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フライング・レザーネック海兵隊航空博物館のHPを検索していて 一人の帝国陸軍軍人にまつわる資料を見つけ、わたしは強い衝撃を受けました。 彼は、フィリピンにおける日本軍の侵攻を阻止する アメリカ海兵隊の航空機に乗っていました。 捕虜として捕らえられたこの日本軍の士官は、 アメリカ軍に日本軍の位置と状況を語り、攻撃に協力していたのです。 1945年8月9日、長崎に第2の原爆が投下された日、 海兵隊爆撃隊VMB-611のPBJ-1Dミッチェル爆撃機と 海兵隊戦闘隊VMF-115のF4Uコルセア戦闘機は、 ミンダナオ島ザンボアンガのモレット飛行場から 帝国陸軍原田中将の司令部への攻撃に向けて離陸準備をしました。 先頭機のパイロットは3人の変わった乗客の名前を フライトマニフェストに追加しなければなりませんでした。 陸軍の地上連絡将校兼攻撃調整官のモーティマー・ジョーダン少佐、 通訳のチャールズ・イ
三六式無線のときにも少しお話ししましたが、日本海海戦において 情報の伝達が非常にうまくいったことの一つの要因として、 海底ケーブルがその一助を担ったということがあります。 「児玉ケーブル」とも言われたこの国産初の海底ケーブルは 以前にもお話ししたこの軍事、政治、経済、産業、全般にたいし オールラウンドな才能を持っていた児玉源太郎によって敷設されました。 先日その「NHK史観」について少し苦言を呈した形の「坂の上の雲」 では高橋英樹がこの大物を演じています。 秋山好古が陸軍大学の学生である時に、校長職にあったのが児玉でした。 「坂の上の雲」では、ドイツ軍大モルトケの推薦により派遣された クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル少佐が陸軍大学校教官として、 秋山好古らを厳しく指導する様子を微笑みを浮かべて見守っていましたが、 メッケルを招聘してきたのも「臨時陸軍制度審査委員会」委員であった児
ちょっと今日は息抜きに変わった話題をお届けします。 先日、息子が学校で科学のプロジェクトに「火山」というお題をもらいました。 息子の学校では歴史や科学に、研究課題が出され、それについて調べて 一冊の冊子を作るというような授業が行われるのですが、一つのテーマについて掘り下げ、 文章をタイピングし、必要であれば図面や写真を盛り込んで、 まるで大学でやるような研究(学習ですけど)レポートを書き上げるのです。 先生は一つ一つのレポートに目を通すのですが、Wikipediaなどの規制の文章を コピーアンドペーストすることは絶対に禁じられていて、一つでもそれがあると 点数が貰えません。 「そんなのどうやってわかるの」 「わからないけどそういうの探すソフトでもあるんじゃない?」 今の時代、先生も丸ペケだけで点数をつけていればいいわけではないんですね。 愚息はこういった研究課題形式のものが得意で、いつも高
潜水艦見学で、艦長と挨拶をした後一緒に写真を撮ってもらいました。 わたしが艦長に傘を差し掛けていますが、これはもちろん撮影の時だけです。 この艦長がいつから務めているのかwikiを調べてみたところ、 艦長は艤装艦長から現在まで9年間勤務していることになっていました。 9年前ということはこの艦長がまだ確実に20代の頃のことなので、 おそらくwikiの書き換えがまだ行われていないということのようです。 さらに調べると、 wikiで艦長とされる人物はすでに一佐になって幕僚に名を連ねておりました。 もしかしたらこちらの艦長は、着任されたばかりなのでしょうか。 この後、艦長はいなくなり(どうやら挨拶のためだけに登場したらしい) 説明は当艦の広報担当らしき方、もう一人、 そして写真を撮っていた方、海曹などが同行して艦内に入り、 案外広い(というか妙に落ち着く)士官食堂でレクチャーを終了しました。 「以
