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台風12号の上陸とともに読みはじめたメルヴィルの『白鯨』3巻を、先日の台風13号の上陸を前に読み終えた。 終わり近くで、エイハブ船長率いる捕鯨船ピークオッド号もまた台風に巻き込まれるのを台風13号の訪れを前にしながら読み進め、3巻合計1200ページ強を12日かけて読み終えたのだった。 読みはじめたばかりの頃に別の場所でも「鯨の語源」という記事で書いたが、この『白鯨』という小説、所謂「小説」と思って面食らう。小説でもあるが、百科全書的なのだ。 全135章から成る作品中、ストーリーを前進させるのとは無関係に挟まれる鯨関連の知識を伝える章はどれだけあるだろう。 鯨という言葉の成り立ちを問う「語源」をはじまりに、旧約聖書からプリニウスの『博物誌』という古代から、モンテーニュの『エセー』やシェイクスピアの『ハムレット』、ホッブス『リヴァイアサン』やミルトン『失楽園』というルネサンス以降の文学や、クッ
本のなかには時に、何冊もの他の本へと誘ってくれるキーとなる本がある。 田中純さんによる『都市の詩学』という一冊もそうだ。 これまで、この本を起点として読んだ(読み途中のものも含め)本には、カルロ・ギンズブルグの『闇の歴史』、中井久夫『徴候・記憶・外傷』、ホルスト・ブレーデカンプ『ダーウィンの珊瑚』、アルド・ロッシ『自伝』の4冊がある。 どれも『都市の詩学』のなかで紹介されていて読んでみたくなった本なのだが、共通点があるのに気づいただろうか? どれも記憶あるいは歴史といったものを扱っているということに。 ギンズブルグと中井さんの本にはそれぞれタイトルに「歴史」や「記憶」があるからいうまでもないし、ダーウィンを扱ったブレーデカンプの一冊が進化論という大きな自然史を扱っていることもわかるだろう。そして、アルド・ロッシの『自伝』は彼の自分史である以上に、建築の記憶を探る本であったりする。 『都市の
ヨーロッパ中世というのは実におもしろい時代だと思う。 そのことは1つ前の「中世の秋/ホイジンガ」でも紹介したが、今回紹介するジョルジョ・アガンベンが『スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ』で描く、中世の人々の思想世界もなかなか興味深い。 例えば、「中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映し出された似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむ」とアガンベンは書いている。 場合によっては、中世において愛は病とさえ考えられている。 「アモル・ヘレオス」という愛の病。 モンペリエ大学の教授ベルナール・ゴルドンは、1285年頃の著書『医学の百合』で、「アモル・ヘレオス」を「女性への愛によって惹き起こされるメランコリックな苦悩」であるとし、この病気の原因は、「姿や形に強く印象づけられたことによって、判断力が麻痺してしまう」ことにあるとしている。 「誰かがあ
そもそも人間はそう簡単に自分の外にある対象を自分の中に受けとめることができないのだろう。 いま多くのことを理解しているつもりになっているとしても、それは歴史上多くの人たちが苦労を重ねて理解できるようにしたことを単に、その理解の結果を借用して自分で理解したかのようなつもりになっているだけのことだ。 そうした積み重ねがまだ不十分であったヨーロッパ中世の人々は、いまよりはるかに少ない理解で、世界、社会で起こる様々な出来事を受け止めなくてはならなかったのである。 その前提に立って中世の人々の様子を眺めれば、それがどんなに今と懸け離れた奇妙なものに映ったとしても、仕方がないと考えられるのではないだろうか。 何か理解していないことを理解した状態に移行させるのにも、それなりに労力がいる。 その労力をかけて何か新しいことを理解するかどうかは、かかる労力と労力をかけて得られる価値を天秤にかけて判断しているの
2018年、こちらのブログの書き始め。 noteの方にも書き始めたので、年末年始そっちばかり更新していたせいもあって、気がつけばもう19日。 noteのほうもよろしくです。 → Hiroki Tanahashi | note さて、今年はゲーテの『ファウスト』からはじめていたい。 昨年の最後の記事に書いた通り、2018年はゲーテについて考えてみようと思っている。 なぜ、ゲーテなのか? まず、詩人、劇作家、小説家としてドイツを代表する文豪である一方、色彩論や生物形態学、地質学などの分野で自然科学舎としても後につながる功績を残し、また、26歳で移ったヴァイマル公国で政務にも関わるようになり、33歳には公国の宰相にもなっている多才なゲーテという人について興味がある。 文学と自然科学、そして、政治という今ならつながることがほとんどありえなさそうな領域横断を一身で体現した、その思考の有り様と、それら
