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ブックマーク / taknakayama.hatenablog.com (19)

  • 「私は誰かとつながりたい」というだけのことなのか - 横浜逍遙亭

    私は子供の頃から、そのとき読み進めているお話の影響を受けやすいやつだった。影響というのは、筋書きや登場人物像に対してではなく、文体のほうの話。「かっこいい」とか思うと、すぐそれを真似して文章を書きたくなる。文章の楽しみというのは、最終的にはそこにある。広い意味でのレトリックにあるという世界観は、そのようにしていつの間にか身につくことになる。 そういう人間がtwitterを読んでいると、ブログの文体がtwitter風になるというのは自然と起こってしまうことのようだ。オチのない走り書きがふえるというのが、twitter風の意味するところで、そもそもブログの文章には「いま考えていることを、ともかくアップしてみる!」といったところがあるから、明らかにその延長線上、その蒸留水のような話ではある。だから、まるで不思議でもなんでもない。でも、これ自体が典型的にそうなのだけれど、こうした構成(観、あるいは

    「私は誰かとつながりたい」というだけのことなのか - 横浜逍遙亭
  • 梅田さんの「残念」について - 横浜逍遙亭

    梅田望夫さんが、はてなブックマークには馬鹿なコメントが多すぎると発言したり、Webメディアのインタビューで、『ウェブ進化論』以降の日での成り行きにがっかりしたという趣旨の発言をしたことに対し、多くの批判がブログ界に巻き起こった件については、興味を持ってそれらの反応を読んだ。あまり上手に咀嚼できている気はしないが、僕が理解した限りでは、梅田批判の視点は幾通りかに分類される。 第一は『ウェブ進化論』の記述内容や論理展開に納得がいかないというものである。これは『ウェブ進化論』刊行直後からウェブメディアやブログ上で見られた意見であるが、この亜種ないし発展系として、梅田さんが言うとおりになっていないじゃないか、あれは単なる理想論、絵に描いたに過ぎなかったんじゃないかというものがある。これが一つ目。 二つ目は梅田さんが「残念」と語ったことが転向であり、そのこと自体が残念である、あるいは許し難いとい

    梅田さんの「残念」について - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2009/07/21
    私も「前向きの誤読」をしていて、後日、梅田さんの「上の子たちのために書いた」というインタビュー記事を読んで、ガツンとやられた覚えがあります。
  • タングルウッド音楽祭 - 横浜逍遙亭

    先ほど気がついたのだけれど、あと一月少々でアメリカ駐在を終えて横浜に戻ってからちょうど10年が経つ。僕にとっては「Only Yesterday」であるはずなのだが、しかし、そこに10年というレッテルが貼られると、とたんに時の容赦のない力が動き出すような気がする。10年前には小学校の1年生だった末の子供が、4日後には高校生活最後になるかもしれない野球の試合を戦う。どんなにそれが昨日のことにすぎないと頑張ってみても、時の勢いはとどめようがなく、気がつけば10年前の出来事は、すでにその多くが霞の向こうに消えつつある。 ボストン近郊在住の三浦真弓さんのブログでタングルウッド音楽祭のエントリーを拝見した。 ■タングルウッド音楽祭オープニングウィークエンド(『オペラ・オペレッタ訳詞家の書斎』2009年7月5日) 霞の向こうから、ニューヨーク生活最良の一コマが蘇ってくる感覚に出会えた。自分にとっては思い

    タングルウッド音楽祭 - 横浜逍遙亭
  • 次第に収まるところに収まるような - 横浜逍遙亭

    ブログを覆っていた目新しさの空気がtwitter、その他の新しいサービスに流れていく中で、ブログの見え方が急速に変わってきた。つながることを支援し、それを実現する機能は、ブログよりもtwitterの方が何倍も優れている。サービス間の役割分担が進むと、ブログは、これからもっと落ち着いたメディアになっていくだろう。祭りの熱気は去りつつあるが、地に着いた利用は進むのではないか。これは、とてもよい傾向なのではないかと思う。

