前期で落ちたことがわかってから、親との話し合いが持たれた。この時点で受かっているのは滑り止めで受けていた地元の県立大学だけだったが、自分は全然行きたくないため「もし後期もダメだったら浪人させてほしい」と伝えた。よく覚えていないが、親は「浪人はダメ、覚悟を決めて受かってるとこに行け」みたいなことを言ったと思う。
この時点で考えられる最悪のシナリオは「実はセンター試験でマークシートの記入ミスがあり、センターを失敗していた」ということだ。そうなると割と出来の良かった二次試験(前期)で落ちたことも納得だし、二次試験(後期)でいくら頑張っても厳しい訳だが、こればかりは自分で確かめられない。もし仮にセンター利用で私立大学を受けていれば、マークミスがあったかは判明したはずなのに。私立併願をしないとこういう不安が出るとは思わなかった。
自分を信じて、最後のチャンスである後期日程を受けるしかなかった。家に居づらく、予備校にも行きたくなくて高校に行ってみると閑散としていた。同じ境遇の友達を見つけて、傷の舐め合いをした。もう浪人の意思を固めている奴もいた。浪人すら許されない自分は、下手すると行きたくもないよく分からん大学に4年も通うのか…と最悪な気分になる。図書館に行って勉強をするが、全然集中できない。気分転換に本でも読むか、と文庫本を手に取った。金城一紀の「対話篇」だった。借りるとき、司書の人に「受験終わったんだね、ご苦労様」みたいなことを言われ「まだ終わってないんです」「あっ…」という気まずい会話をした。「対話篇」は本当に素晴らしい短編集で自分は号泣した。
後期試験のことは全く覚えていない。絶望的な気分で受けて、合格通知が来たときは「ああ、やっと終わったのか」とホッとした。結果的に国立大学に入れたとはいえ、第三志望合格という結果は失敗の部類だろう。でもこの大学に入らなければ今の仕事には就かなかったと思うし、結果オーライといったところか。第三志望だった大学の学生生活は楽しかった。もう人生でこんなに勉強することないだろうなと思ったのに、就職試験で同じくらいの勉強をすることになる。受験期の振り返りは以上。知識を得ることは好きだけれど、机に向かうのは嫌いだ。最近はウィキペディアばかり読んでる。
受験の記憶③:二次試験(前期)
1.試験直前
前期で第二志望の金沢大学の受験を決めてからは、ひたすらその赤本を解いた。あとは模試を解き直したり、小論文を練習するなど。大学生協かどこかが作っている金沢ひとり暮らしマップみたいな冊子を読み、住むならこのへんかな…とかここでバイトしたいな…などと合格した先を考えて気力を保っていた。
センター試験から大した時間もないため、この期間のことはあまり覚えていない。試験会場への移動のため、自宅のパソコンでホテルを予約し、特急の指定席を取った。親のクレジットカードを借り、現金を貰って、試験の前日に駅から電車に乗った。オープンキャンパス参加の名目で友達と東京へ遊びに行ったことはあったが、ひとりで泊まりがけの移動をするのはこれが初めて。冒険するみたいで結構ワクワクした。
新潟駅から今は亡き特急「北越」に乗り込み、金沢へと向かう。新潟県の長さに辟易とし、富山を一瞬で通り過ぎて小さっ、と思った。金沢駅に着き、シンボルマークの赤い建築物の写真を撮る。そこで高校の同級生の男とばったり会った。同じく金沢大を受けると言う。母親と来ていて恥ずかしそうにしていた。受験先に親もついてくる、という発想がなかったのでひとりの自分は戸惑いつつ挨拶をする。
金沢駅近くのホテルに移動。 食事付きだったためホテルで夕飯を食べた。本当は街へ出てゴーゴーカレーとか食べたかったのに。宴会場みたいな部屋でひとり寂しく飯を食い、部屋に戻ろうとしたら先ほどの同級生と会った。その母親もいた。同じホテルだった。奇遇だな、明日も一緒に行こうか、と集合時間を決めて別れた。
2.試験当日
