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人類学者でなくとも,この分野で最も影響力のある概念の1つである「男性は狩猟者(Man the Hunter)」はおそらく聞いたことがあるだろう。狩猟は人類の進化の主な推進力であり,狩猟を担ったのは男性であって女性が狩りをする余地はなかったとする学説だ。人類の祖先は男性と女性の生物学的な差異に根ざして分業制をとり,男性は狩猟と獲物の分配を,女性は子育てと家事を担うよう進化したとする。また,男性は女性より身体的に優れており,女性は妊娠と子育てのために狩りの能力が低い,あるいはないと決めつけている。 この「男性は狩猟者」説は,人類の進化研究を半世紀近く支配し,大衆文化にも浸透した。博物館のジオラマでも教科書の挿絵でも,土曜朝のアニメや映画でもそのように描かれている。ところが,これは間違っているのだ。 マラソンなど持久力を要する運動は,男性よりも女性の方が生理学的に適していることを示す証拠が運動科
近年最も注目を集めた技術といえば,何といっても人工知能(AI)であろう。2024年のノーベル物理学賞は,人工ニューラルネットワークを物理現象を語るモデルを用いて構築し,現在のAIの基礎を築いた米プリンストン大学名誉教授のホップフィールド(John Hopfield)とカナダのトロント大学名誉教授のヒントン(Geoffrey Hinton)に授与される。 ニューラルネットワークは1943年,米国の神経生理学者マカロックと論理学者ピッツが提案した脳神経回路の数理モデルに端を発する。神経細胞に当たるノードが複数結合して相互作用し,入力が一定値を超えると発火するシステムで,任意の論理演算を実現できることを示した。 1957年には米国の心理学者ローゼンブラットが,ノード同士の結合の強さを変えることでパターンを学習する「パーセプトロン」を提唱した。電気回路に実装して注目を集め,ニューラルネットワークの
自分の心身で生じている感覚や感情,思考にありのままに気づいている状態「マインドフルネス」を実現する瞑想に,全世界で何百万人もの人々が取り組んでいる。メンタルヘルスのためだけではない。心身が健やかで満たされた状態(ウェルビーイング)やストレスの軽減,仕事の生産性向上を求めて行っている。 この10年間で瞑想の神経科学的な理解は目覚ましく進み,非常に多くの臨床研究でその健康上の利点が示されてきた。マインドフルネスはもはやマイナーではなく主要な健康習慣となっている。英国民保健サービスは,うつ病に対してマインドフルネス療法を推奨している。取り組み方を教えてくれるモバイルアプリも登場し,瞑想の実践に新時代が到来している。 瞑想の研究アプローチもまた,同様に進化してきた。その研究の“波”を振り返ろう。1990年代半ば頃から2000年代初頭にかけて起きた第一波では,様々な精神的・身体的な健康問題を解決する
私たちの体には,自分の意志で動かせる部位とそうでない部位がある。手足を自在に動かすことはできても,心臓や胃腸を好きなタイミングで動かすことはできない。筋肉に随意筋と不随意筋があることは,高校生物でも学ぶ話だ。しかし訓練を積めば,その垣根を跳び越えることができるらしい。ラットは訓練によって心拍数を意識的に制御できるようになるという論文が,2024年6月にScience誌に掲載された。研究を行ったのは,神経科学を専門とする東京大学教授の池谷裕二らのチームだ。池谷の研究室に在籍する博士課程の大学院生で,論文の筆頭著者である吉本愛梨に話を聞いた。� 心拍数が半分以下に まず,実験中の映像を見せてもらった。小さな部屋の片隅で,頭部に電極のつながったラットがじっとしている。一見変化はないが,このラットは今「心拍数を15%低下させる」という訓練課題に取り組んでいる最中だ。この課題が10回クリアできたら,