ゲーテの『ファウスト』を読み始めた。 来年前半はゲーテについて、あらためてちゃんと知っていこうと思っているので、その第一歩。 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに興味を持っているのは、彼が、詩人、劇作家、小説家という文学の人という側面をもつ一方、色彩論、形態学、生物学、地質学といった広範囲にわたる自然科学者としての側面をもっているからだ(もうひとつ政治家という面もあるが、そこは問わない)。 そして、その両側面にまたがる功績を残したゲーテであるがゆえに、例えば、彼の色彩論研究からは、生理学とという自然科学の分野と、印象派という美術の分野での2つの新しい思索のカテゴリーが生まれている。 ゲーテとショーペンハウアーとが主張した、観察者に新たなる知覚の自律性を与える主観的視覚は、観察者を新しい知や新たなる権力の諸技術の主題=主体にすることと軌を一にしてもいた。19世紀において、これら二つの相互
『歴史の地震計:アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』論』。 読み終わってから、すでに2週間以上経ったが、読んでいるときから、絶対に紹介しておかなくていけないと思った一冊。 そのくらい、この本の主人公、アビ・ヴァールブルクによる『ムネモシュネ・アトラス』という仕事の意味は、イメージと思考の関係を問い直す上で重要なものだと思うからだ。 このイメージと思考の関係を問わずして、2017年は終われない。 イコノロジー(図像解釈学)の祖として知られるドイツの文化史家アビ・ヴァールブルク。彼がその晩年遺したのが、971枚の図版を総数63枚の黒いパネルに配置した『ムネモシュネ・アトラス』と呼ばれる制作物である。 ヴァールブルクは、この制作物に関する説明を簡単なメモ程度しか残していないため、この図像群をどう解釈するかは多くの研究者たちが取り組んでいる。本書の著者、田中純さんもその1人。以前にも田中
イメージと思考との関係について考えることが好きだ。 言葉にならないものをイメージで表現するといったりする。もちろん、イメージを使えば言葉と異なる表現ができるのだけど、だからといって、イメージが表現しているものを言葉で説明することを怠ったりするのは、あまり好きじゃない。イメージを表現に使うにしても、その背後には思考があってほしい。とうぜん、それが言葉による思考である必要はないし、思考をイメージで表現するのではなく、イメージによる表現自体が思考であればいいのだけれど、そもそもの思考がないなら、それは好みではない。 むしろ、言葉にならないものを表現しているからこそ、イメージそのものが表すものについては、言葉で表現されたもの以上に言語化する方向で思考を巡らせたほうが面白いはずだ。 田中純『歴史の地震計』中の図版「ムネモシュネ・アトラス」のパネルの1枚 だから、アビ・ヴァールブルクの『ムネモシュネ・
人はどれだけ自分自身で考え、行動しているのか。 僕はそんなことを時折思い出したかのように、繰り返し考えている。 ある意味では、その問いを発し続けることが、僕の人生の1つの大きなテーマであるようにさえ思う。 でも、その問いはもうすこし正確にいうと、こうなる。 「人の考えや行動に影響を与えているものはどんなものなのか、それはいつから、そのように影響しはじめたのか?」と。 つまり、僕は人が自分で考え、自分で行動することなど端からないと思っているわけだ。僕の関心はむしろ、僕らは何によって考えさせられ、動かされているのか?ということになる。 だから、この『シェイクスピアの生ける芸術』という本の冒頭近くで、著者のロザリー・L・コリーがシェイクスピアのやったことについて、こう問いかけるのを読んだだけで、この本がすごく面白い本だと直観できた。 シェイクスピアにとって「アカデミック」とは、その濫用された語の