当日は大雪だった。駅前のバスターミナルは受験生でごった返し、信じられないほどの長蛇の列だった。見込みが甘かった。満員で何本もバスに乗れずに時間が過ぎていき、焦る。このままだと間に合わないのでは…と思い始めた頃、同級生が携帯で電話をかけた。もうひとり同じ高校で金沢大を受ける奴が親と車で来ていて、近くにいるため一緒に乗せてくれるかもしれないと言う。ありがたい。すぐバスターミナルに車が来て、何度もお礼を言いつつ乗せてもらう。
大学の建物に到着し、受験生3人で車を降りた。しかしそこは理系の学類の建物だった。金沢大は「学類」でいくつかの建物に分かれており、自分と友人(同じホテルの男)の受験先(人文学類)は離れた場所にあった。途方に暮れた。万事休すか、ここまで来て受験できないなんてことがあるのか…と騒いでいると近くにいた大学事務職員の方が「人文棟まで乗せてくよ」と声をかけてくれた。ありがたい。開始時間にギリギリ間に合い、無事受験できた。
しかし、結果は不合格だった。
受験の記憶②:センター試験
1.試験前
自分が通っていた高校は進学校だったので、ほぼ全員がセンター試験を受けた。1月になるとみんなソワソワし始めて落ち着かない。大きなイベントを迎える直前のちょっとしたお祭りのような雰囲気で、学年全体が少しの高揚感に包まれていた。
試験前日、受験する全員が体育館に集められ、校長の訓示を受けた。その後、学年の担任ひとり一人が隠し芸を披露する謎の出し物があった。歌を歌ったり、モノマネをしたり。日体大出身の体育教師は「エッサッサ」を披露した。伝統の応援歌らしいが、生徒たちはなんだこれ…って反応で終わった。
昼休みには体育祭で仲良くなった後輩が大挙してやってきて、百均で売っているスポンジ「激落ちくん」をわざわざ配布していった。「絶対落ちるから気楽にやってこい」とか言われた。酷すぎる。
2.試験当日
センター試験の会場までは電車で行った。当日、友達と待ち合わせして、確か3人くらいで電車に乗り込んだ。高校へは自転車かバスで通っていたため、電車に乗るのは久しぶりだった。suicaを持っていなかったため、並んで切符を買った覚えがある。車両は受験生でいっぱいかと思いきやあまり居なくて不安だった。
駅から雪の中を20分以上歩き、試験会場の大学に着く。オープンキャンパスでいくつか大学は行ったことがあったが、ここまで大きいキャンパスは初めてだった。自分の座席を見つけてとりあえずホッとする。無事に受けるところまで来るのが重要なのだ。試験開始。最初の科目は世界史だったと記憶している。
試験自体は模試で何度も経験している訳で、時間配分だけ気に掛ければ問題ない。ただ黙々と、焦らず集中して解く。この「初めての場所に行って、いつもの行動をする」というある意味派遣バイトみたいな作業は、部活の遠征(様々な体育館でバスケの試合をする)で散々経験して慣れていたので、いつものやつね、って気分でやっていた。しかしこの日の出来が自分の人生を少なからず左右することも頭では自覚していて、無事に終わることを祈っていた。一番恐ろしいのは、マークシートのズレとか時間配分のミスとかで一発アウトになることだ。解き終えてから何度も見返して、時間いっぱいまでこれ以上ないほど慎重に確認する。
二日間の試験を終え、駅で合流した友人たちと「どうだった?」と喋ったときはひと仕事終えた開放感がすごかった。ネットには代ゼミや駿台が解答予想を速報で上げるので、みんなでガラケーを食い入るように見て一喜一憂した。そのまま友人たちとマックのボックス席に座り、静かな興奮を分かち合った。
翌日、学校で自己採点をした。7割台前半くらいだったと記憶している。第一志望の横国を受けるには足りない点数だった。家庭の状況もあり、 国公立大学しか進学は許されていないため、私立の滑り止めは一切受けていなかった。国公立の第一志望になんとしても合格なくてはならないため、志望大学を切り替えた。気持ちが萎む。自分の人生の可能性がひとつなくなってしまった。都会に出るという受験最大のモチベーションが崩れてしまった訳だ。あーあ、まあ人生こんなもんだよね…とか思いつつ、前期の出願先を第二志望にした。第二志望は金沢大学だった。