2024年のノーベル化学賞は「コンピューターを用いたタンパク質の設計」の功績で米ワシントン大学のベイカー(David Baker)教授に,「コンピューターを用いたタンパク質の構造予測」で英国Google DeepMindのハサビス(Demis Hassabis)氏とジャンパー(John Jumper)氏に授与される。 タンパク質は20種類のアミノ酸が数珠つなぎになった分子だ。それがくねくねと折りたたまれて,複雑な立体構造をとる。この「数珠つなぎ」と「立体構造」の間に,「50年来の生物学のグランド・チャレンジ」と呼ぶべき,大きな未解決問題があった。タンパク質の立体構造予測だ。 タンパク質の立体構造予測は,タンパク質の生化学はもちろん,創薬や医学研究の観点からも実現が望まれてきた。タンパク質の形状や表面の微細な凹凸などがタンパク質の機能を左右するからだ。 構造予測の歴史 1970〜1980年代
2024年のノーベル物理学賞は,「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明」の功績で,米プリンストン大学のホップフィールド(John Hopfield)名誉教授とカナダのトロント大学のヒントン(Geoffrey Hinton)名誉教授に授与される。 ある技術が社会で広く使われ生活や産業を大きく変えたとき,その原点に立ち戻り,最初の一歩となった成果にノーベル賞が授与されることはしばしばある。今回の授賞がまさにその例だ。物理学賞を受賞した2人は1980年代に,今,最も注目が集まっている人工知能(AI)の根幹である人工ニューラルネットワークの基礎を築いた。 ヒントになったのは,磁性の振る舞いを語るのに使われている物理学のモデルだ。磁性体はしばしば,互いに影響を及ぼし合う電子のスピン(自転の向きに相当する)が縦横に並んだモデルで記述される。各スピンはお互いの距離と相互作
今年のノーベル生理学・医学賞は「マイクロRNAとその転写後遺伝子制御の仕組みの発見」の功績により,米マサチューセッツ大学のアンブロス(Victor Ambros)教授とハーバード大学のラブカン(Gary Ruvkun)教授に授与される。 ヒトの遺伝子の数は約2万個ある。しかし,それらの情報だけでは受精卵が正しく成長して赤ん坊になることはできない。いつ,体内のどの場所で,どの遺伝子を使えばいいかが分からないからだ。同じ2万個の遺伝子を持つ細胞が,あるものは筋肉へ,あるものは神経へと全く異なる細胞に姿を変えるためには,遺伝子の働きを制御する仕組みが必要になる。その仕組みに関わるのがマイクロRNAだ。 マイクロRNAは数十個程度の長さの塩基配列で,普通の遺伝子に比べるとずいぶん短い。マイクロRNAはタンパク質に翻訳されることはないが,他の遺伝子のmRNAと部分的に結合して,その遺伝子が働くタイミ
日経サイエンス編集部 2024年6月24日 A4変型判 27.6cm×20.6cm 128ページ ISBN978-4-296-11967-7 定価2,420円(10%税込) ご購入はお近くの書店または下記ネット書店をご利用ください。 私たちは何者なのか──。人類学や考古学の研究に触れる時,私たちはある種の切実な好奇心をかき立てられる。近年,ゲノム科学がこれらの学問分野に盛んに取り入れられ,新たな発見が相次いでいる。縄文・弥生時代の日本列島を中心に,ゲノム科学を駆使した世界の歴史研究の成果を伝える。 日経サイエンス編集部 はじめに Chapter1 先史時代の日本列島 47都道府県人のゲノムが明かす 日本人の起源 出村政彬(編集部)協力:大橋 順/篠田謙一/藤尾慎一郎/斎藤成也 浮かび上がる縄文人の姿と祖先 古田 彩(編集部)協力:篠田謙一/神澤秀明/佐藤孝雄 縄文人の痕跡を現代人に探る 内