物事を総合的な視点で見ようとせず、ディテールばかりを見て論じてしまうがゆえに、議論が空虚なものになることは少なくない。議論されている全体を理解できないがゆえ、自分で見えている断片だけを取り上げて、そこだけから全体の評価を行おうとしたりする会話が多くなればなるほど、議論は無意味なほうに進む。 複数人の議論だけではなく、個人の思考においても、全体を見ずに、断片的に切り取った部分の集積だけで云々すると、訳のわからない妄想が生まれがちだ。もちろん、それをあえて文脈を外してスペキュラティブな問いを生み出そうとしているなどの意思があれば全然別の話なのであるが。 そんなことをロザリー・L・コリーの『シェイクスピアの生ける芸術』のこんな記述を読みながら思いだした。 文脈から切り離すことは、文脈を消滅させることと同じく、秩序正しい真実あれこれを壊すのに有効である。 ロザリー・L・コリー『シェイクスピアの生け
訳あって九鬼周造の『「いき」の構造』を読み返した。 本というものは面白いもので、どんなタイミングで読むかによって印象が大きく変わる。 今回はひとつ前で紹介したジョルジュ・バタイユの『エロティシズムの歴史』や『内的体験』、あるいは、シェイクスピアの『オセロー』や『アントニーとクレオパトラ』などを読んだばかりだったこともあって、ヨーロッパと日本における恋愛観や性の問題の捉え方、あるいは、自然観(人工観)の違いについて考えることができたように思う。 この本のテーマは、江戸期に生まれた日本人の美意識である「いき(意気)」であり、著者はそれを日本独特の美意識として捉え、哲学的な分析を行っている。 結論からいえば、著者は「いき」をこう定義している。 運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きるのが「いき」である。 九鬼周造/『「いき」の構造』 ようは男女の間(まあ、人によっては同性間の
以前に紹介した本、『形象の力』の冒頭、エルネスト・グラッシはこんな謎めいた言葉を綴っている。 人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的に釈放し、ぼくは自然から身を遠ざけ、ぼくは想像もできない距離を闊歩し、歴史がぼくを介して自然を突っ切り始め、ふいにぼくは気がつくのである、目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいることか。 エルネスト・グラッシ『形象の力』 ここで綴られていることは、今回、紹介する『エロティシズムの歴史』でジョルジュ・バタイユが「人間とは、自然を否定する動物である」というのと同じだ。 しかし、人間がどんなに自然を否定しようと、グラッシも気づいているように「目
難解で重苦しく、絶望的な暗さを響かせもする言葉に最近は惹かれたりする。 あまりに明快で、わかりやすく、それゆえに何も告げていない言葉はむしろ不快すぎて目障りだ。 明るく明解で合理的すぎる思考に魅力を感じないのは普段から変わらないが、それにしても、ここ1ヶ月くらいは普段にも増して、ドロドロとした粘着性をもった腐敗したような思考の外に遺棄されたようなものに臭いに引き寄せられる傾向がある。 企図されたもの。明らかすぎる知識。 わかりやすさについては、元よりまったく魅力を感じないし、かねてから社会の毒だと思っている。 それは単に人を惑わし奴隷にする手枷足枷でしかない。そんなものを喜んで自ら引き受けようとする人たちの気が知れない。 「決断とは、最悪のものを前にして生ずるもの、超克するものの謂だ。それは勇気の核心だ。そしてそれは企ての反対物だ」とバタイユはいう。企てという明るすぎる道のみを安全に進もう
人を動かすのにシステム以上に強力なもの、それは人が信じている概念(=コンセプト)であり、それを指し示す言葉なのだと思う。 だから、システムに沿って受動的に動いてもらうより、何らかの概念を理解してもらい、その概念の存在を信じて受け入れてもらったほうが人は主体的に動くようになる。その概念があまりに当たり前になって普段は意識することもないくらいに自然なものになれば、その概念に関連した行動はもはや自動的なものにすらなるだろう。 例えば、喫煙は他人の迷惑のかからない喫煙エリアで行うとか、性的指向は多様なのだから性的少数者の権利も認めるのは当然であるとか、それらはルールやシステムの問題である以上に、考え方、どのようなコンセプトをどう信じて行動する上での判断基準として用いているかという問題である。もちろん、人が信じる判断基準と現実のルールやシステムに乖離があれば、現行のルールやシステムを改編する必要があ