「今台湾にいます」 と旅行しながらブログでそのようにアナウンスしたところ、 いくつか「今まで台湾に行ったことがある」という方々から アドバイスやコメント、あるいはご提案をいただきました。 在台中に総統府の見学をしたかったのですが、総統府は 土日は公開していないことを知り、さて最後の日曜日、 台南から帰ってきて半日どうやって過ごそうと考えていたとき、 ある読者にこの「忠烈祠」のことを教えていただきました。 コメントによると 「中尉がもし行かれるなら、必ずや又様々な感想を持つと思います」 その理由は「台湾の靖国神社みたいなものなので」 お察しの通り、その一言で即見学を決め、調べると、 最後の衛兵交代儀式にちょうど間に合う時間。 さっそくタクシーで現地に向かいました。 いかにも中華圏の建物。 衛兵の交代は1時間に一度。 もうそろそろ始まるので人が集まり始めています。 この入口に立っている二人の衛
わたしがいつぞやネットを探して古本屋で見つけた 元海軍主計中佐、瀬間喬著「日本海軍生活史話」は、旧海軍の「食」に関する あらゆる資料が掲載されている労作(昭和60年発行)です。 食べることはある意味戦闘以前に軍隊にとって重要な一事であるため、 それらを司る役目である主計は重職であり、その元主計士官によって集められた資料は 海軍に留まらず戦前の日本の「食」のあり方を窺い知る貴重な記録となっています。 んが、ありがちなことですが、実際のところ日本海軍は糧食、補給、廚業に対し まともな関心を払わぬことが多かったようです。 この著者である元海軍主計中佐に言わせると、糧食に関することは主計科に丸投げで、 肝心の主計科士官たちの中でも、本流は会計経理に進むため、 衣食に携わる主計業務は蔑視に近い軽視という扱いを受けていたというのが実情だったそうです。 それでは陸軍はどうだったかというと、なぜか海軍より
右手骨折のリハビリ期間ですが、イラストも久しぶりにやってみました。 復帰第一作が佐村河内ってのはどうよ、という声も(自分の中で)ありますが、 まあ、この程度の雑な絵なら無理もせずちゃっちゃと描き上げられるようになりました。 本当にデジタル絵画の技術とはありがたいものです。 さて、おそらく日本のクラシック音楽界空前絶後のスキャンダルといえる この事件については皆さんもご存知のことと思いますので ここで改めて説明することはいたしませんが、世にあふれる意見の中で 音楽が分かっていないと陥りがちな誤解があると感じたので、少しそのことをお話しします。 医者や弁護士、自衛隊もそうでしょうが、ドラマで描かれる特殊な世界は ほとんどがその当事者から見ると「ないわー」ということだらけで、 所詮その中の世界はその中の人にしか完璧に理解できるものではない、 ということを、おそらく「中の人」たちは日々実感している
昭和16年12月12日、開戦5日目。 彼らは第11航空艦隊第21航戦第一航空隊員の陸攻機乗り組みの八名でした。 台湾から比島攻撃に参加して不運にも敵弾を受けて不時着します。 「不時着ならば当然自決だろう。彼らは生きてはいまい」 同行機の報告を受け、司令部には「全員戦死」の報告がなされます。 ところがその23日後、彼らが生きていたとの報告が入ります。 彼ら八人は、不時着後原住民に取り囲まれ、そのまま縛りあげられたので、 自決もできないまま捕えられマニラに送られます。 その後解放されたのでした。 戦友は当初無邪気に歓迎しましたが、 「武人の誇りを汚した」と司令部から判断された彼らに与えられたのは、 階級章を剥いだ軍服でした。 ことを内密に運ぼうとする上層部の意向で八人は戦友からも隔離されてしまいます。 何度か行われた査問会議の備忘録が今日残されていますが、 それによるとその結果は「あらためて死
喩えは悪いですが、まるゆ、陸軍輸送潜水艦は、まるで女性(陸軍)が男性(海軍)に 内緒で産んでしまった私生児のようなものでした。 「海軍に言うと反対されるから、海軍には極秘で作れ」 「海軍の助けは借りずに、陸軍だけで作れ」(BY東条陸将) これをこのような場合の女性のセリフに当てはめると 「言うとやめろと言われるから、黙って産んだの」 「あなたの助けは借りない。一人で立派に育てていくわ」 ね? ある日男は、見たことのない、何だか妙な女の子が近所をうろうろしているのに気付きます。 「なんじゃあれは」 女の子は、似ていると言えば自分に似ているのですが、全てが変わっています。 女性が自分に内緒で産んだ子供だと知りましたが、男の娘たちは、まさかこの 「醜いあひるの子」が、自分の妹だとは思わず、 「みっともないコねえ」「ちょっとあんた、このへんうろうろしないでよ」 と喧嘩を吹っ掛けることもありました。