蜂蜜と酢を混ぜた伝統薬は単独よりも殺菌効果がはるかに高い 蜂蜜と酢を混ぜ合わせた「オキシメル」は伝統的な薬で,大昔からあった。中世の薬屋が売り,ヒポクラテスが処方し,医師で哲学者でもあったイブン・スィーナー(Ibn-Sīnā)はその効果を激賞した。現代ではそのような混合物は傷口につけるよりもサラダにかけるべきものに思えるが,抗生物質耐性菌が増えつつあるなか,難治性の感染症と闘う新たな方法が強く求められている。最近のMicrobiology誌に発表された研究は,この点でオキシメルが実際に役立つ可能性があると報告している。 「現在,蜂蜜と酢酸はそれぞれ単体で創傷感染の治療に使われている」が,通常は混ぜて使うことはないと,この研究論文の共著者で伝統薬の抗菌特性を研究している英ウォーリック大学の学際研究者コネリー(Erin Connelly)はいう。蜂蜜は高い糖濃度と酸性度で細菌にストレスを与えて
白菜に葱,大根,人参──こうした野菜はどれも日本の食卓に欠かせないものだが,来歴をたどれば全て原産地は海外だ。たとえば白菜の原産地は中国北部,人参の原産地はアフガニスタンやイランのあたりとされる。大陸から海を渡ってきた縄文人や渡来人と同様,野菜もまた海の彼方からこの日本列島へやってきたのだ。しかしゲノム解析によって,赤飯やあんこに使われるアズキが縄文時代の日本列島で作物に変化し,アジアの大陸地域へ広まった作物であることが明らかになった。この研究を行った,国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構(農研機構)上級研究員の内藤健に話を聞いた。 再録:別冊日経サイエンス269『ゲノムで解き明かす人類史 縄文・弥生を生きた人々のルーツを探る』 協力 内藤 健(ないとう・けん) 農研機構遺伝資源研究センター上級研究員。農業への応用の観点から,海沿いや乾燥地,寒冷地など様々な環境に適応する野生アズ
イヌは最も古くから人間のそばで生きてきた動物だ。2万~4万年前にユーラシア大陸でハイイロオオカミから分かれて,猟犬として飼い馴らされた。日本列島には縄文時代に入ってきたとする説が有力で,国内最古のイヌの骨は神奈川県の夏島貝塚から出土した約9500年前のものだ。愛媛県の上黒岩岩陰遺跡では7200~7400年前にイヌを埋葬していたとされる骨も見つかっていて,考古学的な史料からは「縄文犬」が狩猟採集を営む縄文人にとって欠かせない存在だったことがわかる。 最近の研究では,日本列島におけるイヌの変遷も少しずつ見えてきた。遺跡から出土した縄文犬の骨からミトコンドリアDNAを抽出して配列を調べたところ,全て縄文犬だけに見られる固有のタイプで,1万1500年前に大陸で他のタイプから分岐していることがわかった。夏島貝塚の年代も考慮すると,イヌは9500~1万1500年前の頃に日本列島に入ってきたとみられる。
1万6000年前から3000年前まで日本列島で縄文文化を支えた縄文人の遺伝子はいま,どこにあるだろう。縄文人集団と,大陸から渡来した東アジア人集団が混血して現在の日本人集団となった。縄文的特徴は薄くなったが,その遺伝子のかけらは今も日本人集団の中に存在している。縄文人のかけらを現代日本人のゲノムから抽出しようという研究が進んでいる。 東京大学大学院理学系研究科でヒトゲノム多様性をテーマに研究している渡部裕介と大橋順のグループは2023年,日本の現代人ゲノムから縄文人に由来するとみられる変異を特定し,それに基づいた「縄文人度合い」で日本本州の各地域の差異を見ることに成功した。 さらに,縄文人由来変異は今の日本人に具体的に表れている形質,つまり表現型を見る新しい視点にもつながる。日本人のゲノムを「縄文人由来」と「渡来人由来」に分類し,これまでのゲノムワイド関連解析でわかってきた60種類の量的形