常々、思う。 たくさん知識をもっていることより、もっと大事なことがあるって。 もっと大事なこと。 それは新しい知識をどんどん手に入れ、自分でそれを扱えるようになる能力をもつことだ。 知らないことでも聞けば瞬く間に知っている状態に移っていける。 その力さえあれば、いま、どれだけ知識を持ってるかはそんなに関係ない。 だって、必要なときに必要なだけ一気に手に入れ、扱えるようになればいいのだから。 そう。その意味ではどんどん手に入れ、それを扱えるようになる力にはスピードがともなっている必要がある。 だったら、常日頃から知識を徐々に手入れておけばいいじゃないかって? いつ何の知識が必要かもわからず、闇雲に知識をたくわえておくというのはあまり意味がある気がしない。 もちろん、興味がある知識を常日頃から手に入れるのはもちろん意味がある。 だって、興味があって知りたいのだから、その欲望を満たせばいい。 で
シーザーなきあとのローマ帝国、三頭政治をしく3人の執政官のひとりアントニーこと、マルクス・アントニウスと、エジプト・プトレマイオス朝の女王クレオパトラが、ともに恋に身を滅していく様を描いたシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』。 その戯曲は、『シェイクスピアの生ける芸術』のロザリー・L・コリーに言わせると「身の程知らずの張喩」が目につく作品だという。 張喩、つまり、誇張表現。 それは先の引用でもみたとおりで、2人の間でも互いに交わされるし、2人を取り巻く人々も良い意味でも、悪い意味でも、2人のことを誇張した調子で表現する。 それゆえ、「アントニーは何をしても、「尺度を超えてしまう」かのように見える」し、クレオパトラを「我々は、彼女が礼儀に背いても、悪ふざけがすぎても、愚かな中年女でも、それでもなお魅力的であると感じさせられる」。 まこと、アントニーとクレオパトラは己れ自身について、ま
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 嗚呼、オセロー。何故、あなたはそんなに初心(うぶ)なのか? シェイクスピアの『オセロー』で、主人公であるオセローは愛する妻を、悪人イアーゴーに吹き込まれた妻の姦通というデマを信じて、愛するが故に殺害してしまう。 その後、妻の姦通がまったくの嘘であったことに知って、みずからも自害するという悲劇なのだが、そもそも、主人公オセローに妻であるデズデモーナを愛を語らせ、姦通の疑いから激昂させ、そして殺人にまで至らせるのが、軍人であるオセローの恋愛に対する初心さであり、それゆえにソネットなどの恋愛詩、恋愛文学の定型そのままに行動させてしまうことだというから悲劇以外の何物でもない。 無知であること。にもかかわらず、誠実でいようとする場合、オセローのような定型=ステレオタイプの罠にはまって
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、ちょっと調子が悪い。いや、体調ではない。 頭のなかをすっきりさせておくことがむずかしいと感じるのだ。 「保守的なものへの対処法」。 それがここ最近ずっと頭を悩ませてる問題だと思う。 この週末直前、その悩みは結構マックスになってて苦しくなってきてストレスフルなので、何かにすがりつこうと思って、思いついたのがマクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』。 有名な『メディア論』が書かれたのが1964年。その2年前の1962年に書かれたのが、この『グーテンベルクの銀河系』だが、僕は整理されすぎた『メディア論』より、タイトル通りの銀河のように様々なキラキラしたテキストがパッチワークされたこっちのほうが断然好き。 もう何年前に読んだかわからないくらい、読んでから時間が経ってると思って
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 1つは、モノや人があちらからこちらに移動したりすることによる変化である。 トランスフォーマーの変形のようなものも同じだ。場所の移動により形態は変化しても、実はそれぞれの要素は何も変わっていないから、理論的には元の状態に戻すこともできる。 その意味では、建物を建てたり、服を作ったりというのも、この種の変化といってよいのかもしれない。部品を加工しちゃうから完全には元に戻せないということはあったとしても、これは可逆的な変化といってよい。 そして、もう1つの変化は、メタオルフォーゼ的な変化。変態だ。 サナギが蝶になったり、子供が大人になったり、蕾ができ花が咲き実になるような変化。これは不可逆的な変化で、元に戻すことはできない。 だから、イノベーションとかもこっちに入るんだと思う。逆