    次第に収まるところに収まるような - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2009/07/09
    ブログとtwitterの両立、使い分けについての一つの示唆をいただいた。
  • twitterについてもう少し - 横浜逍遙亭

    昨日、twitterについて感想を書いたところ、三上さんからトラックバックを頂いた。三上さんが奄美旅行で体験されたディスコミュニケーションという主題をtwitter的営為の対極に置いた、それはそれは強力なトラックバックである。三上さん、ありがとうございました。 三上さんはtwitterについて、次のような感想を書いてくださった。 それはいわば微分的なコミュニケーションの非主体的な連鎖を誘うよくできた仕組みだと思う。言い換えれば、主体化、主題化する以前の短い言葉が圧倒的な量に到達して何らかの質に転化することをも期待させるひとつの実験のようなものだとも思う。しかし、それに参加する人格、「twitterをやる自分」は十分主体化、主題化してしまっているところが見え透いてつまらないと感じる。 コミュニケーションの機能に「自分はこういうことを考えている」という意見の表出を行う部分と、言葉を紡ぐことによ

    twitterについてもう少し - 横浜逍遙亭
  • twitterはやばいと思った - 横浜逍遙亭

    使い始めてたったの三日間、短い英語のフレーズを数回ポストしただけなのだが、twitterはちょっと危険な道具だなと直感、積極的に使うのは止めることにした。 ブログのよいところを突き詰めると、twitterに行ってしまう。それはたった2,3日でもうっすらなりと実感するところがある。文章は短く、むしろ断片的であることを旨とする。形態はブログからさらに簡素で、シンプルなものに変化しているが、そこには可能性として、論理も、情報も、利益も、情緒も、レトリックも存在する。そして、速い。脳髄の中の、電気信号発火の原型をとどめるような素直な言葉が、サービスの画面にちかちかと点滅する。さらに、自分の文章が他人の文章の中に紛れ込んで見えるというビューワーの形態が、一つ一つは単純なコメントであるはずなのにコミュニケーションをよりネットワーキング的なものにする。たかだか10人弱のはてな仲間を“follow”しただ

    twitterはやばいと思った - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2009/06/17
    見事なtwitterへの誘惑。
  • 板東さんと半年ぶりに会ってtwitterの話なんかをした - 横浜逍遙亭

    昨日、板東さん(id:keitabando)が勤め先に訪ねてきてくれた。My Open Archive関連のミーティングで上京した合間を縫って、わざわざ足を向けてくれたのだ。 板東さん、相変わらずあの笑顔と颯爽の風情である。エネルギッシュに電脳空間を使い倒している様子を人から聞いて、「やってるねえ」と感心しきり。 けっこう長い時間twitterが話題に上った。板東さんの話を聞いていると、それなりに面白そうだし、ブログを始めた時みたいに「やってみなければ分からないので」という気持ちは湧いてくるのだが、相当使わないと利点は実感できないかも知れないという板東さんのアドバイスを聞くと、これ以上電脳時間を増やせない身としては、格的な活用は難しいかなとも思う。Facebookも登録はしてみたものの、さわっちゃいない。 それでもいちおう登録はしてみた。まだ、何も書いていない。ほんとうに使うかどうかは

    板東さんと半年ぶりに会ってtwitterの話なんかをした - 横浜逍遙亭
  • 諦めないぞ - 横浜逍遙亭

    子供の頃、日の国は田舎でダサイなあ、日人はかっちょわるいなあと思っていたが、コミュニケーション下手という点では、我が祖国はますますひどくなり、格好悪くなっている。 我々の親の世代は、田舎くさかったかもしれないが、それを田舎くさいというのなら、田舎の流儀でしっかりと他人と挨拶ができたとは言ってよいだろう。それがいまや、いい歳した親父やおばはんですら、他人とはまとも話ができないし、したがらない。我が家にほど近い、信号機のない横断歩道で、歩行者の私のために止まる車は10台に一台もおそらくない。まれに、歩行者優先で、こちらを通してくれる運転者の方に出会うと、そんなことしなくてもいいのに「ありがとうございました」と心の中で深々とお辞儀をしてしまう。そのこと自体に、また苦笑しないではいられない。 といった、ダサイNipponではある。ブログやネットも似たような大状況であるらしい。しかし諦めないぞ。

