれば受けるというド滑り、そもそものクオリティが低い、全体的にしょーもなかったですね。
この時期、年末年始の諸々で人に会うと、結構な確率で『M-1見た?』という話題になる。
ただ、こちらは全く興味がない。別に、お笑い番組全般が嫌いという訳じゃないのだが。
で、たいていこういうことを言うと、『絶対見た方がいい!』とか、『なんで見てないのー?』とか言われる。
挙句の果てには(こちらは見てもいないのに)『今年は〇〇が優勝だと思ったけどねー』とか、聞いたこともないコンビ名(トリオ名?)を言われたりもして気が滅入る。もっと、そちらの近況について教えてほしいものだ。
一度『いや興味ないし。昔やってたオンエアバトルと何が違うの?』と答えたら、返す刀で1時間ぐらい滔々と語られ、以来、この台詞を口にすることはやめた。でもオンエアバトルとの違いは未だによくわからない。
令和ロマン好きな人や素直に応援できる人、幸せな人生を歩んでいるように思えて羨ましい、
学歴も実家の太さも声の良さも滑舌も人前に立てる容姿も清潔さもセンスもおしゃれも賢さも言語力も文章力も構成力も隣にいる自分の言う事なんでも聞きそうな相方も(茶色い方の人について、生まれついての金持ち以外の情報がわからないので偏見です、すみません)なんでも持ってる奴に勝てないよ、たとえそれが努力して得たものだったとしたら更に、
って負け犬思考でなーんにもない自分の人生振り返って笑えなくなってきて、泥臭い成り上がりみたいな人を応援してしまうけど、それじゃやっぱり勝てないんだよな。令和ロマンみたいに完璧じゃないから、完璧でなくても圧倒的じゃないから。今回ならどの組も全然完成度で負けてるからしょうがないよな。
M-1は全ての芸人の入り口であれ、みたいなの最初に創設者からのメッセージあったけど、芸人の登竜門的大会ではなくて最終的に出口で求められてるのってこれなんだ!この完璧で究極の漫才なんだ!って思ったら(この大会自体がそういった主旨だったら当然かもしれないですけど)、一気に私が生きてる世界の中で毎日起こっている強いやつ持ってるやつが勝つって現実と同じだってことを見せつけられたから、あまりにも残酷だったから、優勝発表された瞬間にテレビを切った。
ドラマや感動求めてるわけじゃないけど、ただ強いやつが勝つって勝負ならK-1とかボクシングとかで事足りるからやっぱりM-1のCMで夢だとか人生とか言うんなら夢があってくれよって思うのは私の“解釈違い”なんでしょうね。もう世界は私の考えているよりずっと実力主義で強いやつが勝つことになったんだって、ただそれだけのことなんだよな。くそ。
結局良いと思えないマイノリティは自分の方で、そういったネガティブな思いさえ、くるまさんに乗せられてるんだろうかと思うし、私の人生に全く無関係なテレビの向こうの人間に、自分の嫉妬心やコンプレックスを爆発させても何の意味もないんだよな。そもそも私お笑いやってないし。
それならと思って、でもお前だってああいう強さに嫉妬するくらいなら努力して少しでも近づけよ、なりたいのになれないとか言い訳してんなら過去のお前の努力不足だっただろって自分に言ってみるけど、努力できる環境や金や頭があるからできるんであってそれがお前にはなかっただろって自分を守って、っていやそんな言い訳してる暇あるならそれを越えるくらい努力したらよかったじゃんかってやっぱりコンプレックス爆発ループに入ると、なんにも面白くなくなってお笑いでこんな気持ちになってばかみたいだから、毎年見ていたけど、来年からは令和ロマンは出ないかもしれないけど、来年からこの大会はもう見ないことにしようってそう思いました。
それなりにTwitterだのまとめサイトだの色んなところで感想を見漁ってるけど、マジで松本について言及してる人を全然見かけない。審査員にあーだこーだ言ってても、「松本がいたら〜」みたいな話にはならない。
シビル・ウォーって映画見てさ、あれアメリカが内戦状態になったらって映画なんだけど
日本で内戦が起こったらどうなるんだろうって想像したらめっちゃ怖くなったわ
今の日本で分断が起こったらどうなるんだろう
アメリカみたいに州ごとに別の国かと思うほど違うみたいな事はないから、そもそも分断しようがなさそうではあるけど
なんでそんな想像をしたかっていうと、M-1で関西のやすとものともこが審査員になって
ともこが叩かれてるみたいでそれで関西の人が怒ってるらしい
今どきそんな東西でやり合うなんてあるのかって思うけどやすともはほとんど関西でしか活動してないから(あと審査が確かにちょっとアレだったから)
そっから飛躍してもっとシリアスな事が起こって、例えば日本が東西に分かれて分断したらどうなるんだろうって妄想が始まってしまって
最初は今の関東と関西で争いが起こったら敵か味方か判断するために関西弁試されたりスパイがめっちゃ関西弁勉強したりするのかなとかおもしろ妄想だったけど、
だんだん妙に生々しいというかみんな戦争は嫌だと思ってるはずだけど、内戦だと普通にエグい殺し合いをしそうなリアリティを感じてしまって
内戦ってほんとキツいんだろうな