世界は夢。夢は世界。 世界は夢となり、夢はまた世界と変じ、 とうに起こったはずのものが、 今かなたからやってくる。 想像がはじめて自在にはばたき、 思うがままに糸を織り、 ここかしこヴェールをかけ帳を掲げ、 やがで魔法のもやに消えうせる。 18世紀末ドイツの初期ロマン主義の詩人ノヴァーリスによる未完の小説『青い花』。 先に読んだ『サイスの弟子たち』がとても気にいって、ノヴァーリスのことに夢中になり、この『青い花』を手に取ったのはおとといのこと。 ひさしぶりに本を読んで、気持ちが落ち着かない状態にさせられたのだが、そういう意味でとても魅力に満ちた一冊だ。未完なのが、なんとも惜しいが、未完でもなお読む価値がある。 『青い花』は、原題を『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』といい、主人公の名をそのままタイトルにした作品だが、引用した作品中の詩の一節同様に、どこまでが主人公が生きる現実なのか、
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 デザインリサーチ。デザイン思考などのアプローチで用いられる、フィールドワークやデプスインタビュー、デスクトップリサーチなどの様々な調査方法を組み合わせて、デザインの課題を定義するために用いる思考の方法。 そのデザインリサーチをしていると往々にして起こる問題がある。 それはリサーチに関わっていない外部から、リサーチの結果をみて「それはリサーチをしなくてもわかった普通のことでないか」という反応があがるということである。 問題の要因は2つあると思う。 デザインリサーチをしたことがない人には、デザインリサーチによって何が変わったかがそもそもわかりにくいデザインリサーチをした側が、そうした前提に立って、やってない人に自分たちが得たものを伝える努力を怠ってしまう(もしくは、その前提自体
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「わしにはそんなふうにして語られたことがついぞなかったもので、まるで新しい世界に上陸するような気がしたよ」 ノヴァーリスの未完の小説『青い花』で、主人公の青年ハインリヒにせがまれて父親が母親と結婚しようと決断するにいたった夢の話をする中で、夢の中で出会った老人の語る話を聞いて、父親が感じたことを述べたセリフだが、まさに、今日僕自身が感じたこともこれに近い感じのものだ。 きっかけは、最近、会社での役割が変わったことだ。変わったとはいえ、正直、今日まではあまり実感を感じていなかった気がする。 それでも、役割が変われば、やることもすこしずつは変化していくもので、そうした変化をあらためて、今日は休みだということもあり、もろもろの作業をしつつ、頭のなかの整理をしはじめたら「まるで新し
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 言葉が錯綜して解読困難だからといって、それをあなどり投げ捨ててしまうような無思慮な人間にはなりたくない、と思う。 芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。 前回、紹介した、『オルフェウスの声』のなかでエリザベス・シューエルはフランシス・ベーコンを参照しながら、こう書いている。 「技芸は自然の一部であり、受身のアナロジーでなく能動的な操作の場、まさしく自然が言葉を語り出ることができる場、ということにな
先日、金沢工業大学で、アイザック・ニュートンの『プリンキピア』を題材にした「ニュートンは何を考え、何を語ったか」という講義を受講してきた。同学での公開講座「原著から本質を学ぶ科学講座」の第1回目という位置付けで、実際に同学のライブラリーには、2億円の価値があるという『プリンキピア』の初版本が蔵書されており、その実物も見学できた。 『プリンキピア』の初版が発行されたのは1687年だが、1642年生まれのニュートンは、すでに1665年には『プリンキピア』で論じられている運動の3法則および万有引力の法則を発見していたと言われている。 『プリンキピア』とは、いわば略称で、ラテン語原典のタイトルは”Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica”、日本語では「自然哲学の数学的諸原理」と訳されることが多い。 だが、数学的諸原理というタイトルの印象とは異なり、この