受験の記憶①:受験期の過ごし方
はじめに:書く理由
東村アキコの漫画「かくかくしかじか」を再読して、自分の受験期のことを思い返した。今から10年以上前、高校3年だったころの話。かなり忘れているが、断片的な記憶はある。全部忘れ切る前に、文系の高校生だった自分の受験期のことを書き起こしていきたい。あらゆる記憶は記録に残さないといつか忘れてしまう。いずれ何かの役に立つかもしれないので、文字に起こして記録しておく。
1.高3の夏
当時は2011年。高校3年の5月末頃に部活を引退。バスケ部だったが県予選の3回戦あたりで負けたので引退は早めだったかもしれない。しかしすぐ勉強に本腰を入れた訳ではなく、6月中旬に体育祭が終わってからでいいだろ、とノリで体育祭の幹部になった自分は普通に遊んでいた。毎日、放課後は教室や校舎の隅で駄弁り、ダンスの振り付けや応援歌をつくるなどしていた。18時頃学校が閉まると、近くの公共施設の敷地に集合した。夜遅くまで体育祭の練習(と称して駄弁る集まり)に精を出す日々。割と青春していたのかもしれない。ここまで、授業以外での勉強はほぼしていない。
6月半ば、体育祭が終わると流石に本格的な勉強を始めた。他の部活の連中も次々引退し、学年全体が受験モードになっていく。自分も予備校に入った。もしかすると4月頃には入っていたのかもしれないが、本格的に通い始めたのはこのあたりから。
通ったのは高校から近い東進衛生予備校だった。個室ブースにモニターが置かれていて、映像を見ながらノートを書き、問題を解いて学習するスタイル。講師が一方的に喋る形式だが、雑談もあり、講義は割と面白かった。学校が終わると自転車で向かい、20時くらいまで勉強、自転車で帰宅して家でも軽く勉強して24時頃に寝る生活。
だんだんと勉強する時間が長くなると、深夜1時や2時とかまで起きている日が出てくる。現在(31歳の現在)は8時間は寝ないと動けないため信じられないが、当時は6時間も寝れば体力は全回復していた。深夜、自室で勉強中にラジオを流す習慣があった。土曜深夜は「福山雅治のオールナイトニッポン」を聴いていた。歌(「虹」とか「化身」とか)とドラマ(「龍馬伝」と「ガリレオ」)の福山雅治しか知らなかったので、下ネタ満載のラジオが面白くて夢中になった。こんな世界があったとは。たまに3時まで起きていたときは福山雅治の次の枠「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いていた。一度だけ友人のメール(自分にだけラジオネームを教えてくれていた)が読まれたときは興奮のあまり叫んだ。しかし3時から5時の枠はほぼ朝方のため、必ず前半で寝落ちしていた。
高校が夏休みに入ると、代ゼミの自習室に通った。駅前にある代ゼミの広い部屋に、勉強用ブースがずらりと並んでいる。高校の学生証を見せると無料で利用できた。ここはなかなか集中できた。自分より歳上の、どう見ても二十歳を超えている人もいて、多浪はしたくねえな、と思った。
勉強中、よくレディオヘッドの「OKコンピューター」と「KID A」を聴いていた。非常に暗いアルバムなのでよく鬱にならなかったなと思う。たまに中村一義の「金字塔」を聴いた。こちらは歌詞がほとんど聴き取れないため、洋楽と同じくBGMとして重宝した。ずっと青いウォークマンで聴いていた。このウォークマンは現在も実家にあり、見ると当時のことを思い出す。
代ゼミの一角には売店があり、赤本と参考書と少しのお菓子が売られていた。たまに行くといつもそこに居る同級生がいて、そいつは参考書の知識が豊富でおすすめを教えてくれるため「プロ」と呼ばれていた。彼は結局浪人していたが。
時々、高校の特別教室に行って勉強した。受験生用に開放されていた。代ゼミの方は決まりきったメンバーにしか会わないため、部活の友達と顔を合わすと嬉しくなり、廊下や高校前の売店(前店と呼ばれていた)で駄弁って気分転換していた。部活をやっていた頃は毎日顔を合わせていた仲間と、コンビニや駐輪場で偶然会うとすごく嬉しかったのを覚えている。会った相手も大喜びでお喋りしていたので、みんな寂しくて話し相手を欲していたのだと思う。
