マガジンハウスの雑誌『クロワッサン』が提供するwebマガジン「クロワッサンオンライン」の光る君へ記事一覧です。 考察『光る君へ』48話「つづきは、またあした」まひろ(吉高由里子)の新しい物語へと三郎(柄本佑)は旅立つ「…嵐がくるわ」最終回、その強いまなざしの先に乱世が来ている
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2023年9月付の内閣府「外交に関する世論調査」では、中国に「親しみを感じない」と回答した日本人が86.7%に達し、調査開始から最悪の数字に達した。ところが、今年の夏休み映画の目玉『キングダム 大将軍の帰還』は、興行成績75億円、約513万人を動員する大ヒットを記録した。世論調査の結果は「中国ぎらい」なのに、日本人俳優が古代中国人を演じる映画を好んで見ているのが、われわれ日本人だ。 この矛盾の理由は、多くの日本人が『キングダム』や『三国志』に登場する歴史上の中国と、航空機の領空侵犯や沖縄への取り込み工作を繰り返している現代の習近平政権の中国を、完全に“別物”だと考えているためだ。しかし、この考えは日本人が勝手に思い込んでいるもので、中国人自身は歴史の延長線上で政治やビジネスをおこなっている。 ジャーナリストの安田峰俊氏の新著『中国ぎらいのための中国史』(PHP新書)は、現代中国における「中
ナタリー コミック 特集・インタビュー 9周年の「FGO」で学ぶ清少納言、平安の女流作家が「枕草子」で伝えたかったことは 1000年の時を越えてゲームで示された新解釈をたられば氏が解説 「Fate/Grand Order」 PR 2024年8月9日 スマートフォン向けゲーム「Fate/Grand Order(以下、「FGO」)」が、7月30日に9周年を迎えた。同作では人類の未来が失われた世界で、プレイヤーは主人公となり“マスター”として、伝説上の英雄などを召喚した“サーヴァント”と契約。ともに人類存続のための戦いに挑んでいく。人類滅亡の原因となる歴史上の7つの特異点を修正する第1部が2016年に完結。第1.5部の公開を経て、これまでの人類史とは異なる歴史を歩み繁栄した異聞帯(ロストベルト)を巡る第2部が現在展開されている。400騎以上登場する個性的なサーヴァントのキャラクターデザインには、
令和という元号の由来となった日本最古の歌集「万葉集」を現代の奈良言葉で超訳した本がシリーズ累計26万部となり、古典作品では異例のヒットを飛ばしている。刊行したのは、社員のいない一人出版社「万葉社」(高松市)を営む作家の佐々木良さん(39)だ。広告にお金もかけられない中で、ユニークな超訳が交流サイト(SNS)などを通じて広まるという、令和ならではのベストセラー誕生の物語はまだまだ続く。 何度、声をかけても振り向いてくれないことを嘆く男性の歌«玉葛 懸(か)けぬ時なく 恋(こ)ふれども 何しか妹(いも)に 逢ふ時もなき»。佐々木さんの超訳はこうだ。「マッチングアプリで『いいね』しまくってんねんけど 会うまでには発展せーへん…」。シリーズに収録された超訳はどれもユニークで、万葉の人々を身近に感じさせる。 佐々木さんが万葉集に注目したのは改元がきっかけ。万葉集ができた頃に首都だった奈良の言葉が標準
この人は、毎日、勉強していて楽しかったのだろうなぁと思いました。勘は鋭いし、具体的なことから抽象的なことを読み取る力も優れているし、一緒に話したら楽しいだろうなぁと思って、頁を捲ったのでした。 さて、宣長のすごい業績は、三つあります。 ひとつは、古典研究についてです。なんと言っていいのか分からない、ことばにしてしまうと失われてしまうかもしれない、日本的な情緒を「もののあはれ」ということばで表すことができたからです。 二つめは、日本語の文法についての研究、三つめは漢字音研究です。 さて、本居宣長の日本語の文法の研究の中心は、「係り結び」と「活用」です。「係り結び」は高校の古典で習いましたね。「ぞ、なむ、や、か」という「係り助詞」があると文末の活用形が連体形になる。「こそ」があると已然形になる。 これを発見したのは、本居宣長です。 古代日本人思考を知るカギだった 我々がいわゆる「古典」で習う『