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 集めるという行為、そして、集めたものを眺めみるという行為のうちに、頭のなかにひらめき、ざわめくアイデアをちゃんと言葉なり形になりにするという手間をとるかどうかというのは、何かを創造する力があるかないかという観点からみた場合、とても大きな差なのだろうと感じる。 そして、同時に、その言葉なり形なりにすることを愉しむことができるかどうか、言葉なり形なりにする際に、安易にありきたりの言葉や形なりに無理やり押し込んでしまうのではなく、自ら得たはずの細かな感じ方そのものをきれいに繊細に織り上げるように言葉を紡ぎ、形を得られるかも、また、そこから創造が生じるかの分かれ道になる。 創造するということと、情報と頭の使い方について、あらためて気づくことが多かった1週間だった。 創造のスタートと
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 編集的に思考できる力がいま必要だ。 世の中にはあまりに多様な情報がありあまりすぎているから。 ありあまる情報を相手にする場合、単に情報を取捨選択すればよいわけではない。 単純に取捨選択などしようとすれば、一見、魅力的に感じることばの響きに騙され、考えもなく、それに引き寄せられてしまう。前回の記事(「倫理が現実を茶番にする」)で、何が許され、何が批難されるべきなのかを判断する倫理自体がきわめて恣意的であることを指摘したばかりだ。倫理がそれほど危うい状態なのに、誰かが放った情報をただ勘にまかせて、選びとってしまうのはあまりにきびしい。 いま必要なのは、多様な情報をいったん自分自身で編集しなおしてみて、自分なりの理解を組み立てるスキルであり、センスだろう。 逆にいえば、状況を自分
倫理などというものは時代によって大きく変わる。 人間社会で生活をおくる上で、何が許され、何が批難されるべきなのか。そんなものに正解などない。 なのに、正解がある前提で話をしたりするから、どちらが正しいといった無駄な争い、衝突がおこる。 正解がないのはもちろんのこと、歴史的にみれば、その振れ幅というのは、今の僕らには考えられないくらいの大きさをもっていることに驚かされたりもする。 例えば、前回の記事でも紹介したホイジンガの『中世の秋』に描き出された中世ヨーロッパ社会では、人びとはどんな倫理観で動いていたのか?と疑念を抱くような驚くべき事柄が次々と紹介される。 そのひとつが処刑。中世ヨーロッパ社会においては、処刑が見世物としての性格をもっていたというのだ。 処刑台は残忍な感情を刺激し、同時に、粗野な心の動きではあるにせよ、憐れみの感情をよびおこす。処刑は、民衆の心に糧を与えた。それは、お説教付
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 本を読むなら一度に1冊ずつ読むよりも、複数冊の本を同時に読み進めることが良いと思う。 その方が本に書かれたことから、気づきを得たり、自分の思考に落とし込むことがスムーズになりやすいからだ。 本を読むというのは、決して、そこに文章として書かれた内容をただ読むという行為ではない。それは書かれたことと自身の体験や既存の知識とを折り合わせながら、自分自身の思考を紡いでいく作業なのだと思う。書かれたことを純粋に読んでいるつもりでも、そこには読む人自身の経験や持っている知識の影響が織り込まれないということはない。だから、書かれたことの解釈は異なるのだし、そもそも解釈なるものが自身のもつ経験や知と切り離せない。 だとしたら、そのことをむしろ積極的に利用して、読書というものをより意識的に知
不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「創造」とか「イノベーション」という言葉より、「生成」という言葉のほうが、何かが新しく生みだされる様をその背後のしくみまで匂わせるという観点からはしっくりくる。 ようは前者の人為的なクリエイションがなんとなく陳腐に感じてしまい、後者の自然が何かを生みだす力のほうにより大きなクリエイティビティを感じてしまうのだ。実際、どんなに人工的なものでも、創作の根本には自然の影響がある。創造性を発揮する人間の思考そのものさえも。 もちろん、人為的なクリエイションを否定するつもりなどは毛頭ない。 ただ、人為的なクリエイションを考える際、今後はこれまで以上に、自然の創造力を人為的なクリエイションにどう活かせるか(あるいは、どう影響を受けているか)ということを視野に入れていくとよいのだろうと感
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