こうやって振り返ると朝から晩まで結構勉強していたんだな、と思うが、夏休みにはWeezer目当てで横浜へ「NANO-MUGEN FES2011」を観に行ったし、普通に街を徘徊してサボった日もあったと思う。でもほとんど休まずに勉強した。他にやることもなかったし、受験さえ乗り切れば4年間遊べるし、などと思っていた。この年、世の中は3.11の影響で騒ついていた筈だが、自分は割と平穏に受験生としての日々を過ごしていた。
2.秋から冬
当時の自分の学力はひどいもので、360人いた学年で下から40〜50番あたりをずっとキープしていた。特に理系科目は壊滅的で、定期考査の数学は常に30〜40点(100点満点中)だった。2回に1回程度は赤点を取り、追試を受けていた。世界史と倫理、地理はずっと上位だったが、それは資料集を読むのが好きだったからだと思う。資料集や参考書のコラムとかを読むのが好きで、本屋でもよく立ち読みしていた。全国模試も何度も受けたが、夏までは毎回ひどい結果だった。
センター試験は国数英が200点ある訳だし、明らかにその3教科で高得点を確保することが重要だ。得意な世界史などの暗記科目に逃げたい気持ちを抑え、ひたすら苦行のように3教科の問題集を解き、解答解説が付いている過去問を繰り返し解いた。そして1ヶ月に1度のハイペースで模試を受けていた。
毎日同じことをやっていると飽きそうなものだが、何故かこの頃は「みんなやってるし、こういうものだ」と特に疑問も持たずに勉強していた。その頃の自分は人と違うことを何より恐れていた。絶対にはみ出し者になりたくない。それに、秋には全国模試の判定もEからDあたりに上がってきて、ときにはCとかもあった。多少は希望が出てきた。
この時点の第一志望は横浜国立大であった。あまりに高い理想だったが、横浜(大学はそんな中心地ではないが)に住むことをモチベーションにしていた。なんとしても地元を出て関東に住みたい、都会に出たい、人生を一新したい、そればかり考えていた。
2024年よかったもの
オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム
2月、オンライン中継で観た。一組の芸人が東京ドームでライブをやるのは1989年のとんねるず以来とのこと。絶対やるだろうな、と思ってた『フィールドオブドリームズ』のパロディから若林の登場、花道に迫り上がってきたラスタカラー色のロードバイクに跨り場内を走り回るシーンはめちゃくちゃ格好良かった。ラジオ風のコーナーでは若林はウーバーイーツの話、春日は日大二高前の中華屋のポークライスの話(実食あり)。春日のゲレンデヴァーゲンをパイまみれにしたり、プロレスをやったり、若林が星野源とラップやったり、全部最高のエンタメだった。最高に面白かった。深夜ラジオって本来は冴えない大学生が部屋で孤独に聴くものだと思ってたけど、売れるとこんな規模の祭りになるんだと胸が熱くなった。
あと、公式アニメーションロゴが現れるときの演出が良かった。シンエヴァでもやっていた、手書きで書き上がっていくエフェクトのやつ。「100カメ」で見た番組の裏側では、制作陣の活躍と苦闘か知れて見応えがあった。
箱根旅行
2020年以来の大学同期旅行。30歳になっても、顔を合わせて喋るだけで楽しい。でもそれだけでは物足りないのでちょっと観光もしたい、という時に箱根はちょうど良かった。思ってたより観るところがあった。温泉と芦ノ湖しかないと思ってた。登山鉄道も乗れたし。みんな人生を着実に進めていて、置いていかないでくれよと少し寂しくなる。東京へ戻ってから最後に上野で食べた牡蠣も美味かった。
家主のライブ
6月に大好きなロックバンド、家主のライブを初めて観た。最高だった。普通に生活していると、ドラマチックな出来事が起こることはなかなか無いが、ロックバンドのライブではこういう瞬間が時々起こる。3曲目でいきなりやった「家主のテーマ」のクライマックスで、あまりに突き抜けたエモーショナルさに自分は泣いた。
