『太平記』巻第三「主上御夢の事 付けたり 楠が事」には、楠木正成は河内金剛山の西、大阪府南河内郡千早赤阪村に居館を構えていたとある[4][5]。 楠木氏は橘氏の後裔とされる[6]。正成の母は、橘遠保の末裔橘盛仲の娘。また、任官には源平藤橘の姓が必要であるため、楠木氏は橘氏を借りたとする説もある[6][7]。『太平記』巻第三には、楠木氏は橘諸兄の後裔と書かれており、楠木氏と関係の深い久米田寺の隣の古墳は橘諸兄の墓といわれ、楠木氏は橘氏を礼拝する豪族であったともいわれる[6]。 また『観世系図』によれば、観阿弥の母は河内玉櫛荘の橘正遠(正成の父・楠木正遠)の娘すなわち正成の姉妹という記録があり、この玉櫛荘を正成の出身地とする推定もある[8]。 得能弘一が楠木氏駿河国出身説を提唱し(「楠木正成の出自に関する一考察」『神道学』128)、筧雅博、新井孝重も楠木氏の出自は駿河国とする[6][9][10