ノルウェー科学技術大学のデータ科学者ベンジャミン・A・ダンが1枚の画像を見せてくれた。点が均一ではなく,なんとなくストーンヘンジの岩のように分布している画像だ。その全体的なパターンは少なくとも人間には明らかだ。「私たちが見ればこれは間違いなく円だ」とダンは言う。しかし,コンピューターはこのシンプルな形を認識するのに苦労するだろう。「コンピューターは全体像をつかめないことが多い」。 多くの科学プロセスにはループ,つまり繰り返しが含まれている。コンピューターがこうした関係性を捉えられないことは,極めて多数のデータ点に潜む円形パターンを明らかにしたい科学者にとって問題だ。データは多くの場合,夜空の星のように,空間に浮かぶ点として視覚化される。例えば,公海上での船の位置を示す緯度と経度の2個の数字は,物理的位置として1つの点でプロットされる。同様に,遺伝子は多くの次元を持つ数学的空間中にプロットで
「木を見て森を見ず」ということわざの存在は,物事の全体像を捉えるのがとかく難しいことを表している。ビッグデータの解析は,ちょうど巨大な森を一望しようと試みるようなものだ。近年のデータサイエンスでは,ビッグデータの全体的な構造をうまく捉える「トポロジカルデータ解析」という手法が注目されている。今世紀に入ってから急速に発展したこの手法は,材料科学や生命科学から企業の技術戦略に至るまで,幅広い分野で威力を発揮しつつある。� トポロジカルデータ解析とは,その名の通りトポロジー(位相幾何学)を使ったデータ解析手法だ。トポロジーで最も有名なのは,「穴の開いたドーナツと持ち手の付いたコーヒーカップ」の例だろう。トポロジーの観点で見ればこの2つは同じ形だ。どちらも立体の中に穴が1個貫通しており,穴を残したまま残りの部分を粘土のようにぐにゃぐにゃと変形させれば,両者の形の間を自在に行き来できる。 中学校の数
この半世紀における最も衝撃的な発見の1つは,私たちの住む世界が局所的かつ実在的であるという,これまで当然とされていた前提が覆ったことである。ここでいう「実在」とは,物体が観測とは無関係に確定した性質を持つ,という意味だ。一方「局所的」とは,物体は周囲の環境からしか影響を受けないし,その影響が光より速く伝わることはない,ということを意味する。ところが量子物理学の最前線の研究は,この2つの性質が両立することはありえないことを明らかにした。 この発見は,私たちの日常的な経験とは大きく違っている。かつてアインシュタインはこれを嘆き,友人に「君は本当に,君が見ていないときには,月はそこにないと思うのかい?」と問うたという。作家ダグラス・アダムスの言葉を借りるなら,局所実在の前提を捨てることには「多くの人がたいへん立腹したし,よけいなことをしてくれたというのがおおかたの意見だった」(『宇宙の果てのレス
ある数学愛好家が発見した帽子に似た図形に数学界が沸き立っている 英ヨークシャー在住の数学愛好家スミス(David Smith)が,とある13角形を発見した。数学者による探索を何十年もかいくぐってきた図形だ。いかつい帽子に似たその形(次ページの図で太線で描かれている図形)は,ドイツ語で「1個の石」を意味する「アインシュタイン」という名で呼ばれている。アインシュタイン・タイルを使うと浴室の床を隙間なく敷き詰めることができ,しかも同じパターンが繰り返されることが決してない。浴室の床だけでなく,どんな平面でも,それが無限に広がっていても,これが可能だ。 非周期的にしか敷き詰められないタイル 数学者は長年,敷き詰めが必ず非周期的になる「強非周期的タイル張り」を実現するタイル形状を探し求めてきた。まず見つかったのは形状が様々に異なるタイルのセットだった。1964年に発見された最初のセットは2万426種
2023年のノーベル化学賞は,「量子ドットの発見と合成」の業績で米マサチューセッツ工科大学のムンジ・バウェンディ(Moungi Bawendi)教授,米コロンビア大学のルイス・ブルース(Louis Brus)教授,旧ソビエト出身のアレクセイ・エキモフ(Alexei Ekimov)氏の3氏に贈られる。 高性能ディスプレー,安価な太陽電池,体内の物質動態を追いかける蛍光マーカーなど,今,極めて幅広い技術に応用されつつあるのが量子ドットだ。量子ドットとは,直径が数ナノメートルから数十ナノメートル(ナノは10-9,つまり10億分の1)ほどの半導体の微粒子のことだ。 物質をナノサイズに縮めると,中の電子が狭い範囲に閉じ込められ,物質の特性が大きく変わることは,量子力学が確立して間もない1930年代から理論的に予測されていた。 1980年代前半,旧ソ連の研究者エキモフ氏は,塩化銅を同じだけ添加した色ガ