星野源×ARuFa×恐山の鼎談
面白かった…。まず星野源が「ARuFaの日記」や恐山のnoteを読んでいることが意外だった。星野源がふたりの本物のファンであることが記事からよく伝わってくる。
一番良かったくだりは、ARuFaが使っている謎の無料動画編集ソフト「AviUtl」(めちゃくちゃ操作性に問題があるらしい)の話題になったところだ。
ARuFa「その面倒臭さが有料ソフトに出せない『温かみ』を生むからなぁ」
恐山「自分で自分の葬式を開きなさい。」
星野源「その『温かみ』はちょっとわかるな……。(中略)こだわってるの伝わってくるし、あの動画の感覚って他のアプリケーションだと出しにくいと思うので、ぜひAviUtlを使い続けてほしいですよ」
ARuFa「……これからはその言葉を宝物にして生きていきます」
あとは恐山が毎日noteを更新する理由として「Twitterだと"濁って"しまう」ことに5年も前から気づき、クローズドな場所に文章を書くように切り替えていた点はさすがの慧眼だと感じた。今のXは治安が悪過ぎる。もう卒業した。
出会って4光年で合体
にゃるら氏が「作家性の爆発」と表現していたが、まさにそれだった。途方もないスケールの話で描かれるエロ漫画。全382ページ。「セックスしないと出られない部屋」のシチュエーションに必然性を持たせるために、弘法大師の民話やSF、謎掛けや青春ラブコメそしてポルノ論まで、膨大な要素を積み上げた大傑作。
作中にはモノローグが多く、かなりの量の小ネタと会話が描かれる。徹底的にディテールを語ることが、強力な物語と終盤のカタルシスを生むのだと知った。あまりに壮大で、あまりにロマンチックな物語だ。インターネットの片隅に時々現れる、野良の傑作。これくらいぶっ飛んだ作品にはそう巡り会えない。2024年に触れたあらゆる作品の中で一番感動した。本当に読めてよかった。
climb the mind「近影」
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個人的ベストトラック。最初の5秒聴いただけで「climb the mindだ」とわかる音。特に細かくて立体的なベースのフレーズ。やっぱりずっと好きなバンドだ。bedのアルバムも良かったし、前作から何年も間隔が空いても、いまだに活動してくれていて嬉しい。
電球『4番線』MV
www.youtube.com
今年知った中ではベストMV。プールを浮き輪で漂っているような心地良さ。不安定なカメラ、街を歩く謎の綿頭の男、それに一切触れない周りの人間、無機質な街、海に浸かるスーツの男、都会/自然、朝/夕暮れ、存在/不在。薄っすらと流れる壊れた雰囲気。
一番すごいのは、このMV全体を貫いている独特のトーンだ。若干の不気味さ、違和感がありながらどこか美しい画の連続で、見飽きることがない。画面の薄暗さと映る雑踏の冷たさに対して、ノイズが多い曲からはほんの少し暖かい質感を感じる。男が浸かる海が心地良い温度なのが伝わってくるようだ。この雰囲気はなかなか狙って撮れるものでないと思うが、映像全体のトーンが統一されていることから狙い通りの仕上がりなのだろう。凄すぎる。
これほどの完成度の高いMVなのに、再生回数が少なすぎると思う。まだ世に見つかっていない、とんでもない天才がここにいる。
文学フリマ東京39
3年連続3回目の出展。ZINEを作り続けてわかった。ZINE作りの面白さとは、企画、執筆、校正、編集、入稿、販売まで全てを個人でコントロールできることだ。そして自分の場合、編集のパートが一番好きだ。あとは企画を構想する段階。書くことをもっと楽しみたい。当日、そこそこ売れて良かった。会期が終わった時間に会場を出たらマジックアワーだった。みんながデッキに出て沈む夕陽の写真を撮っていて、なんか良い雰囲気だった。
観た映画(37本)
サ道 ~2022年冬小さな幸せを胸にととのう~
ロストイントランスレーション
レザボア・ドッグス