その計画を当初から海軍に秘匿して、まったく陸軍だけの手で作り上げ(ようとし)た、 陸軍潜水艦、まるゆ。 まるゆというそのかわいい響きにより一層涙をそそられるのですが、 正式?には、本日画像のように丸の中に「ゆ」の字が入るのです。 マル秘記号と同じですね。 (ユニコードの出し方がわかりませんでした)orz 一部海軍の高官に対して公開実験という形でお披露目をしたものの、 世間的には全てが鉄のカーテンの中。 というか、あまりにごく一部の部門を動員して作られたので、その存在を知る者は 一般は勿論、海軍にも皆無と言っていいほどいませんでした。 苦難の末計画立ち上げからあっという間に完成、 いつの間にかその姿を現した陸軍潜水艦。 その後も徹底した防諜網を張ったため、その航行中、 その存在を知らない各方面から、様々な扱いをされることになりました。 まるゆは昭和19年7月、マニラ方面に 23日の予定のとこ
一か月以上前になりますが、この漫画を描き上げたとき、 間違って本文もないまま漫画だけを一瞬ですがアップしてしまいました。 はっと気づいてすぐログから消したのですが、次の日にはなんと、 何十人もの閲覧記録がついているではありませんか。 エリス中尉、粗忽なのでときどき制作途中のログを間違えて投稿してしまい、 慌てて消去したということが過去何度かありましたが、実に不思議なことに ごく短い間(一分以内とか)に修正しても、必ずその間に誰かがクリックし、 必ず何人もがそれを目にするんですね。 したがって「これ見るの初めてじゃない」という方、 あれは事故で、今日が本番であるとご理解くださいませ。 「ブラックアウトシリーズ」 で、いきなりとんでもない酒豪ぶりと酒の失敗についネタにしてしまいましたが、 板倉光馬海軍少佐(兵学校61期)は艦長としてとんでもない強運の持ち主でもありました。 前にも「どんがめ下剋
いつもと違うタッチで、ヨノイ大尉にジャック・セリアズがキスをするシーンを描いてみました。 実は最初いつものようにカラーで、4割仕上げたとき、突然画面が機能停止で消えてしまいましてね。 こういうときはゼロから同じことを繰り返す気にならないものです(よね)。 そこでいっそ全く趣向を変えてスケッチ風で仕上げることにしました。 手作業で斜線をかけて画面を覆い、色ヌキとシャドウで陰影をつけています。 何だって27年前のこの映画を今頃取り上げているのかというと、 今ボストンにいるのですが、たまたまこのDVDを見つけたのでちょっと嬉しくなって買ってみたのです。 何年かぶりに今回「字幕無し、日本語部分のみ英語字幕」で観たわけですが、 昔一度観たとき感じたことを思い出しました。 「日本語にも字幕が欲しい・・・・」 そう、今回思ったことは 「英語にも字幕が欲しい・・・・」 それにしても凄い映画です。 だって、
前回、「ザ・サリヴァンズ」の第二次世界大戦中の対空戦闘について、 太平洋戦線の途中までの戦歴を追ってみました。 「ザ・サリヴァンズ」シリーズ最終回の今日は、彼女の対空戦闘、 主に日本の特攻機との交戦について、実際の特攻出撃記録を見ながら 辿っていきたいと思います。 【1944年10月〜悪夢の台湾沖】 台湾と沖縄を空襲する空母を護衛していた「ザ・サリヴァンズ」は ここで初めてというべき熾烈な航空戦を経験します。 レーダーが最初の日本軍機1機を発見したのを皮切りに、6時間、 約50〜60機が米機動部隊に絶え間ない航空攻撃を浴びせ続けました。 日没になってからも一式陸攻「ベティ」がやってきてこれを撃墜。 その後5機を撃墜。 この日は1日中対空射撃を続けていたことになります。 12日の2105から日を跨いで13日0235まで、 日本軍の航空隊は、アメリカのレーダー通信を妨害するために 「チャフ」を
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