2023年のノーベル物理学賞は「物質中の電子ダイナミクスを研究するためのアト秒パルス光の生成に関する実験的手法」に対して,米オハイオ州立大学のピエール・アゴスティーニ(Pierre Agostini)名誉教授,マックス・プランク量子光学研究所のフェレンツ・クラウス(Ferenc Krausz)教授,スウェーデン・ルンド大学のアンヌ・ルイリエ(Anne L’Huillier)教授の3氏に授与される。 電子は文字通り目にもとまらぬスピードで物質中を移動する。その動きを撮影するカメラがあれば,様々な物理現象の解明や材料開発に役立つ。しかしそのためには,ごく短い時間だけ光る「フラッシュ」が必要だ。フラッシュが光る時間が長いと,その間に電子が動き回ってブレてしまう。 まず,1980年代の後半に原子のレベルで化学反応を捉える手法が登場した。フェムト(10-15,つまり1000兆分の1)秒だけ光るレーザ
2023年のノーベル生理学・医学賞は,新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対する効果的なmRNAワクチンの開発を可能にしたヌクレオシド塩基修飾の発見に対して,米ペンシルベニア大学のカタリン・カリコ(Katalin Karikó)非常勤教授と同大のドリュー・ワイスマン(Drew Weissman)教授に授与される。 mRNAワクチンはCOVID-19ではじめて実用化したワクチンだ。その構造は簡単で,脂質膜でできた100nmほどのカプセルの内側に人工的に合成された紐状のmRNAが閉じ込められている。COVID-19向けのワクチンの場合,mRNAにはウイルスの表面に突き出した突起部(スパイク)の設計情報が記載されている。 これまでのワクチンには,弱毒化生ワクチンや不活化全粒子ワクチンといった病原体をまるごと含むワクチンや,病原体の一部のタンパク質だけを培養細胞の中で合成した組み換えタン
2004年12月のある朝,老人と子どもたちがベンガル湾にあるストレイト島の海岸を散歩していた時,1人がおかしな状況に気づいた。海面が普段より低くなり,通常は弱光層(海中の光がぎりぎり届く層)に暮らしている奇妙な外見の生き物たちが海面近くで跳ねていた。“Sare ukkuburuko!(海がひっくり返ってしまったぞ!)”とナオ・ジュニアは叫んだ。自分の母語を通して何千世代にもわたって伝えられてきた知恵の最後の継承者の1人として,ナオ・ジュニアはこの奇妙な現象が何を意味するかを知っていた。アンダマン諸島の他の先住民もナオ・ジュニアと同様知っていた。先住民たちはみな内陸の高台へ駆け上がった。先祖伝来の知識が壊滅的な津波から先住民たちを救ったのだ。数分後,津波はインド洋沿岸全域の海岸線に押し寄せ,22万5000人余りがこの津波にさらわれた。 私が初めてナオ・ジュニアに出会った時,彼は今なお先住民族
脳科学と人工知能(AI)研究は,互いに影響を与えながら発展してきた。脳科学はAI開発のインスピレーションとなり,機械学習は脳を理解するためのヒントとなる。昨今のAIにおけるブレイクスルーもまた,脳科学に示唆をもたらしつつある。 脳を理解するために有用な視点に「座標系」がある。実際に脳科学は,脳が様々な情報をマップする多様な座標系を持つことを明らかにしてきた。その一方,異なる種類の座標で得た情報をどう統合するかというバインディング問題が未解決のまま残されてきた。 現在,AIの世界では,ChatGPTなどの大規模言語モデルが依拠するTransformerアーキテクチャの威力が驚きをもって受け止められている。このTransformerと脳との対応を精査することは,実は脳がどのようにバインディング問題に対処しているかについて重要な示唆を与える。 さらに,Transformerの成功は,脳が現在や過