    諦めないぞ - 横浜逍遙亭
  • 村上春樹の新しい本 - 横浜逍遙亭

    木曜日、金曜日と書店を6店舗ほど見て歩きましたが、どこも村上春樹の新作だらけで、明るい黄色と緑の表紙に彩られた二巻の山を見ながら、いろいろと俗っぽい商売のことを考えました。 どの書店でも、「これでもか!」といいたげに、うずたかく積まれたのどれほどが最終的に消費されるのか。少し立ち止まってレジに商品を持って歩く人たちを眺めると、実に多彩であることが分かります。私と同じ中年男性が少なくないのが、短時間の観察で印象に残った点でした。 消費されるには、一冊々々どれも同じテキストが書かれています。一つとして違わない工業製品ですが、著者と読者の関係は読書体験の数だけさまざまなバリエーションがあるのは不思議なことです。私などは、そのことを通じてキリスト教の神様と人間の関係がそういうものなのだろうと想像したりしてしまいます。 読者の自分に帰って、さてどうしようと、このところ村上が出るたびに経験する

    村上春樹の新しい本 - 横浜逍遙亭
  • ウィーン - 横浜逍遙亭

    先日、茂木健一郎さんの『クオリア日記』でベルリンや、ザルツブルクや、ウィーンを訪れた話が紹介されているのを読んだ。それら三つの場所には記憶の断片となって残る個人的な落とし物がある。ベルリン。ザルツブルク。ウィーン。三つの土地の名前に脳が反応し、私は明け方の夢を見る。ウィーンに行って、もう帰らなければならない、帰りたくないと思っている夢だった。 夢の中でウィーンと理解されている場所は、しらふの頭で考えると、現実のウィーンとはかなり異なる場所で、しかし、今の自分にとってウィーンとはそういう場所なのかもしれないという程のいびつな広がりと狭さの表現となっていた。ウィーンという言葉が喚起する独特のクオリアから遠い夢のウィーンを思い起こしながら、ウィーンのことを考える。 最後に行ったのは、おそらく90年の前後で、そのときには、音楽を聴くために出かけたわけではなかったのに、運良く国立歌劇場でムソルグスキ

    ウィーン - 横浜逍遙亭
  • [ブログ]はてなのサービス雑感 - 横浜逍遙亭

    久しぶりにちゃんとはてなの「Myはてな」のページを見たら、デザインとともに機能もいろいろと追加があって、☆に彩色ができるようになったり、「ファン」「フレンド」などの設定が設けられていたり、書き込み日数に応じて金・銀・銅といった区別がなされていたりとユーザーをやる気にさせるさまざまな工夫が追加されていた。 ブログの楽しさは、著者の高みから読者を見下ろすような書籍とは異なり、情報を発信する者が情報を受け取る者でもあるコミュニケーションの仕組みにあると思うので、はてなの工夫は「プラチナ・金・銀・銅」以外は基的に賛成である。でも、一方から他方への承認が「ファン」で、それが双方向になると「フレンド」で、という言葉づかい一つが、なにかお仕着せのにおいを帯びるというか、裃を着た感じになるというか、自然な交歓の回路にある種の色を付けるような感じがしないでもない。Fecebookなどの言葉遣いも同様である