忘れられた人々の「声」を拾い集め、それを「物語」として大衆の前で「演じる」こと。アニメ界の鬼才・湯浅政明監督の新作映画『犬王』は、室町時代に活躍した異形の能楽師・犬王(アヴちゃん(女王蜂))と、盲目の琵琶法師・友魚(森山未來)の運命的な出会いを描いた、スペクタクルな音楽活劇となっている。 古川日出男の小説『平家物語 犬王の巻』を原作に、その脚本を野木亜紀子が担当していることも大きな注目を集めている本作。野木亜紀子といえば、『アンナチュラル』、『MIU404』といったテレビドラマのオリジナル作品、さらには映画『罪の声』の脚本などで、「声なき者たちの物語」あるいは「忘れ去られた人々の声」を拾い上げてきた人気脚本家だ。 本作も、「奪われて失われた」者たちを描く。異形の子として生まれて蔑まれた犬王と、幼い頃に父と自らの視力を失った友魚。二人はバディとなって埋もれた平家の物語を大衆に語ることで室町時
>>>「平家物語」画像を全て見る(19点) 『聲の形』(16)や『リズと青い鳥』(18)などで知られる山田尚子監督の最新作が、サイエンスSARU制作の「平家物語」であることに注目が集まっています。 本作は、2022年の1月からテレビ放送が開始となりますが、フジテレビ・オンデマンド(FOD)で、9月16日から独占先行配信されています。「平家物語」は日本人のほとんどがその名を知る古典の名作ですが、今回のアニメ作品が原作としているのは、古川日出男さん訳による現代語版です。 京都アニメーションで数々の傑作を監督した山田監督が、それ以外の会社と初めて組んで、日本人の心象に深く刻まれたこの物語をどう描こうとしているのか、原作と映像を比較しながら考えてみたいと思います。 >>>【関連記事】<考察>アニメ「平家物語」と『この世界の片隅に』で紐解く“祈り”の継承 >>>【関連記事】アニメ「平家物語」歴史に詳
※本記事は「平家物語」、アニメ『平家物語』のストーリー展開に触れています。 胸に響く「滅びの歌」 アニメ『平家物語』が深夜の地上波で放送されている。 胸に刺ささる作品である。 主人公は、男のなりをした琵琶を弾く少女「びわ」。 ゆえあって平重盛の館に住むことになり、その子息の平維盛、資盛、清経らと兄弟のように育つ。 平家の栄華から没落をその内側から見続ける「他者」のポジションにいる。 ぼんやり見ているぶんには「平家のことを語り伝えるためだけにその中枢にいる妖精」のようである。 「平家物語」の語り手の化身とも言える。 その透き通った声が、見ている者の心を掴んでを離さない。 その透徹さは、時を越えていく。 800年を越えて語り継がれている『平家物語』は滅びの歌である。 平忠盛の出世から始まり、栄華を極めるさまから、一族もろともに滅んでしまう姿が活写される。 「やがてこの人たちは地上から消え去る人
映画ライターの杉本穂高と批評家・跡見学園女子大学文学部准教授の渡邉大輔が話題のアニメ作品を解説しながら、現在のアニメシーンを掘り下げていく企画「シーンの今がわかる!アニメ定点観測」。 第3回は、山田尚子監督作『平家物語』をピックアップ。山田監督が新たに取り入れた作画要素から見える日本アニメの流れや、“女性の物語”としての側面における本作の魅力などについて語ってもらった。(編集部) 動画も公開中 山田尚子らしい実写感と新たな版画的要素 杉本穂高(以下、杉本):『平家物語』を山田尚子監督が作ると初めて聞いたとき、どう思いましたか? 渡邉大輔(以下、渡邉):非常にミニマムな身の回りの日常を扱う作品で注目されてきた京都アニメーション出身の山田監督が、『平家物語』という日本を代表する貴族と武士の物語をどう作り出すのか興味深く感じました。あと、センシティブな話になりますが、『平家物語』は大きな災いの話
