教育 表題のとおり。「異文化理解」というのは、よく考えると意味がわからない。さらに、「異文化理解教育」というのももっと意味がわからなくなってくる。 ま、こういう形容矛盾が起こるのは、「異文化」および「理解」という語義の曖昧さ(i.e.テキトーな使われ方)を反映しているんだろう。 《異文化にいる人々に対して寛容な態度を育みましょう》ということだったら、「思いやり教育」でいいはずだし。《外国の文化を知って広い視野を持ちましょう》ということだったら、「世界地理(地誌)」でいいはずだ。 《自分は究極的には「異文化」を理解することはできない。(「できる」だなんておこがましい)》という自己省察的な態度を持った上で、《自文化*1の中に、異文化が混在していること;自文化の雑種性・混淆性に気づく》という方が妥当な線じゃないだろうか。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く