    [ブログ]はてなのサービス雑感 - 横浜逍遙亭
  • 片付け - 横浜逍遙亭

    この週末、小さな片付けをすることになり、のいくつかや、取ってあった古い書類の類を捨てた。以前、駐在をすることになったときに思い切ってかなりのを処分したつもりになっていたが、やはり捨てられない一群がある。今回は、学生時代に使った教科書や、昔仕事で関わった報告書の類や、生まれて初めて海外旅行をした際に手元に残ったパンフレットや地図や、そんな色あせた紙の束のかなりの部分をまとめてゴミにすることにした。20代前半に書いた友人への手紙の草稿や、日記の切れっ端などまるで記憶から消えていた文章が出てきたのにはびっくりし、いまと文体があまり変わっていないのを確認して「やれやれ」と苦笑してしまった。 結果として、狭いマンションの押し入れの隅を占領していた箱が四つから一つになり、棚一つに収まる量になった。中には捨てようと思って、やっぱり棚に戻した串田孫一(僕が持っている串田の最後の一冊)や、もう一

    片付け - 横浜逍遙亭
  • ともだち - 横浜逍遙亭

    一年ぶりに友人と呑んだ。アルコールは大好きだけれど、数値を計ると生来肝臓や膵臓の機能が弱いらしい。だから量はからきしで、あっという間に気持ちよくなってしまう。昨日も数杯の焼酎でさんざん酔っぱらったが、このときの気持ちよさの源泉は焼酎のおいしさではなかった。 若い頃は「自分のことを分かってくれる」のが友達、「お互いを理解し合える」のが友達なのだと思っていた。ところが、この定義を掘っていくと、相手の理解できない部分に出会ったときに「あれっ、自分と違う」と困惑し、信頼の基盤と思っていたものが魔法のように消えてしまいそうになる。大人になってしまうと、そんな素朴なもたれ合いには慎重になり、だから友人を作るのはそんなにやさしいことではなくなっていく。 最近はこんな風に考えるようになった。相手が持つ自分にはない何かに対して敬意を払えるか、自分との違いを尊敬できるか、あるいは面白がれるかが相手を友達として

    ともだち - 横浜逍遙亭
  • 梅田望夫さんにお会いする - 横浜逍遙亭

    『ウェブ進化論』の梅田望夫さんにお会いした。勤め先のお客様向けイベントにお越しいただきご講演をいただいたのだ。僕はこのクローズドなイベントの主催者の片割れであったこともあり、ご講演の具体的な内容についてここで紹介するのはご勘弁いただくことにして、一言小さな感想を書き記しておきたい。 梅田さんのお話は、ITの世界でのグーグルに代表する“あちら側”の勃興と“あちら側”対“こちら側”の相克を分かりやすく説いてベストセラーとなったご著書『ウェブ進化論』をもう一度講演でなぞるようなものではまったくなかった。だから、「どんなことを書いているのか、この際、直接著者の話を聞いてみよう」ともくろんで出かけてきた聴衆がいたとしたら、その人はかなり面らったはずだ。梅田さんのお話はそうではなくて、『ウェブ進化論』に対する我が国読者の反応を中心に日(の産業)社会と文化の実相を炙り出すこと、そこに聴衆の注意を喚起

    梅田望夫さんにお会いする - 横浜逍遙亭
  • なべて世はこともなし - 横浜逍遙亭

    梅田さんのエントリーのコメント欄、はてなブックマークが普通ではないことに一昨日やっと気がついた。僕自身は「これって同僚のK君が絶対に読んだ方が良いと力説していた『新潮』のやつだな。梅田さんは今回はとくに力が入っているな」と数日前に☆をつけたはずだったのだが、とんでもない数のブックマークがついていることにはそのときにはまるで気がつかなかった。 水村さんのは読んでいないので、それについては今日はコメントすることはできない。そのうち読んでみたいとは思っている。それにしても「はてブ」には、明らかに梅田さんが取り上げている水村作品を読んでいないと思われる人たちからの批判めいた品のない言辞が書き連ねられている。これはいったいどうしたことだろう。何がそうさせるのか。 それらの批判のほとんどは、端的に言って、水村批判ではなく梅田批判の色合いが強いように見える。僕の周囲にも、あからさまにではなくても、梅田