1990年代初頭,独ベルリン自由大学の博士課程の学生だった私はハナバチにおける色覚の進化のモデル化に取り組んでおり,植物学の教授に花の色素について尋ねたことがあった。ハナバチに合図を送るために花が色を作り出す自由度がどの程度あるのかを知りたかったのだ。彼は私と議論するつもりはないといくぶん不機嫌な様子で答えた。理由は,私が所属していた研究室が生きたミツバチに対して侵襲的な手法を用いていたからだ。その教授は昆虫には苦痛を感じる能力があると固く信じていた。私はこりゃダメだ,この先生は正気じゃないと諦めて彼の研究室を後にしたのを覚えている。 当時は私の考え方が主流派だった。苦痛は意識的経験であり,多くの学者が意識は人間に特有のものだと考えていた。しかし,数十年にわたってハナバチの知覚や知能を研究してきたいま,私はベルリンの植物学教授は正しかったのではないかと考えている。 この間,ハナバチなどいく
あなたがはめているプラチナや金の指輪には,宇宙における大きな謎が秘められている。そうした重元素が生まれる場所を突き止めるため,銀河宇宙がくまなく探されてきた。軽い元素,具体的には原子1個に陽子2個を持つヘリウムから,陽子26個を持つ鉄までの元素の起源はかなりわかっている。それらの大半は星内部の核融合で作られる。一方,鉄より重い元素については,私たちの知識は曖昧になってくる。原子1個に陽子79個を持つ金はそうした方法では作られない。白金(プラチナ)やキセノン,ラドン,多くのレアアースも同様だ。 こうした重元素の起源やそれらが地球に存在するようになった理由について,数十年にわたって議論されてきた。最も有力な仮説は,宇宙で起こった非常に激しい現象が引き金となった「速い中性子捕獲(r過程)」だ。最近まで,この説には観測的証拠がなかった。状況が変わったのが数年前,中性子星合体の際の重力波が検出され,
日経サイエンス編集部 2023年6月21日発売 A4変型判 27.6cm×20.6cm 128ページ ISBN978-4-296-11789-5 定価2,420円(10%税込) ご購入はお近くの書店または下記ネット書店をご利用ください。 男性と女性を二分する性の捉え方は,生物学的にも文化的にも不十分なものとして認知されるようになった。一方,多様性をめぐる誤解や誤った対応はしばしば問題を引き起こしている。科学の知見をもとに,広い視野から個と社会の幸福と利益を考える。別冊228「性とジェンダー」のリニューアル版。 日経サイエンス編集部 はじめに 第1章 性とジェンダー 科学の視点から 男女関係の神話 C. ファイン/M. A. エルガー 男女の脳はどれほど違う? L. デンワース トランスジェンダーの子どもたち K. R. オルソン 性はXとYだけでは決まらない SCIENTIFIC
宇宙はどのくらいの速さで膨張しているのか? 私たちの近くの宇宙では物質がどれほど寄り集まっているのだろう? こうした問いに答える方法は2つある。初期宇宙の観測結果を現在の宇宙に外挿する方法と,近傍宇宙を直接観測する方法だ。だが問題がある。この2つの方法から得られる答えが常に異なっているのだ。 こうした矛盾の最も単純な説明は,単に観測のどこかに間違いがあるというものだが,もっと驚くべき別の可能性も考えられ始めている。理論的予測と観測,初期宇宙と後期宇宙という2つの面で高まっている緊張関係は,宇宙に関する私たちの知識や前提をもとにした宇宙論の標準モデルに何か重大な欠陥があることを示しているのかもしれない。その欠陥を見つけ出して修正できれば,宇宙についての理解は一変するだろう。 「こうした緊張関係を追究することは,宇宙を知るための素晴らしいアプローチだ」とノーベル物理学賞を受賞したジョンズ・ホプ
