私はほとんど自炊をしない。だから近所にある飯屋で日々の食事が决まる。これは同居人もそうである。行きつけの飯屋を五つほど用意して日々をまわしている。そんな食生活である。 しかし近所にふつうの定食を食べられる店がない。中華、牛丼、カレーはある。パンや麺類もある。インドカレーにナンをひたして食べられる店まである。なのに、ごはんに味噌汁、主菜に小鉢という日本的フォーマットで出てくる店がない。 自分の住んでいるあたりの問題なのか、意外とそういう場所は多いのか、とにかくそんな日々を過ごしているから、私と同居人のあいだに、「近所に大戸屋さえあれば……!」という祈りにも似た気持ちが生まれている。 もっとも、最後に大戸屋に行ったのは二人とも十年ほど前で、私はむかし東京に住んでいたころ、立川駅近くの大戸屋に通っていた。そして同居人は河原町で働いていたころ、会社の昼休みによく大戸屋に行っていた。 対象が日常から
自分の知らない言葉を当然のように使われるとゾクゾクする。ほとんど性的興奮の域に達している。自分が聞いたこともない言葉を当然のように使われて、「もちろん知ってますよね?」という態度を取られること。これがたまらない。 だから私は電車の中で女性誌の吊り広告を見るのが好きである。自分と無関係な言葉、無関係な表現、無関係な欲望があふれているからだ。たとえば数年前に見かけて、いまだに覚えている女性誌のコピー。 今年こそ、パンツスタイルを極めたい! これだけでゾクゾクする。私はパンツスタイルを極めたいと思ったことがない。人生で一度もない。しかしこのフレーズには「何年も挫折してきた」というニュアンスさえ読み取れる。「今年こそ」である。世の中にはパンツスタイルを極めようと何年も努力している人間がいるのだ。ゾクゾクする。 昔、ふとした拍子に、知らない女のラジオをきく機会があった。メインは女なんだが、聞き役の男
スタバで文章を書いていたら、隣の席に男がやってきた。「ペッペラペッペラピッピッピ♪」と歌いながら歩いてくる。たぶんオリジナルソングだろう。それで私の身体に緊張が走った。頭のおかしな人間だと思ったからである。 カフェにおいて隣に頭のおかしい人間が座るのは緊張するものだ。実害はないにしても、ペッペラピッピの歌を隣でえんえん歌われた場合、集中できたものではない。 この男については、そのあと友人らしき男がやってきて普通に会話をはじめたので、頭がおかしいわけではなく、ゴキゲンな時に少々おかしな歌を歌ってしまうだけだと分かった。ややうるさいくらいで、それならばイヤホンをして音楽を聴けばいい。 カフェに通うようになると気づくことだが、街には一定数、狂気の世界に行った人々がおり、カフェの常連になっている。この街をうろつくようになってからの七年で、私は三人の狂人を見た。 一人は中年の男で、だぶだぶのシャツを
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