HASAMI groupの歴史
千年女優
ペルシャン・レッスン
一秒先の彼
ゴールデンカムイ
ナイト・オン・ザ・プラネット
美女缶
PERFECT DAYS
ファンタスティック・プラネット
デューン PART2
フォロウィング
オッペンハイマー
アット・ザ・ベンチ
悪は存在しない
青春18×2 君へと続く道
農家に嫁いだ女
アメリカン・ユートピア
ルックバック
イージー⭐︎ライダー
黄龍の村
青の帰り道
サマーウォーズ
滲み
ナミビアの砂漠
Civil War アメリカ最後の日
リバー、流れないでよ
ハヌ・マン
ザ・メニュー
ショーン・オブ・ザ・デッド
STOP MAKING SENCE
グラディエーターⅡ
十二人の怒れる男
ビリーバーズ
正体
一番面白かったのは「デューンPART2」。前作のこともあり何も期待しないで観に行ったら、想像を絶する面白さだった。「PERFECT DAYS」も良かった。これから先に何度も見返すことになりそう。アニャ・テイラー=ジョイ目当てで観た「ザ・メニュー」は変な映画すぎてとても良かった。たまにはこういった狂った映画を見たい。
一年を振り返って
文章を書く量がようやく少し増えた。これは良いことだ。気付けばこのブログにも20本の記事を書いていた。10年近く続いているこのブログだけれど、総計150本以上の記事があるのを見ると結構達成感がある。創作に関してもそうだけれど、時期によって書いたり書かなかったりするムラっ気をなくして、安定して書けるようにしたい。机に向かって10分間キーボードを触れば、あとはなんとか文章が出てくるものだ。ただキーボードまでが遠い。漫画アプリとSNSを消して、自分のやるべきことに向かわなくてはならない。きっかけも理屈も要らない、ただ毎日書くのが大事なのだと思う。
2025年の目標は「読んで読みまくり、書いて書きまくる」だ。インプットもアウトプットも増やしたい。長い文章を書くための体力が不足しているのを痛感するため、基礎を養いたい。具体的には本を50冊以上読み、映画を50本以上観る。本当はこの倍は読みたいが、仕事との両立ができる限界がこのあたりだと思う。あとは理論を学ぶために講座を受講することも考えたい。タイムリミットは近い。色々となんとかしたい。
2024年の創作
文芸誌『なわない』
友人が創刊した雑誌に掌編『ドキュメント』を寄稿。6月頃に販売が始まったが、文章を書いたのは1月頃なので、実物が手元に届いたころには書いたことを忘れかけていた。雑誌は対談や詩から絵までかなり盛りだくさんの内容。自分の掌編を読んだらむず痒い気持ちになった。普段の自分とは違う文体で書いてみたためだ。そこそこの部数が売れているみたいでありがたい。次号もたぶん書かせてもらう。
MV制作
www.youtube.com新しく加入したバンドのMVを2本制作。撮影自体は半日程度だったのに、撮った素材を編集するのに何ヶ月もかかった。正確には取り掛かるまで何ヶ月も逃げてしまった。実際の作業期間は10日ほど。無事に完成したから良いものの、あんなに辛い思いはもう味わいたくない。締め切りを設定する大事さを身に染みて感じた。あとは自分に必要なのは、進捗を随時聞いてくれる有能な編集者だと思う。人との約束なら破らないので。自分との約束はなかなか守れない。
ZINE『谷口吉生を探して』
元々建築には興味はあったものの、あまり知識もなく最近は意識して見ることはなかった。しかし4月に新潟県民会館を動画に撮ったことをきっかけに面白さに目覚め、5月にGINZA SIXを撮ってからはひたすら谷口氏の建築を追った。図書館で調べ物をしたり、実際に現物を観て解説を読んだり、なかなかに充実した時間を過ごせた。7月にパイロット版のZINEを制作。そして11月末に完全版として完成させ、文フリで販売した。会場だけでなく、ツイッターのDMで何人かから「売ってほしい」と発注が来て嬉しい。完成からわずかひと月足らず、年末に谷口氏が亡くなったのはショックだった。多くの人、特に建築業界ではない一般の方から悼まれていて、その知名度と影響を知った。自分が春に葛西臨海公園を訪問した時は快晴で、葛西臨海水族園とクリスタルビューは美しく空に映えていた。設計者が亡くなっても建物はずっと残る。生前の行いは永遠の響きを残す。自分が家庭を持ったら、ディズニーランドもいいけど一度は隣の葛西臨海公園に子を連れて行きたい。あの場所ではたくさんの家族がピクニックを楽しんでいて、あれほど立派な建築であるクリスタルビューは公園の一部として受け入れられ、機能していた。あの場にいる家族たちみたいになりてえな、と思ってしまった。