――現在放送中のTVアニメ『平家物語』、いかがでしたか? 古川 とても感動しました。あのオープニングアニメーションから最高ですよね。重盛が手を振って、徳子がニコッとしているだけで感動します。通しで2回見たんですけど、見るたびに理解が深まるという、そういう作品だなと思っています。 ――『平家物語』との出会いはどんなものでしたか? 古川 僕は福島出身で平家とは縁もゆかりもなく育ったので、学校とマスメディアから得る情報以外は持っていませんでした。那須与一(なすのよいち)が「ほうら、的を射た、すごいだろう!」みたいな、戦争をカッコいいと思ってしまうようなシーンが描かれた物語というイメージもあって。壇ノ浦の悲劇はわかっていましたが、それでも「勇壮な戦いのドラマ」として世間に流布していると感じていたんですよ。だから『平家物語』に肩入れしたことは、ずっとなかったんです。 ――『日本文学全集』を編むにあた
吉海 直人(日本語日本文学科 教授) みなさん、『枕草子』には伝統的な日本の四季折々の自然美や風物が鏤(ちりば)められていると思っていませんか。実はそれこそが誤解というか大きな間違いなのです。だってそうでしょう、春の風物としては「梅・鶯・桜・霞」などをあげるのが一般的ではないですか。『枕草子』にはそれが不在なのです。逆に清少納言が提起している「あけぼの」など、春を代表する景物ではありませんし、まして美意識にもあてはまりません。 それにもかかわらず、みなさんはそれを平安朝貴族の美意識として受けとっている恐れがあります。それが高校で学んだ成果だとしたら、それこそ学校教育の弊害ということになりかねません。 そこで考えていただきたいのは、仮に「あけぼの」が春の景物として当時認められていたとしたら、清少納言はごく当たり前のことを提示していることになります。それでは宮廷で評価・称讃されるはずはありませ
前編に続き、ブクログ通信編集部『源氏物語 上』角田さんに独占インタビュー!後編では、『源氏物語』を訳す中で角田さんが感じた、日本語の面白さについて語られています。 取材・文・撮影/ブクログ通信 編集部 持田泰 大矢靖之 猿橋由佳 運命を「俯瞰」して見ている面白さ ―角田さん自身の『源氏物語』の作品の印象、あるいは作品としての魅力とはズバリなんでしょうか? いろんな人がいて、みんな違うところを見てると思うんですね。誰しもがわたしよりも『源氏』をよく知っていますから、いろいろな魅力をいっぱい聞かされてきましたけれど、実際翻訳にとりかかってわたし一番面白く感じた点は、「運命を俯瞰して見ている」ところなんですね。一人の人間の運命というよりも、人間の宿命とか運命っていったものを、ちょっと上から見ている物語っていう点において、面白かったです。今まで源氏についてそういう物語だよって誰も教えてくれたことは
大体読んだフリできます 山本て 南総里見八犬伝は、ちょっと簡単には読破できない、長ーい小説です。でもとても面白いものなので、興味のある人向けに、あらすじをここにまとめてみます。(完結済) もとにしている本は、岩波文庫の『南総里見八犬伝(全十巻)』です。カテゴリに「オリジナル小説」しかないのでそうしたけど、もちろん本来の著者は曲亭馬琴センセイです。言うまでもないことですが、この「あらすじ」は、原典を忠実に現代語訳したものでもないですし、きっと読み間違いしているところもたくさんあります。大体合ってる、という程度でご勘弁を。 フォロー・レビューしてくれる方、それ以外でも追っかけてくれてる方、ありがとうございます。気に入ってくれた方は、原文読んでみるのもオススメです。好きな名場面だけでもチャレンジしてみるといいですよ。
