8月12日。父親が亡くなって1年。新盆見舞いに訪れた人たちとお話ししながら、父親が独りで黙々と農に勤しみ、それを周りの人たちも温かく見ていたことを改めて知りました。今、そのあとを展望もなく引き継いでいる息子には、父親の大きさばかりが感じられます。年齢からいって、早すぎることもないのですが、まだまだ生きていてほしかったなというのが実感です。
一昨日(10日)、岸田内閣「改造」のアナーキーというか「無原則」ぶりを見て、これでは統一教会はもちろん、資本と国家主義によるある種の攻勢(策動)に抗しきれない、むしろ、さらに助長するだろうなと、嘆かわしく思ったのですが、昨日、農と食を国家主義・排外主義の枠で語ることを拒否する声明が出されていることを知りました。
直接的には参政党がその綱領や公約に、有機農業や食の安全を掲げると同時に排外主義的な主張を並立させていることを批判したものですが、そもそも農や食文化の地域性・固有性を尊重することと、各地の農・食文化が相互に交流することは矛盾する話ではないと思います。これと相容れない排外主義を結びつけてくるのは、過去の歴史経験に照らせばナチスとの親近性を感じないではいられません。
父親はそんなに意識の高い農従事者ではありませんでしたが、いったん農から離れた人たちが、もう一度帰って来たらいいのにと思いながら、目の前の仕事をしていました。そんなことを言っているうちに齢を重ねて畑に出られなくなってしまいましたが、戒名に「朗」の字をいただいたくらいなので、どんな人とも分け隔てなく話すし、とりわけ農業技術の情報交換に至っては、よそ者だから、とか、外国人だから……という理由で聞く耳を待たないということは有り得なかったと思います。「知的財産権」などという狭量でせこい発想はなく、よそ者だろうが外国人だろうが、いいことは、どんどん教え、教えられたいと思っていたでしょう。
この声明、少し慌ててつくった印象が拭えませんが、趣旨自体には賛同し、 以下に転引用させていただきます。
私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します|starvalley|note
【声明】私たちは農と食が国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します
私たちは農民です。農民として、自分の身の丈に合わせ、自然と相談しながら営農を持続し、ある者は有機農業に挑戦し、地域の農業を維持してきました。自由に、思いや行動や知恵や技術を発揮できることに誇りをもって食を作ってきました。
私たちは消費者であり生活者です。私たちは食べる者として、自身と将来世代の誰もが健康で幸せに生きることができるように、安心して食べ続けられるように、消費者生活者としての運動をつみあげてきました。
それこそが農と食の民主主義だと私たちは考えます。
7月の参院選は食と農をめぐって、排外主義的な農業でも良しとするのかという問いを私たちに突き付けました。
はじめて選挙に登場した参政党が、大量の候補者を立て、当選者を出し政党要件を獲得するという出来事がありました。同党は三つの主要公約の一つに「化学的な物資に依存しない食と医療の実現と、それを支える循環型の環境の追求」を掲げ、有機農業や食の安全に関心をもつ人たちの中に小さなブームを巻き起こし票を集めたのです。
同党は綱領の第一に「天皇を中心に一つにまとまる平和な国をつくる」を唱え、主要公約の一つに、「日本の舵取りに外国勢力が関与できない体制づくり」「外国人労働者の増加を抑制し、外国人参政権を認めない」を掲げています。国家主義・排外主義の色彩が極めて濃い政党です。
有機農業運動はこれまで一貫して国際交流を大事にし、海外の実践に学び、日本の経験を分かち合いながらその思想や技術を発展させてきました。食の安全を求めて運動している消費者生活者は、世界中誰もが安心して食べられる世界をめざしています。国家主義・排外主義は私たちのこうした思いや実践と相いれません。
いま日本では、国民の危機意識を煽りながら軍備の大拡張に動き出しています。そのために邪魔になる憲法の改定が具体的な政治日程に上がっています。あらゆる分野で「安保優先」の動きが強まり、国家による監視と統制、排外主義が持ち込まれようとしています。農と食という生命の再生産をつかさどるもっとも人間的で自由でなければならない分野も、例外ではあり得ないと私たちは懸念します。
『私たちは、農民、消費者生活者が取り組む農業生産活動、有機農業や食の安全をめざす運動が、国家主義・排外主義の枠内で語られることを拒否します。』そのことを言いたくて、この声明を発します。
<以下略>
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