    なべて世はこともなし - 横浜逍遙亭
  • 天国があってくれたら - 横浜逍遙亭

    前回の話の続きになります。 というのも、日常活動のあれからこれへと移る合間に、自然と夏休みの学校で墜死した子のことを考えてしまうからです。こういうのは大江健三郎が一時期好んで使った「悲嘆(grief)」という感情に近いのだろうなと思ったりもします。息子が行っている学校では2学期が始まる9月の初旬に体育祭があります。年に一度の生徒たちにとって最大の行事で、受験で忙しいはずの3年生が先頭に立って学校中が盛り上がります。報道によれば、亡くなったお子さんは、友達数人と、この体育祭の応援について相談するために教室に集まっていたそうです。仲のよい友達と楽しく盛り上がるうちに気分がハイになり、廊下で走る速さを競う遊びを始める。それが事故という結末に結びついた。そういうことらしいのです。それにしても、かわいらしいと思いませんか。夏休みに友達と体育祭の応援について相談する。ふざけて廊下を全速力で駆ける。高校

    天国があってくれたら - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2008/08/16
  • オリンピック雑感 - 横浜逍遙亭

    オリンピックは見たり見なかったり。子供の頃のように狂喜乱舞したり、茫然自失に陥ったりしながら日選手を応援することはなくなったが、なんだかうきうきする心の状態は変わらない。昨日、一昨日と、眠くて仕方なかったのに野球のキューバ戦、台湾戦は続けて見た。 アメリカにしばらくいたときにアトランタ五輪があり、日から出張してきた人が「アメリカでは柔道の試合中継がない。ニュースでもまったく取り上げない」と怒っていたのを思い出す。そりゃあ、アメリカ人が柔道なんか見ないよとは思ったが、口にするとますます気で怒り出しそうな気配なので言葉を返すのはやめたっけ。それは日人がボートや自転車競技を見ないのと一緒、フェンシングを見ないのと一緒で、競技人口がほとんどなく、自国のスターがないとなればメディアが取り上げるべくもない。逆に野球で騒いでいる国なんて、世界的に見れば例外中の例外。ほとんど誰も注目していないに等

    オリンピック雑感 - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2008/08/15
  • ゴミ箱の蝉 - 横浜逍遙亭

    夜半に我が家のベランダで大きな声を立てていた蝉が、洗って乾かしていた円筒形のゴミ箱の中にぽたりと落ち込むのを見た。寝る直前のことだ。あんなところに入りやがったとは思ったが、とくに気にすることはなかった。 ところが、その円筒形は蝉にとっては思いの外大きな深みだったらしく、寝入っている間、周期的にじたばたと大きな羽音を立てる。助けてやろうという気はあるのだが、眠気の方が勝って体が動かない。結果的には夜の間、じたばた、じたばたという音を聴き続けていた感があり、なんだか気分が疲れてしまった。 朝の6時にゴミ箱をひっくりかえしてやったら、いっときコンクリートの床の上でじっとしていた蝉は、意を決したかのようによたよたと夏の大気の中に飛び出していった。だいぶ体力を消耗したんじゃないだろうか。 蝉に自我があったならば、恐怖と苦痛の一夜だったろう。もしかしたら、彼にもそれに類したものが備わっているかも知れな

    ゴミ箱の蝉 - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2008/08/11
  • 今日も人身事故 - 横浜逍遙亭

    品川の駅に降り立ち、山手線に乗り換えようとしたら、池袋で人身事故発生中のアナウンスあり。救出の最中で外回りの電車がしばらく動かない模様だという。仕方がないので、目黒まで歩く。山手線の一駅はバスの停留所に毛が生えたぐらいの間隔しかないが、それでも3駅分となるとしっかりと汗をかき、目が覚めた。 人身事故で電車が遅れるたびに、このレールの先で誰かが死んだり、ひどい傷を負ったりしている事実を自覚させられるわけだが、それが自分の知り合いでもないかぎり、「電車が遅れる」以上の感慨を持たないように我々の感情は飼い慣らされている。ということを考えることに苦い味がするが、この苦さは最初に感じる一口よりも少し複雑だ。

    今日も人身事故 - 横浜逍遙亭
    mayumiura
    mayumiura 2008/08/09
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