米国立点火施設(NIF)の科学者たちは昨年12月,太陽で起こっているのと同様の核融合反応に基づくエネルギー源を作り出すという数十年来の取り組みでブレークスルーを達成したと発表した。「信じ難い技術的驚異」と自賛し,新聞各紙はこれを一斉に大きく報じた。Washington Post紙は「まさに記念すべきこと」と評した。テレビ解説者は核融合の未来について,クリーンエネルギーと世界の貧困の問題を解決し,世界平和をもたらすだろうとまで述べた。 検分してみると,今回の前進はこれらの報道が示すほどセンセーショナルなものではない。研究者が達成したのは,核融合反応を起こすのに要したのを上回るエネルギーを生み出す「点火」という条件だ。だが,その規模は実際の発電に必要とされるものには程遠く,ましてやクリーンエネルギー新時代の先触れとはいえない。核融合反応を起こすのに要したエネルギーとして報告されたものは,装置の
昨年12月,核融合に取り組んでいる物理学者たちがブレークスルー達成を宣言した。カリフォルニア州にある米国立点火施設(NIF)のチームが,制御核融合において反応を起こすために投入された以上のエネルギーを取り出したと発表したのだ。これは世界初であり,物理学にとって重要な一歩だ。だが,核融合をエネルギー源として実用化するには程遠い。注目を集めたこの発表が生んだ人々の反応は,核融合研究に対するお決まりのパターンとなった。この技術の熱心な支持者たちは喝采し,懐疑的な人々は相手にしなかった。懐疑派は,これまでも科学者はあと20年(ここには30年や50年など適当な数が入る)で核融合発電が実現すると請け合い続けてきたと訴える。 こうした強烈な反応は,核融合への高い期待を反映している。化石燃料燃焼から生じた気候危機を軽減できるクリーンで豊富なエネルギー源がますます切望されている。軽い原子核を融合させる核融合
核融合の実現を目指した巨大実験装置の準備が,日本と欧州で佳境に入っている。茨城県那珂市の量子科学技術研究開発機構(QST)に日欧共同で建設した核融合実験装置「JT-60SA」は,5月末に試験運転を開始した。超電導コイルが作り出す強い磁場によってプラズマをドーナツ形の空間に閉じ込め,模擬燃料の重水素2つを融合してエネルギーを発生させる。 装置は2020年に完成したが,試験運転を始めたところ,電流を流す電路の絶縁が劣化し放電を起こすトラブルが発生した。問題箇所を洗い出し,100カ所以上を補修して,2年2カ月ぶりに試験運転の再開にこぎつけた。今秋にプラズマの生成実験を開始する見通しだ。 一方,日本,米国,欧州,ロシア,韓国,中国,インドの7極が共同で南フランスで開発を進めている国際熱核融合実験炉ITERは,建設が全体の8割まで進み,その巨大な姿を現し始めた。2025年にプラズマの生成実験を開始し
ジョン・A・ホイーラー(1911~2008) 量子論の創始者ボーアの直弟子で,アインシュタインの友人だった20世紀最後の物理学の巨人,ホイーラー(John Archibald Wheeler)が4月13日,96歳で死去した。ブラックホールの名付け親で,相対性理論や量子重力理論など幅広い分野で成果を上げたが,それ以上に,傑出した物理学者を数多く育てた名伯楽として知られた。ノーベル賞を受けたファインマン(Richard Feynman)や重力とブラックホールの理論で著名なカリフォルニア工科大学のソーン(Kip Thorne),量子コンピューター理論を提唱した英オックスフォード大学のドイチュ(David Deutsch)ら,独創的でしばしば型破りな研究者たちだ。 「ホイーラーは次代の物理学に何が重要かを見抜く類まれな勘を持っていた」とドイチュはいう。常に物理学を幅広く見渡し,宇宙の本質を追究する
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