この他、12月に手応えのあるものを書けた。これが世に出るかはまだわからない。2025年はインプット多めの予定だが、なんとか書くことも継続したい。
天使の囀り
ここ数年で一番の読書体験だった。とんでもなく面白い。ストーリー、提示される謎、構成、進み方、キャラクター、どれも圧倒的だ。
そして、あまりにも恐ろしい話だった。人間が自分の意思では絶対にしない、凄惨な死に方の自殺が次々に起こる。ホスピス勤務の精神科医の女性がその謎を追う。
いくつもの謎が提示されて、徐々に真相に辿り着くカタルシス。読んでいくうちにどんどんと引き摺り込まれた。
呪われた沢、死恐怖症:タナトフォビア、復讐の女神:エウメニデス、謎の教団、そして天使の囀り。たくさんの宗教的なモチーフが登場するが、特にストーリーの根幹となるのが蛇だ。古代からの寓話が多数出てくる。古代宗教の神であり、医学の象徴であり、そして夢の象徴でもある。たくさんの記号から謎に迫っていく構図から、昔に『ダ・ヴィンチ・コード』を読んだときの興奮が思い出された。
主人公が精神科医の女性、という設定が見事だ。精神医学の知見から謎を推察していく。事件により恋人を亡くし、真相を追うため関係者へ当たっていく。主人公は仕事柄、卓越した観察眼を持っている。対峙した相手の顔色や声、挙動から心理を読み、話を引き出す。事件に関わる動機、調査能力を持つ人間として無理なく完璧な設定。途中から登場する研究者・依田とのコンビはかなりお似合いだった。
心の病気は伝染しない。しかし自殺していく人々は皆、それぞれが抱えていた「最も畏れていること」に自分から向かっていき、命を落とす。まるで集団で何かに取り憑かれたように。まるでピラミッドの墓を暴いた調査隊が次々に謎の死を遂げた話のようだ(これにも着想を得たのかもしれない)。
超常的な力が働いているとしか思えない状況で、科学的な知見から因果関係を明らかにしていく構成は魅力的だ。TRICKが大好きな人にはたまらない。
恐ろしい描写が続く中盤の「テュポン」「蜘蛛」「メデューサの首」は一気に読んでしまった。目を背けたくなるようなおぞましさなのに、ページを捲る手が止まらない。物語に引き摺り回される快感。面白い本に没頭することの愉しさをとことん味わった。普通に生きていたらリアルでは起こらない凄惨な話が、本の中では圧倒的なリアリティで繰り広げられる。そんな物語を読むと癒される。
一番のクライマックスである施設への突撃で、主人公はあまりにもグロテスクな地獄を見ることになる。このシーンは読みたいけれど文字の全てを目に入れるのは直視に耐えないので、目を細めて読み飛ばすしかないほどだった。ここまでやるか、というくらい徹底的におぞましい。
人物の描写は割と淡白だが、それでも会話を読み進めるうちに魅力的に思えてくる。恋愛や肉親との関係みたいな雑音が少なめなのが良い。邪魔がないからストーリーに没入できる。容姿の描写はほとんど無いのに、主人公の北島早苗がかなりの美人であることが伝わってくる。キャラが立つ会話と行動の描写だ。
貴志祐介は『新世界より』しか読んだことがなかった。こんなにすごいとは。ツイッターで見て5年近く前に保存した、ある読書リストでこの本が勧められていて、それがきっかけで読んだ。リストの作成者はこの5年で作家デビューを果たし、文フリでサイン本を配っていた。現地で話しかけようか迷ったが、あのリストをもっと消化して、自分も書いてからにしようと思う。