日本の古典文学の中で、もっともよく知られている作品は何かといえば『源氏物語』を挙げるかたが多いと思います。 『源氏物語』の作者、紫式部は、973年(天延元年)ごろ、中流貴族の娘として生まれました。 本名は定かでなく「紫式部」という呼び名は、『源氏物語』の女主人公「紫の上」に由来するといわれます。 998年(長徳4年)に藤原宣孝[のぶたか]と結婚しますが、3年後に夫と死別、そのころから『源氏物語』の創作を始めたとされています。 今日、お招きいたしました瀬戸内寂聴先生は、『源氏物語』の現代語訳全10巻を発表され、平成の「源氏ブーム」の火付け役となったことは記憶に新しいところです。 また全五十四帖の『源氏物語』に、実はもう一帖があったのではないかとお考えになられ、このたび、新しく「藤壺[ふじつぼ]」をご執筆なさいました。 本日は、『源氏物語』における愛について、そして11月に刊行が予定されており
万葉集はわが国最古の歌集であり、世界的にも非常に古い詩集のひとつである。成立したのは、日本史で言えば奈良時代の終わりころであり、西暦で言えば八世紀の末にあたる。その時代に、民族の感性を集約したような歌集=詩集が編まれたというのは、非常に意義深いことである。ある意味で、中国の詩経国風に相当するものと言えなくもない。万葉集に盛られた歌の精神は、以後日本人の感性の原点となって、日本の詩歌の歴史を駆動していく原動力ともなった。万葉集は今日に至るまで、つねに民族の心を舞台にして、日々新しい意味を付与されているとも言える。つまり眠ることのない歌集なのである。 万葉集全二十巻に収められた歌の数は、およそ四千五百首。うち長歌が264首、短歌が4208首、旋頭歌が63首である(ほかに仏足石歌1首)。巻の構成は、大きくわけて、宮廷を中心とした名のある人々の歌を収めた巻(巻一から巻十まで)、柿本人麻呂歌集ほか名
僕は、確か小学生の頃、平家物語を読んで感動し、同じ感動を味わおうと思って源氏物語に取り組んだ。田舎の少年は、源氏物語は武家としての源氏の盛衰を描いたものに違いないと勝手に決め込んでいたのである。読み始めて、おそろしく拍子抜けしたことが記憶に残っている。途中で投げ出した源氏物語に、再び取り組んだのは高校生の頃ではなかったか。その時は漱石よりもむしろ惹かれるものがあった。20世紀文学の双璧と言われるジョイスやプルーストにも決して引けを取らない大ロマンが、1,000年も前に日本で書かれていた、田舎の高校生はとても誇らしく思ったものだった。 ところで、全ての物語にはそれに先行する物語(群)があると言う。人間の独創力は実はそれほど大したものではないので、次々と翻案を重ねていくのである。例えばダンテの「神曲」は、トレードの工房で翻訳されたムハンマドの天国と地獄への旅を扱ったイスラームの物語「階梯の書」
中国語を学びたいと思った動機の一つは、漢文と中国語がどう違うかということだった。違うということは知っていた。現代中国人も論語などは読めないということも知っていた。が、それがどういう感覚なのかというを、その内側に入って知りたいと思った。 普通に考えれば、私たち現代日本人も平安朝文学をそのままでは読めないが、それでも、一定の年齢になって長く日本語というのに接していると、古代の言葉もそれなりにわかる部分は出てくる。その歴史的な言語感覚は、中国人の場合、どういうものだろうか。 それが少しずつ見えてきた気がする。 論語の冒頭を例にしてみたい。現代の日本の漢字を使うとこうなる。なお高校とかでは日本漢字で教えているだろうか。 子曰:“学而時習之,不亦説乎。有朋自遠方来,不亦楽乎。人不知而不慍,不亦君子乎” これを学校では、こう下していると思う。他の下し方もあるが。 子曰く、学びて時に之を習う、また説ばし
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